「理解」という概念では捉えられない、コミュニケーションにおける微細なズレ - 『プリキュア』『アイカツ』のシーン分析のための準備。


―目次―
序 なぜ、相手の頭のなかを覗くことなどできないのに、コミュニケーションが成り立つのか。
1節 本稿における問い。:「理解できる / できない」という概念で捉えられないことについて。
2節 「理解」という概念の分析。:そこで前提となっているものは何か。


 この記事は、本当なら1つの記事になるはずだったものの、前半部分を「準備編」として公開したものである。なぜ前半だけを切り離して公開したのかというと、① あまりに長いうえに、② 具体的なシーンを見ながら説明した方が良いことを、理屈だけで語ってしまっているためだ。要するに、包み隠さず言ってしまうと、書き方に失敗したことに途中で気が付いたのだ。しかし、もう引き返せないので、ここだけを独立させて公開することにした。

 先にはっきり断っておくと、この記事ではまだ具体的なシーンの分析には触れられない。また、次の記事で出てくる内容と重複するところがある。だが、理屈に関わる部分では、続く記事よりも精細なことを論じているはずである。理屈に興味がない方は続く記事から読んでもらった方が絶対に良いと思うが、得られるものがないわけでは決してない。

 この記事で行うのは、「理解」という概念の検討、およびそれに代わる概念の模索である。


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序 なぜ、相手の頭のなかを覗くことなどできないのに、コミュニケーションが成り立つのか。


 以前、他者は理解できないという話を続けて書いた。他者を十全に理解することはできない、これは事実だ。私たちは他者の気持ちを知ることはできないし、容易に理解できてしまうと考えることは傲慢ですらあるだろう。

 だが、それでも私たちは他者を「理解」し、また自分とは価値観も考え方も異なるであろう見知らぬ他者と、出会い、関わっていくことができている。コミュニケーションは混乱に陥っていない。「他者は理解できない」という立場から考えると、このような状況こそがまさに「奇跡」なのだ。「他者は理解できない」という話は驚くに値しない。本当に謎と感ずるべきなのは、「なぜ我々は理解できない他者と、出会い、コミュニケーションを成立させられるのか」という方なのである。

 では、そのような「他者との出会い」はどのようにして可能になっているのか。これについて、2つのアニメ (『アイカツフレンズ』1話、『映画プリキュアドリームスターズ!』) から具体的なシーンを取り出して論じてみることにしたい。テーマは、「すれ違いと出会い」について。まず、このテーマをもう少し明確にするために、これまで書いてきた記事の内容を簡単にふりかえっておこう。そこから、本稿の問題意識を明らかにしていく。ただし、この記事は考察の準備にあたるものであり、かつそれなりに冗長でもあるので、読み飛ばしてもらっても構わない。


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1節 本稿における問い。:「理解できる / できない」という概念で捉えられないことについて。


 はじめに、「女児向けアニメで描かれる『他者の理解できなさ』について。あるいは、女児向けアニメは家族の問題とどのように向き合ってきたか」という記事を公開した。ここで私が書いたのは、① 親子は互いに互いのことを理解できる存在であると想定してしまいがちであるということ、② そのような理解が家庭を苦しみの場に変えてしまう可能性があるということ、③ だからこそ、自分の子/親を「自分とは異なる他者」として認識することが良好なコミュニケーションのためには重要となるということであった。

 しかし、この記事は広く読まれた一方で、良好なコミュニケーションのための話として受け止められなかった側面もある。「理解できない他者だということを念頭に置いてかかわった方が良い」という話としては十分に受け止められず、「互いに理解できない存在なのだからもう関わらないでほしい」という話として使われたり、極端な場合だと「私はもう親とは絶対に関わらない」という宣言のために使われたりもした。また、「確かに相手のことは理解できない」ということを認めてくれたうえで、「でも、そういうことを考えていたら誰ともかかわりを持つことはできないし、そういう可能性を常に考えておびえる人間関係も、またつらいものではないか」と感想を述べてくれた方もいた。これは、その通りだ。

 そこで、次に「プリキュアで描かれた『障害』と介入について。あるいは、「理解できない他者」と共にあること。」という記事を公開した。ここで私が書いたのは、① 実は我々は、普段から他者を理解できない存在として扱い、他者を理解できないものとして自分から遠ざけることで他者を「尊重」しているのではないかということ、② そして、そうした「尊重」が悪用されることがあるということ、③ そうした悪用を避けつつ他者と上手くコミュニケーションをとるためには、相手のことは理解できないということを認めつつもコミュニケーションを絶たないことが重要である、ということであった。こちらの記事では、「相手を他者として認める」ことと同時に「コミュニケーションを絶たないこと」に重点を置いている。そうすることで、先の記事の読まれ方に対して応答した。

 上の二つの記事は、どちらも「良好なコミュニケーションのためにはどのような心構えが必要か」という問いを掲げている。それに対して、「コミュニケーションの過剰 (相手を理解できると思い込むくらいに相手に関わってしまうこと) を避けるべきだ」 と論じたのが前者であり、「コミュニケーションの過少 (相手を理解できないものとし、コミュニケーションを絶ってしまうこと) を避けるべきだ」 と論じたのが後者であった。どちらも、「〇〇すべきだ」という規範的な話としては重要であると、私は考えている。


 しかし、「理解」という語彙を利用して、我々が普段行っているコミュニケーションをどこまで分析できるかについては、私自身にも疑問が多い。まず、他者のことは理解できない。それはそうであろう。私は他者が考えていることをすべて完璧に知ることができるわけではない。だから、他者は理解不可能であるはずだ。

 だが、理解不可能といったところで、実際のところ我々の生活は混乱に陥らずにうまく動いている。それはなぜ可能になっているのだろうか。我々は基本的に問題なくコミュニケーションを遂行でき、大抵の場合は初めて会った人とでもコミュニケーションをとることができてしまう。相手の心は理解できないはずなのに、「心」とか「理解」といった概念を用いて日常の行動を頻繁に観察し、その観察を用いて自身の行動を組み立てている。我々の日常のコミュニケーションは、なぜカオスな状態に陥らないのだろうか。

 本稿が扱うのは、このレベルの問題である。先の2つの記事が「理解できない他者との間における、コミュニケーションの過剰 / 過少」を扱うものであったとすれば、本稿では「そもそもなぜ大抵の場合我々は他者のことを理解できてしまい、コミュニケーションを成立させることができてしまうのか」といったことを問う。議論は、「我々はどうすべきか」という規範的なものから、「実際の我々は何をしているのか」という記述的なところへと移されることになるだろう。
 
 さて、上のように問うときに、「理解」という語はおそらくあまり役に立たない。では、日常で行われていることを、実際のところどのように記述すれば良いのか。この問いへと答えるために、本稿ではアニメにおける相互作用の1シーンを取り上げてみたい。そこでは、次のようなものが見いだされる。コミュニケーションの微細なズレ。理解が成り立たないように見えても、当事者間で会話は続くこと。それが奇跡を生んだり、そのズレがあるからコミュニケーションが成立する場面もあるということ。

 そしてこれは、(より日常で行われる相互作用に即した詳細な分析であると同時に) 理解できなくても共にいられることの具体的な形を記述するものでもある。


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2節 「理解」という概念の分析。:そこで前提となっているものは何か。


 先に述べたように、この記事では「理解」という概念はあまり役に立たない。そこで、私がまず行わなければならないのは、「理解」という概念を再検討し、その暗黙の前提を明確にしたうえで、出来事を記述するためのほかの概念を探すことであろう。

 「理解」という概念を再検討するにあたって向き合わないといけないのは、我々はコミュニケーションの主体ではないということである (以下、参考記事 「私とあなたの間のすきま ― 赤江達也論文についてのコメントの補論」 「ルーマン「社会学的パースペクティブから見た規範」(1969) 1節まとめ」)。

 コミュニケーションの場 [注1]において「理解」という概念を用いる場合 [注2]、我々は例えば「あの人のことを完全に理解した」と言ったり、「あの人は私のことを理解してくれない」と言ったりする。先の記事でもこの用法に限って話をしてきたのだが 、ここにはどのような前提が含まれているのだろうか。

*注1:本稿では「コミュニケーション」を、① 二人以上の行為主体が対面状況にあり、② 何らかの情報を伝達していることと定義する。
*注2:実際には、「理解」という語はほかにも様々な場面で使われる。「数的な法則性の理解」といった言い方などからもそれは明らかであろう。語の根本にまで辿ると、「理解」とは情報の正確な予測のことを指すものであり (次に来る数字・記号や、他者の次の動向を予測できて初めて、「私の理解は正しかった」ということが確認できるのだから)、予測を含むという点で常に未来の不確定性と関わる概念であるといえる。ここから確認できるのは、「理解」という概念は、常に違背に直面する可能性にさらされているということである。そして、このような理由から、これをコミュニケーションの場で用いる場合はとくに、「理解」という概念は「他者への期待」というものと関わることになる。これについては後述する。


 ここにおいて「理解」という概念は、「私 (他者) が・他者 (私) の情報を・「理解」した」「私 (他者) が発した情報を・他者 (私) が・「理解」しなかった」といった形で用いられている。前者を「理解」、後者をその違背ケースとしての「誤解」として位置づけると、〈理解/誤解〉とは同じ概念の別側面であるとすることができるだろう。

 そのうえで注目したいのは、① これは、ある一人の行為主体の視点から物事を観察・記述する際の概念であるということ、② 期待 (他者に対する予期) に関わる概念であるということ、③「誤解」のケースに関しては、自身の予期を変更するかしないかはこの時点では未定であるということである。②③に関しては続く記事にて具体的なケースを見ながら説明していく予定だが、①についてはここで先に触れておこう。

 ここにおける「理解」とは、「私 (他者)」という一人の行為主体から為される観察の一種である。そこでは「私が理解する」「私が理解される」といったように、一人の状態が問題となっている。そして、当然「理解」に関する問題もそのようにして表れることになる。「あの人が私のことを理解してくれない」「あの人は私のことを全く誤解しているのに、理解しているかのようにふるまってくる」。

 しかし、ここでは2つのことを把握しておく必要がある。① 私は私の発する情報をあまり制御することができないということ、② ここにおける「理解」とは対面状況において行われるものであり、参与者は常に相互に相手が発信する情報を「理解」しあっているということ。この2つゆえに、私と他者のコミュニケーションには常に「微細なズレ」とも呼べる隙間が存在しており、それを制御したり消去したりすることはかなり困難になっている。「理解できる」という慢心や「理解できない」という嘆きが見落とす (すなわち、「理解」という概念が見落とす) のは、このような「微細なズレ」の存在である。

 上記のことを具体的な例から確認してみよう。例えば、とある読書会の最中、人の報告中に私があくびをしたとしよう。おそらく報告者はそのあくびを見て、「あの人は眠いのだな」と私の状態を「理解」するかもしれない。また、報告者が小心者であったら、「私の報告が退屈すぎるかもしれない」と考えるであろう。このとき、私のあくびは「眠い」「退屈だ」という情報を相手に対して伝達したことになり、相手はそれを「理解」したことになる。これは、(二人以上の行為主体が対面状況にあり、何らかの情報を伝達しているという先の定義に則れば) 立派なコミュニケーションの1シーンであるといえよう。

 では、このとき、「あくびをした私」は、コミュニケーションの主体、情報伝達の主体でありえるのだろうか。答えは否である。少なくとも、私が相手に「私が退屈している!」という情報を伝えるために悪意をもってあくびをしたのではないかぎり、私はコミュニケーションで伝えるべき情報 (相手が「理解」に活用するであろう情報) を選択する主体ではない。

 このような例から考えてみると、私は他者から自分がどのように「理解」されるかを制御できる存在ではないし、そうでなくとも「理解」というものは成立してしまうということになる。もちろん、私は自分が発信する情報をある程度まで制御することができるかもしれない。しかし、意識的に制御できる領域はおそらくそれほど多くはない (例えば、私は私の身体が汗をかき、ふるえることをどう制御できるのだろうか。制御しようとすればするほどふるまいは過剰になり、情報は過剰に伝達されてしまい、他者に対して私が「恥を感じている」ということが伝わってしまう。そのことがまた恥ずかしくなったりする)。そうであるにも関わらず、「理解」は成り立つ。他者は私の意図や思いを直接に観察することはできず、私は自分が他者に対して発する情報を制御することができない。しかし、他者は私から情報をいわば勝手に読み取り、そこから私の意図や思い (「退屈だ」) を勝手に推測し、私に帰属するのである。

 ここからわかるのは、(我々は普段このことについてあまり考えてみることがないのだが) 私と他者との間には常に「隙間」とも呼べるようなズレがあるということだ。私は私が表出するものをコントロールできず、他者は勝手に私の意図を理解し、それを私に帰属させている。そこには常にズレや空白 (すなわち、「隙間」) がありうる。それが大きな問題になる場合には「理解できない / されない」という形でコミュニケーションが問題化されることとなるのだが、問題とされない程度に収まることの方が多い。そうした、問題とされないズレのこと (「理解」という概念からは見落とされるズレのこと) を、本稿では「微細なズレ」と呼ぶことにしよう。

 このように、他者と私の間にはズレがある。しかし、そのようであってもなお、我々は相互に「理解」[注3]することなしには、共にいることはできない。それは相手の意図や思いを何らかの形で想定しなければ自身の次の行動を選択することができないというレベルにおいてもそうであるし、ただ相手と向き合っただけでも「理解」は始まってしまいそれを止めることなどできないというレベルにおいてもそうである (向かい合った時点から、私たちは相互に情報を送りあってしまう。服装、しぐさ、言葉遣い、うろたえ、狼狽、汗、笑み…。そのそれぞれを全く認知しないことなどできないではないか。認知した時点で、我々は他者の状況についての「理解」を始めてしまい、それをもとに反応を返してしまう。他者はその反応を認知し、それを「理解」してまた自身の行動を組み立てる)。要するに、我々は常に相互に「理解」を続けているのである。

*注3:ここでいうところの「理解」とは、相手の心のなかなど見えないにも関わらず、相手から読み取れる情報から相手の状態を推測し、ある場合にはそこから相手の「意図」や「気持ち」なるものを相手に帰属するような試みのことを指す。

 このようなズレ、そして「理解」の継続性・不可避性をふまえると、コミュニケーションとは、ズレの連鎖のようなものであると捉えることができる。このズレの存在ゆえに、コミュニケーションを万全に管理できるなどと考えるのは到底無理な話となる。


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 だが、先に述べたとおり、奇妙なのは我々がそのズレをあまり認知していないことだ。実際には、日常の会話のあらゆる場面でズレは生じている。我々のコミュニケーションに存在している隙間は、アニメの1シーンのなかにも見出すことができる。続く記事で、これを確認してみたい。

 そのうえで、そのズレがあっても、コミュニケーションは成立する。あるいは、ズレがあるからこそ、成立するコミュニケーションがある。「理解」という概念を前提とし、「正しい理解」があってこそコミュニケーションが成立するという立場からは上手く位置づけることのできないこのような状況を、やはりアニメの1シーンのなかから具体的に見ていくことにしよう。そうすることで、「理解」という概念や、「理解できるからコミュニケーションができる」という考えを更新する。それが私の狙いである。




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