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家族という呪い 、「絆」というゼロ記号。:目次


 私たちは「絆」を語りたがる社会に住んでいる。何か事件が起こると、それを「周囲の人々との絆」と結びつけて語ってしまったりする。社会問題を「絆」に結びつけて語らせようとするのが、わたしたちの住んでいる社会らしい。
 しかし、実のところ、これは近年になってから登場してきた傾向であった。他者と生きる限り「人間関係」というものについて考えざるを得ないと思われるのだが、少なくとも我々はつい最近まで、それを「絆」という言葉で語ることはあまりしなかったようなのだ。そのことを、このnoteでもいくつかの記事で (不十分な形ではあるが) 紹介してきた。


 ほとんどの記事がもう6年も前のものであり、いま自分で読み直すとあまりの酷さに赤面してしまう。読み直せば読み直すほど自分の無知に腹が立つので、長いことこの記事と向かい合ったことはなかった。ただ、少し前から自分を取り巻く環境が変わり、そのことでようやく過去の自分と向き合う余裕ができたので、色々と反省も含めながら、上の一連の絆論を再公開してみた。いざ読み直してみると、「色々と無理はあるけれど、そこまで悪いものじゃないな」と思えたので、自分の単純さに我ながら呆れてしまう。ただ、まぁとにかく、過去の自分と向き合うのは思っていたほど悪い作業ではなかった。
 だが、それでもなお向き合うことのできなかった一連の記事がある。「家族と絆」について論じた「家族という呪い」という記事だ。これは (1) 未完のメモのままで終わっただけではなく、(2) 絆語りへの圧力の上昇を家族についての (地域差なども無視した) 世代論で論じるという乱暴なものであった。さすがに執筆を進める上で「◯◯年代語り」みたいなものの無意味さと向き合うことになり (そもそも仮に世代論だったとしてもあまりに無理が多すぎることもあり)、そのまま今日まで読み返さずお蔵入りさせていたものである。
 今後、これを少し整理して公開してみようと思う。なぜ今更この記事を公開するのかは自分でもわからない。ただ、先日のプリティーリズムについての記事の反応を見ていて、これを公開することにも一定の意味があるのかな、と思えたのだ。
 以降の記事で語る予定のことを簡潔にまとめるならば、「家族とは呪いである」という一言で片付く。しかし、おそらく「呪い」という言葉で私が考えているものと読者が想像するものは異なる。この記事は「家族とは苦しみを与える関係である」ということだけを書くのではないし、ましてや「家族を捨てろ」という話をするものではない。むしろ、「家族」を「他者同士の関係」として描き出すと同時に、そのなかで希望を探すという内容のものだ。少なくともプリティーリズムの記事で書いたことのほとんどはこの記事について考えるなかで生まれてきたものだったと思う。それゆえに、いまだからこそこの記事と向き合って、できれば再公開したいなと思ったのだ。

 さて、具体的な内容は次の記事から語ることにして、最後に再掲載にあたっての方針を2つ提示しておく。


 (1) 加筆はするけれど、基本的には未完のメモのままになると思う
 (2) 現在の私の視点から付け加えたいことについては、注の形で文末にコメントを載せることにする


 では、おつきあいください。






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