マートン『社会理論と社会構造』序章・1章


序論 (p.p.1-14)

 本書に収録された諸論文は、「理論と調査の統合」、「理論と方法の系統的整理」という関心に沿って蒐集されたものである (:1)。
 まず、理論について語る前にマートンが注意を向けさせるのが「中範囲の理論」ともいうべきものである (:3)。これは「日々繰返される調査などで豊富に展開されている、小さな作業仮説」と「社会行動の、非常に多くの劃一性をできれば導出するような主要な概念図式を内容とする包括的思弁」とを媒介する理論を指す (:3)。成立してから日の浅い学問である社会学においては特に、「中範囲の理論をもっぱら心がけているときは発達し、大仕掛けの理論に注意が集中しているときは欲求不満に陥るであろう」。これを踏まえるならば、今日の社会学者の任務は「一定の限られた範囲のデータに適用できる特殊な理論」を作ることであり (:6-7)、今日の社会学はこのような特殊理論を通して、またこれらの特殊理論を統合させることのできる一般的な概念図式の深化を通して前進するべきである (:7)。
 そして、理論と方法を系統的に整理するにあたって、マートンは「分析的範例の方法」を用いることを提案している (:10)。範例は事象を記述・分析する際に用いる諸概念の配列を示し、隠された想定や概念を導入するということを防ぐ機能を持つ。また十分に信頼を置ける範例は、続く解釈の土台となることで「理論的解釈の累積」を助ける。加えて、範例は重要な概念についての体系的なクロス表を示唆する [注1]。こうしたことを通じて分析的範例においては研究手続きが標準化され、またその内容はテスト可能なものとなる (:12-14)。

[注1]例えば第四章で登場する個人的適用様式の諸類型 (:129) などのように。なお、こうした表において隠された想定や概念が本当に導入されていないかはかなり怪しいように思われる。


第一章 顕在的機能と潜在的機能 ―社会学における機能分析の系統的整理のために。―

〇 機能分析の方法。
 本論文は機能分析の方法を明らかにするために、その主要概念の体系的な吟味を試みるものである (:16)。
 マートンはまず手始めとして、機能 (function) という用語の分析を行う。社会学にとって重要なのは、「有機体の維持に役立つという観点からみた生命的または有機的な過程」を指す場合の用法であろう (:18)。また、それは「観察者の観点を含み、必ずしも当事者の見地を含まない」 ものであり、「観察しうる客観的諸結果を指す」ものである (:20)。したがって、機能という語を用いる場合は「意向を指す主観的範疇と観察された諸結果を示す客観的範疇とを明確に区別する」べきであるといえる (:21)。
 そのうえでマートンは、これまで機能という語が用いられる際には三つの相異なる公準が採用されていたことを指摘し、さらに機能という概念の分析を進める (:22)。その三つの公準とは、第一に標準化された文化活動や文化項目が全体に対して機能的であるとする公準 (社会の機能的統一の公準)、第二に標準化された社会的項目や文化的項目のすべてが機能を果たしているとする公準 (普遍的機能主義の公準)、第三にこれらの諸項目を全体に対して不可欠のものとする公準である (不可欠性の公準)。これらの公準はそれぞれ問題を持つ。例えば宗教が統合と同時に葛藤を引き起こすことからもわかるように、第一の公準のような全体性を想定することには困難がある。したがって、機能分析にあたっては「一定の社会的または文化的項目が機能的となるための単位を明記せねばならない」(:26)。また、第二の公準のように積極的機能ばかりを想定する姿勢は、なんら事態を明らかにしえない。調査にあたって有用なのは、「機能的諸結果の正味の差引勘定がある」と構える姿勢であろう (:28)。第三の公準においては必要な機能とその形態が混同されており、異なる諸項目が同一の機能を果たす可能性が等閑視されている (:29)。しかし、「機能的に等価な」諸項目の存在へと注意を向ければ、例えばある集団が特定の慣行に固執している場面に対して、そうすることで「どの選択的な行為様式が除外されているか」といったことを分析することができ、また変動の可能性も視野に入れることができる (:30) 。

 以上における検討を踏まえつつ、機能分析の方法を系統的に整理すると、以下のようになる (:45-49)。


(1) 標準化された (形式化され反復された) 項目をなすものが分析対象となる。
(2) 社会体系に含まれる諸個人の主観的意向 (動機、目的) の諸概念をたえず仮定、あるいは明示的に用いる [注2]。
(3) 客観的結果を表す諸概念を用いる。ここではそのために、「機能、逆機能」「顕在的機能、潜在的機能」という区別を用いることを提案する。
 (ⅰ)「機能とは一定の体系の適応ないし調整を促す観察結果であり、逆機能とは、この体系の適応ないし調整を減ずる観察結果である 」[注3](:46)。
 (ⅱ)「顕在的機能とは、一定の体系の調整ないし適応に貢献する客観的結果であって 、しかも体系の参与者によって意図され認知されたもの」であり、「潜在的機能とは、意図されず、認知されないものである」[注4][注5](:46)。
(4) 機能の働く単位についての諸概念を用いる。機能分析は「一定の項目が特定の結果を及ぼす或る範囲の単位」を扱うものであり、その単位には「さまざまな地位にある諸個人、下位集団、包括的な社会体系および文化体系」といったものがある。
(5) 特定の体系における機能的要件 (社会的欲求 、必要条件) の諸概念を用いる [注6]。
(6) 特定の機能を営む働きをなす社会機構の、具体的かつ詳細な説明を行う。
(7) 機能的選択項目 (機能的等価項目または代用項目) の諸概念の下で、「機能的要件を果たしうる諸項目の可能な変異の範囲に注意を」向けさせる [注7](:47)。
(8) 社会構造の諸要素は相互依存の関係にあるため、構造変動の事実上の可能性や選択諸項目は制限されている。こうした構造的脈絡 (または構造的拘束) の諸概念を用いる。
(9) 静態と変動の両方を視野にいれた諸概念を用いる。
(10) 検証にあたっては実験作業の論理に近い手続きが必要であり、その可能性を「文化や集団を横断する比較分析」に求めることができる。
(11) 機能分析そのものはイデオロギー的立場を持つものではない。しかし、機能分析を知識社会学的に問う余地は残されている。例えば機能主義的社会学者の社会的立場は、その観察や推論にどの程度影響を与えるのだろうか。

 以上が機能分析の範例である。では、このような方針を踏まえたうえで、機能分析を試みるものはどのようなデータを揃えるべきなのだろうか。マートンは機能分析の諸事例を挙げながら、暫定的に以下のようなリストを提示している (まとめはp.55)。

(1) 型式に参与する人々について、構造的見地から (すなわち社会的地位についての) 記述を行う (:51)。
(2) 標準化された問題を扱う特徴的な型式を記述するにあたっては、観察者はそのために排除されたほかの型式もあることを指摘する (:52)。
(3) 型式に参与する人々が、その行動等に与える様々な「意味」を考慮に入れながら記述を行う (:52-53)。
(4) 型式に参与する人々が持つ (同調や逸脱への) 動機を記述する (:54)。
(5) このほかに、参与者自身が気付かない規則性が存在する可能性がある (:54)。これは潜在的機能の分析にあたって有用なデータとなる。
[注2]P.45文意が不明。原文では「invariably assumes」が動詞となっているため (原p.104)、「仮定」というよりも「常に想定する」といった感じだろうか。主観的な動機付けの概念は、客観的な諸概念と無関係というわけではないが相異なるものであり、その混同を防ぐためにもそれを意識的に扱うべきであるという意味か。
[注3]ここでいう「適応 (adaptation)」「調整 (adjustment)」とは、体系 (system) 内の諸要素 (items) の位置が相互に安定するというニュアンスなのだろうか。
[注4]ここの定義では「機能」のみを扱っているため「一定の体系の調整ないし適応に貢献する」場合に焦点を絞った定義づけとなっているが、実際には「顕在的な逆機能、潜在的な逆機能」というものも成り立つと考えてよいだろう。
[注5]マートンは「機能、逆機能」という語を定義する場合は「観察結果である (observed consequences)」とし、「顕在的機能、潜在的機能」を定義する場合は「客観的結果である (objective consequences)」と述べている。この違いをどこまで真に受ければ良いだろうか。p.20においてマートンは「観察しうる客観的諸結果」という語を用いてもいるため、あまり考慮すべき違いではないようにも思えるが。
[注6]生物学的欲求を含めて制度を論じると、「人間には生まれながらにして性欲があり、その性欲を満たすような形で既存の制度がある」といった説明になりがちであり、制度変化の可能性が視野から抜け落ちる結果になってしまう。ここ (p.47) で「社会的欲求」のみが取り上げられているのはそのような理由からであろう。
[注7]ここでマートンは「大規模な社会学的状況では、このことがしばしば実行不可能であるので、どのような実行可能な研究手続きが実験論理にもっとも近いであろうか」と問う。この問題については佐藤俊樹『社会学の方法』(2011),『社会科学と因果分析』(2019) など。マートン自身は比較分析がこれに応えうると考えていたようだ (:49)。


〇 機能分析の主要概念の吟味:顕在的機能/潜在的機能について。
 上のように機能分析の方法をまとめたうえで、マートンは自身が導入した顕在的機能/潜在的機能という区別についての考察へと論を進める。この区別はどのように利用しうるのであろうか。
 この区別は、まず「一見非合理的な社会型式」を機能分析の対象とすることができる (:58)。例えば、ホピ族の雨ごいについて、それが実際に儀式の目的を果たすかどうかではなく、集団に対してどのような機能を持つかを問うことができるのである (もちろん、実際の目的を明らかに果たす行動についても潜在的機能の分析は行われるべきである) (:59)。
 また、この区別は理論的成果の多い研究領域に社会学者の注意を向けさせることに貢献する (:59)。ある行動がその目的を果たすかどうかだけを分析しようと試みるならば、社会学は実務家の問いに答えるためだけのものとなり、独自の貢献を行うことはできなくなるであろう (:60)。また、ホーソン西部電気会社についての研究からもわかるように、潜在的機能という概念は、ややもすると社会学者が看過してしまう重要な社会的変数へと目を向けさせてくれる (:62)。
 そして、社会生活における常識的な説明からはかけ離れた「潜在的機能の発見は、社会学的知識を大いに増進させる」であろう (:62)。それはしばしば、「逆説」の形で発見される (「人が高価な財を消費するのは、それが高価だからだ」というように)。また、潜在的機能への注意が増進させるのは、これまでと質的にも異なった知識である (:64)。例えば潜在的機能への注目は、顕在的機能の観点からなされた素朴な道徳的判断をもって社会学的分析とするようなことを防ぐことにもつながる。政治的ボス組織は道徳的に非難されるものであるが、潜在的機能を充足しているからこそ不死鳥のようによみがえるのである (:65)。そして、こうした潜在的機能の記述は社会工学において重要な意味を持つ (:74)。そうした点で、顕在的機能・潜在的機能という概念は極めて実践的なものなのである。
 



コメント

〇 中範囲の理論とはどのようなものか。マートンはどのような姿勢で、何を行っているのか。
 有名な中範囲の理論について、序章で語られていることは少ない。しかし、註(4)は注目に値する (:8)。この註によれば、中範囲の理論とは (テストしうる命題を扱うことと同時に) 「中位の一般性を有する」概念から成るものであるという。つまり中範囲の理論に含まれる概念は、「一定の範囲の社会現象に関する証拠を系統づけるに当って効果的に利用しうるほどに特殊的であってしかもますます広範囲の一連の一般的帰結のうちに統合しうるほどに一般的」なものでなければならない。
 これを確認したうえで、次に「範例 (paradigm)」について確認してみよう。マートンは本書において度々「範例」の記述を試みるのだが、そもそもこの「範例」とはどのようなものであろうか。序章においてマートンは、範例の機能については論じているのだが、範例が範例たるための要件については十分に説明していないように見える (:10)。我々は何かが範例たりえることをどのように判断すれば良いのか。
 マートンはある場所で、客観的な諸概念を用いて、諸命題のうちに暗黙裡に含まれる範例を明らかにするべきだとも述べている (:11-12)。ここから、範例とは客観的な諸概念によって記述されたものであることはわかる。これと、先に触れた「中位の一般性を有する概念」といった考え方を組み合わせてみると、マートンの意図するところが少し明瞭になるであろう。マートンが行うのは、(特定の事例の詳細な記述というよりはむしろ) 諸事例を統合し、それを (事例を系統立てて効果的に説明する程度に特殊な) 諸概念のもとで系統的に再記述すること。また、その記述がどのような広範囲の一般的帰結を導くかを示唆するということである。そのような形で記述されたものこそがマートンのいうところの形式的範例たりうるのであり、本書の諸論文においてマートンが度々行おうとしているのはそのような形での再記述なのであろう (ただし、これが「理論」と呼ぶべきようなものなのかどうかは疑問だが)。


〇 機能/逆機能、顕在的/潜在的機能というアイディアでは容易に中範囲を越え出てしまいそうなので。
 マートンは、機能分析は現存の社会構造の機能だけではなく、「さまざまな地位にある個人や下位集団や社会階層およびより包括的な社会に対する逆機能の研究をも含んでいる」と述べる (:35)。これは分析の範囲についての問題にかかわるのだが、その影響が及ぶ範囲を機能の単位として切り取ろうとすると、分析は容易に中範囲を越え出て「包括的な社会」というものに至る可能性があるのではないだろうか。


(1) ある項目は、ある集団にとっては機能的であり、ある集団にとっては逆機能的であるといったことがありえる (:46)。そのため、機能/逆機能は差引勘定で判断するべきだ。
(2) 差引勘定をするためには、機能が及ぶ範囲のすべてを分析の対象とせざるをえない。全体を見通して初めて、差引勘定の結果を出すことが可能になるのだから (限定性が弱い)。
(3) 限定性が弱い以上、機能分析は往々にして範囲の拡大を強いられることになる。過大な話へとつながりやすい。

 このような危険性があるからこそ、中範囲に留まるという姿勢が求められるのであろう。この点については、機能分析を行う際に重々注意する必要がある。


 
〇 体系と構造とはどのようなものか。
 マートンは機能的要件の概念を持ち出しつつも (:46)、パーソンズのように「構造」には4つの機能要件があるといった議論はしない。そうした天下りを行わなかったことにマートンの利点があるのは確かだが、そうすることによって「体系」や「構造」といった概念が曖昧なままに留まっているようにも見える。どのような場合において、ある位置に構造というものを見出し、その維持や諸項目の変動を観察できるのであろうか。そもそも、マートンは度々「要素 (items)[注8]」「体系 (system)」「構造 (structure)」という語を用いるが (p.35-37など)、これらの語の定義はどこかにあっただろうか。
 ここではとりあえず、「体系」「構造」を次のようなものであると解釈しておこう。「相互依存の関係にある諸要素の特定の配置 (ある諸要素が特定の関係を持ち特定の位置にあること)」を体系と呼び、それがとりわけ強固にパターン化されて観察される場合そこに構造が見いだされる。構造と体系の違いは、頻度の違いとして特徴づけられる [注9]。
 例として、教育というコミュニケーションを見てみよう。まず、日常のコミュニケーションにおいても、教える者と教わる者がおれば、そこに教育という関係は成り立つ。この関係は行き当たりばったりでも発生しうるし、持続が期待されるようなものではない。しかし、そこには確かに「教える者」「教わる者」「知識」といったものの特定の配置がある。こうした関係は体系として理解できるであろう。これに対して、例えば学校教育の場合、学級というものを考えてみれば即座にわかるように、その関係性・発生は強固にパターン化されている。ここでの相互行為は構造に則ったものであるといえる。
 さて、学校教育によって構造化された学級のなかでは、学級における諸要素 (生徒・知識…) を相互に調整したり適応させたりする要素があり、逆に混乱をもたらすものがある。例えば、教師が教室内で「何か悪いことがあったときに、周りの子に対して注意できるようになろう」という規範をくりかえし提示した場合のことを考えてみよう。それは生徒間の関係を調整し、学級という集団内での混乱を避けるためにも役立つ一方で、場合によっては「ほかの子への注意」が過剰になり特定のグループを排除するように働くかもしれない。そのように、ある要素は集団に対して機能/逆機能的に (同時に) 働きうる。そして、その逆機能は、教師にとっては潜在的機能でもある。
 もちろん、ある特定のグループが排除されたり、イジメによって不登校が発生したりした場合でも、学級という構造そのものが崩壊するわけではない。しかし、諸要素の混乱が何度も観察されたり、それがパターンへの過剰な「ひずみ、圧迫、緊張」を生み出していると判断されると、代替選択肢が提案され、それが制度化されたりする (フリースクールなど)。また、それを判断し制度化することこそが社会工学の重要な一側面となる。

[注8]訳文について。本書においてitemは「項目」とも「要素」とも訳されている。また、elementも「要素」と訳されている。itemは「項目」という訳で統一すべきであっただろう。
[注9]実際にマートンが常に頻度を問題としているかどうかはかなり怪しい (何を指しているのかわからない部分もところどころある)。しかし、構造変動の可能性を視野にいれようとするのであれば、パターンと頻度という観点から構造というものを捉えた方が、経験的な考え方につなぎやすいように思われる。


 
〇「構造」を発見するための一つのアイディア。
 上のようにまとめてみると、機能分析は構造に対してこそ大きな価値を持ちそうだ。体系は強固にパターン化されていないため、分析の対象としにくく、また代替選択肢の提供も容易でありそれほど分析の必要性を問われない。したがって、機能分析は構造を対象としたほうが効果も高く、機能分析を実践するにあたっては構造を経験的に発見するための目印のようなものがあるとよいだろう。
 その目印のようなものとして、例えば「期待/規範」といった区別を挙げることができる [注10]。


 期待 : 予期が裏切られた場合、予期の方が修正される。
 規範 : 予期が裏切られた場合、行為の方が修正される。
 そして、参与者が特定の場面で強い規範を抱いている場合、そこには構造を見出すことができる可能性が高い。


 ホピ族が雨ごいの儀式に失敗した場合のことを考えてみよう。このとき、「儀式に成功すれば雨が降るはずだ」という予期は修正されない。あの人物がいなかったからだ、自分たちの儀式が不十分だったからだという形で、行為の方が修正されるのである。ここでは予期を修正するという形での学習が行われず、それが行われないことによって儀式 (特定のパターン) が繰り返される。ちなみに科学の場合、儀式をすれば雨が降るはずだという仮説は、失敗した時点で修正されることになる。
 規範と期待の区別はミクロな場面においても見出せるため、その点でも使い勝手が良い。例えば、今この報告の場で私が突然踊り始めたり、奇声を上げ始めたりした場合、周囲の人間はそれを違背として観察し、私は行為の修正を求められることになる。それはこの場における行為 (会話の内容や順序など) が構造的に組織されているためであり、その様子はおおよそ社会学的に記述可能であろう 。学校などにおいても話は同様で、構造から外れた行為は逸脱として観察され、修正を求められることとなる。
 この区別を導入することにはほかに次のような利点がある。


① 参与者のそれぞれがどのように予期を抱いているかに注目し、それを記述に組み込むことができる。ある規範/期待は、社会の成員のどの程度の範囲にまで共有され、影響を与えているのだろうか。このように問うことによって、特定の機能が、誰にとっての、どの範囲にとっての機能なのかという視点が失われずに済む。また同時に、これによってその構造のなかに含まれる要素とそれ以外の要素をある程度判別することができる (強い期待を抱く者は構造に強くかかわっている可能性が高く、強い期待を抱かない者は構造にとって必須の要素ではない可能性が高い)。機能が及ぶ範囲についてもある程度の限定を行うことができるので、対象範囲の設定に役立つ。
② そもそもある行為・事象がなぜ逸脱として観察されるのか、という視点を明瞭に含むことができる。
③ ある期待が規範に代わりつつある事柄、規範が期待に代わりつつある事柄に対しては、等価機能の分析を行いやすい。例えば「結婚」などを例にしてみよう。それが構造と呼ばれるほど強い関係性 (強固にパターン化された関係性) であれば、規範性を帯びることとなる。結婚しない人が、行為の変容を求められる。しかし、徐々にそれが体系程度の関係性になっていくにつれ、結婚への期待 (あるいは夫婦という関係性が、離婚などを経ずに持続し続けることへの期待) は淡いものへと変わっていくかもしれない。そのときに始めて、「異性愛結婚という関係 (夫婦)」が担っていた諸機能を代替する案が強く問われることになる。社会工学としての機能分析が強く求められるのは、こういった現場においてであろう。

 ただし、この区別はただ目印の一つなのであって、構造というものを説明しつくすものではない。それは「規範」というものが「パターンの維持に貢献する」ほかに、「いまだ実現していないが望ましい価値を伝達する」という側面を持つということを考えてみても明らかであろう。例えばアノミーについてのマートンの論は、規範によって行為の変容を求められるにも関わらず、そのような変容を行うことができない人々がアノミー状態に陥るというものであった [注11]。

[注10]パターン化されていることをもって体系や構造を発見できるとすると、体系や構造とは参与者の視点から見た場合の予期に関わるものであるといえる。参与者は、体系において起こる出来事に対して弱い予期を、構造化された出来事に対して強い予期を抱く。そのため、そこに「期待/規範」のような差が発生しうる。なお、この議論はルーマンの認知的予期/規範的予期といった区別についての話を参考にしている。
[注11]マートンはこの状態を分析するために、「文化構造」と「社会構造」という区別を導入している (:150)。




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