CRAFTWORK『さよならを教えて 〜comment te dire adieu〜』が示す空白。 (*微ネタバレあり)

お姫様なんて、本当にいるのかねぇ

いたとしても、本当に『怪物』に囚われているのか

あんたが、全世界の苦痛を背負わなくてもいいってことさ… たった一人で世界を救えるだなんて、考えない方がいい

(『さよならを教えて』)

 

 とりあえず先日書いたものでも。

 改めて、このゲームがどのような空白を指し示したのか (すなわち、「何がある」ということを明らかにしたのではなく、「何がない」ということを明らかにしたのか) を意識しながら書いてみた。





 *以下、直接的ではないけど、ネタバレっぽいものあり。

 *R18ゲームについての記事です。注意。






 

 『さよならを教えて』は、妄想に (あるいは自分だけの世界に) さよならをするというどこかロマンチックで陳腐な物語が、空転する場面を描き出していた。

 たしかに世界を壊せば、我々は何かから開放された気分になるかもしれない (ループものなど)。しかし、自分でつくった世界を自分で壊してみたところで、その先になにがあるのだろうか。「さよなら」を告げたその先に待っているものは?

 結局主人公は、何もない自分に気がついて、それに耐えられず、また世界を創り出す。こうして物語は一周する。

 「さよなら」を告げたにも関わらず、また妄想の内部に戻っていくのである。

 自分の意志で何かの外部に出ていくというストーリー、自分一人の妄想の世界に閉じこもることをやめ現実へと帰っていくという一般に肯定的に捉えられがちなストーリーは、このようにして否定されるのだ。

 この空転に加えてさらに虚しさを誘うのは、この話が (現実の睦月などを除けば) 徹底的に自己完結しているところだろう。騎士も、お姫様も、怪物も、物語に必要な要素はすべて自分で演じるしかなかったのである。だから、「怪物からお姫様を守る騎士」が「お姫様を殺す怪物」になり、また「お姫様」が「殺されるべき怪物」になってしまう。

 自分の存在を肯定したいがために「誰かを守る」という古典的なストーリーを作り出したにも関わらず、(そうした都合のいい物語は現実には存在していないため) その「守られるべきお姫様」も「殺されるべき怪物」も自分で演じるほかになかった。そしてそれゆえに、自分の存在を肯定するために自分 (=彼女たち) を殺すという徹底的に引き裂かれた物語が登場してしまう。

 空虚な自分を肯定しようと陳腐な物語を持ちだして役割りを演じてみても、しかしその持ちだした物語は自分を否定しないと完結しない。こうして自分を否定して終幕を迎え、また自分には何もないことに気が付き、再び物語をつくってしまう。どこまでいっても空虚なだけのお話。

 〈自分の意図〉によって〈閉鎖された世界から抜け出す〉というタイプのストーリーを見ると、必ずこの『さよならを教えて』を思い出す。それは閉鎖された世界を自分で作り出して、そこから意図次第で脱出できるんだとし、何かから自分の意図で脱出できたかのように錯覚しているだけではないですか、と。

 内部をつくって、そこから外部に出るストーリーを作ることによって、自分が内部にいることを忘れてしまう。あるいは、たとえ内部にいたとしても、意図次第で外部にいくことができるんだと錯覚してしまう。どちらの場合でも、空虚なうえにたちが悪い物語だと思ってしまう。

 そのような形式をもつストーリーになんどでも帰って行ってしまうプレイヤーの姿が、『さよならを教えて』では人見先生という形でゲームのなかに写し取られている。プレイヤーは、プレイヤー自身の影をそこに見るのである。こうしてこのゲームは、ゲームをプレイする者自身に刃を突き立てる。

 このゲームをくりかえしプレイしてしまう者も、自己否定するためにこのゲームに戻っていってしまうのだろう。

 そして自己否定できる自分を部分的に肯定することで歪んだ安心を得たいがために、あるいは自己否定することから一歩も外に進むことができないがゆえに、夕焼けの世界からいつまでも「さよなら」することができないのだ。


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