小宮友根『実践の中のジェンダー 法システムの社会学的記述』(2011) 第2章 社会システムの経験的記述

 以下、何記事かにわたって、『実践の中のジェンダー』のまとめとコメントを公開します……。が、なかなかに難しい内容であり、全然読み解けていない感がすごいです。あと、この記事のコメントで出てくるルーマンの話は、ちゃんと確認せずにイメージで書いています。あまり参考にしないでください。

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〇 概要

 社会学は「行為」を記述するにあたって、主観的な意味を理解しなければ行為の記述を行うことができないという視点 (ウェーバー) と、主観に対し外在的かつ拘束的であるような行為様式が確かに存在するという視点 (デュルケーム) をいかに統合させるかという困難に直面してきた (:60)。パーソンズは両視点を統合させながら「社会秩序」を概念化しようとして、行為者のそれぞれの行為は一定の行為様式の下での集合的パターンとして把握できるという社会像を描き出したのだが (:61)、そこでの統合も成功しているとは言いがたい。主観的な意味への注目は行為を社会秩序の説明項とすることを通じて等閑視される結果となり (:63)、外在的な行為様式への注目についても、行為パターンのみに注目をしてしまったため社会秩序と行為の理解との関係を捉え逃すこととなった (:65)。問題となるのは「行為者の主観的な意図」をどのように捉え、それをどのように行為と社会秩序の関係に落とし込むかということであり、それを探るためにはルーマンの論を見ていく必要があるだろう。
 ルーマンは、我々が懐疑に陥ることなく端的に行為を理解できているという事実を出発点とし、その端的な理解の現出から「意味」概念の再構成を試みた (:69-70)。ここにおいて「意味」とは、「可能性指示の過剰 / 特定の可能性の実現」という区別により成り立つ概念とされる。この概念の下では、諸行為もその「意味」において捉えられることとなる。すなわち、諸行為はその物理的同一性によって意味を保持し理解されるのではなく、すでに「特定の可能性の実現」という形で顕在し理解されているものだとされるのである。そして、「システム」という語はまさに社会秩序がそうした形で (意味的なまとまりを持って) 顕在化され続けていることを指す (69-71)。
 以上のことから、重要な方針が導き出されることとなる。まず、行為の意味は「現実におこなわれている行為理解の実践」において、それがどのような差異の下で理解されているのかを見ることによってしか明らかにすることはできない (:72)。そして、行為は特定の「構造 (限定された行為可能性)」のもとで理解可能になっているのであり、行為の意味を探る試みは、「行為 (現在実現している特定の行為)」に表示される構造と行為との構成関係を明らかにしていくことを通じて行いうるということである (:78)。
 それを踏まえて、本章では「共在」や「会話」がそれぞれどのような「意味」と秩序を有するのかを見ていく。ルーマンは両者の違いを「時間的な持続」の短長に見出したのだが (:82)、実際にはこれらはまったく異なる秩序をそれぞれに持つ。例えば「共在」はそれだけで我々の行為の[理解]可能性を制限するものであり (私たちのふるまいは、共在状況に対する反応として理解されてしまう)、また私たちの「会話」は順番交替や隣接ペアという秩序のなかで制限され理解されることとなる (無言でいることが、質問に対して応答しないこととして理解されてしまったりする)(:86-92)。


〇 コメント

本章の内容をかみ砕いて受け止めると。 / 「意味」を導入することで何が可能になるのか。
 ルーマンのシステム論は、「意味」という概念を仲介して特定の秩序を捉えようとする。では、この「意味」という概念は何を可能にするものなのだろか。例えば、小宮は「意味」概念によって「物理的にはまったく同じ振る舞いであっても、次の瞬間にはその〈意味〉がまったく変わってしまう」 可能性が視野に含まれるとする (:71)。そうであるならば、システムというものもまた、特定の行為の物理的性質に対して見いだされるものではなく、特定の行為たちが〈意味〉的なまとまりをもっていることに対して見いだされるものとなるのだが (:73)、この見方をもう少し簡単な表現で確認しておこう。
 ルーマンの視点に則れば、システムを構成する要素は特定の物質や行為そのものではなく、コミュニケーションであるということになる。重要なのは、その物質や行為の物理的性質ではなく、あるものがコミュニケーションのなかにどう組み込まれているかということの方なのである。そもそも一つの行為は、複数のシステムの下で、それぞれに意味づけることが可能である。恥ずかしながら私は先日家賃の支払いを忘れたのだが、それは経済システムにおいては〈支払わないこと〉として記録され、法システムにおいては〈契約の不履行〉として記述される。場合によっては、私の行動は政治システムにおいて土地の所有制度や資本家による土地投資への抵抗を表す政治的行為として (?) 描かれるかもしれない。私はなんら意図を持たずただ忘れただけなのだが、行為はそれぞれのシステムにおいて意味づけられてしまう。すると、私の行為は私の意図・意識とは無関係に意味づけられているということになり、では何が意味づけているのかと問えば、答えは「システム (社会秩序) 自身が」ということになる。
 このような「私の意識」と「行為の意味」との無関係性は、日常会話においても観察することができる。よく言われるように、我々は意識の上で会話には全く関係のないこと (「おなかすいたなぁ」とか) を考えていても、会話を続けることができる。これが意味するのは、会話は「私の意識」といったものとは関わりなく固有の秩序を持っており、その秩序のなかにおいて我々は「ある特定の人格」として会話に登場することができる / 登場してしまうということである [注1]。

[注1]例えば学校の授業を考えてみても良い。生徒の意識は授業の進行にほとんど関わりがない。生徒が頭のなかで何を考えていても、授業は固有の秩序をもって進めることができる。そこでの秩序は、日常の会話とは大いに異なるものである。まず、「教師」はとくに断りなく「前回の途中」から話を始めることができる。また、授業では「発問」といった形で秩序が生み出されている。こうした秩序のなかで参与者は行為を制限されており、またこのような秩序のなかにおいてこそ参与者は「生徒」「教師」というアイデンティティを帯びた存在として観察可能になるのである。


「行為者の意思を理解できない」とは考えず、「行為はどのようにして理解されてしまうのか」を考える。
 本章の内容を敷衍しておきたい。重要なのは、我々の行為とその理解可能性はどのような秩序のなかに埋め込まれているのかを、実際に営まれている行為を見ることで明らかにしてく姿勢である。我々の行為は秩序のなかでこそ理解可能となっているのであり (また、意図に反して理解されてしまうこともあり [注2])、その場面を観察することこそが、「行為者の意図を直接観察できない」という問題を回避するための一つの道筋なのである。行為者の意思は、実のところそこまで重要な問題ではない。重要なのは、私たちは特定の場面で、特定の意思やアイデンティティを帯びた存在として理解されてしまうということであり、その理解がどのような秩序のもとで可能になっているのかを明らかにすることである。

[注2]互いに理解を示しあっているという内容や1章補論の内容 (:57) には反するが、本章の内容は行為の理解可能性が制限されていることを意味してもいる。「行為の[理解]可能性」について小宮とは異なる形で描いた論文として、以前読書会でも紹介した赤江達也「〈ためらう〉身体の政治学 ― 内村鑑三不敬事件、あるいは国家の儀式空間と (集合的) 身体・論」(関東社会学会『年報社会学論集』17号,2004年8月) を挙げることができる。私は、アイデンティティや行為が限定された可能性のもとで理解される (:95) ということを言いたいのであれば、赤江論文のように、「ためらう」という行為から内村鑑三の「意思」が複数の文脈のなかでどのように理解されてしまったのかを追うような研究も有意義であると思う。



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