小話:「自分に厳しく、他人に優しく」というのはいかにして可能か。


 書いているものが行き詰ってしまったので、気分転換に全く違う小話をしてみる。「他者は私には理解できない」と考えることがなぜ大切なのか、という話。

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 社会を生きるうえで基本的に求められる格率は、「自分を律しながら、他人に寛容であること (しかし、無関心ではないこと)」であろう。こうした態度が排除ではなく包摂をもたらす。しかし、このように「自分に厳しく、他人に優しくあること」はいかにして可能か。

 まず、近代社会の基本的な考え方として、「自分(他人)に求めることは、他人 (自分) にも適用される」というものがある。これを近代社会のオートロジカルな特徴と呼ぶことにしよう。そしてこのときには、「自分に厳しく、他人に優しくあること」は端的に矛盾であるかのように感知されることとなる。他人に厳しいことを要求するのであれば、当然自分にもその基準を適用しなければならない。であるならば、自分に厳しくするのであれば、その同じ基準を他人に対して求めてもよいということになるはずだ。

 このときに等閑視されているのは、自己と他者の違いであろう。我々はそのように自己と他者との違いを等閑視すること (自己と他者とを同一視すること) を、例えば「集団」として扱われるなかで学ぶ  (学校における教師からの働きかけを考えてみれば良い)。

 では、自己と他者の違いを考慮したうえで、「(自分はできるけれど) 他者はできない」ということを認めればよいのか。これはどのようにして認めうるのか。例えば、「できるのに、それをやらない。そのときは、〈やる/やらない〉という二つの選択肢のなかから、〈やらない〉ということを自分で選択したことになる。したがって、〈やらない〉ことには責任があり、〈やらない〉ことによって被る不利益はすべて自分で処理すべきだ」と考える。そのうえで、「そもそも頑張ってもできない」場合、〈やらない〉ことは (そもそも〈できる〉可能性が存在しなかったのだから) 当事者による選択の結果ではないとし、その場合はできないこと、やらないことの責任を追及しない。そういう考え方がある。

 しかし、この考え方は、ある人物を「どう頑張ってもできない人物」としてスティグマ化し、その人物の成長可能性を無視する。また、〈やる/やらない〉の間にある曖昧な空間も無視している (例えば、ある人が「努力すればできたはずだ」と考える事柄に対して、「(何らかの精神疾患や、あるいは社会関係の網の目から排除されていることで) そもそも努力をすることができないのだ」ということは可能である。そして、現実に起きる様々な事柄を見ていると、この両見解を調停することはかなり困難であるように思われる)。

 さて、「他者への寛容」というものをある程度普遍的なものとして考える試みは、このようにして簡単に困難へと陥ることになる。ここに、一つ簡単なてこ入れをしてみよう。「私はあなたではない」という視点を入れるのだ。

 私は、他者ではない。それゆえに、他者が考えていることや、自分から見えない部分での他者の行動を知ることはできない。反面、私は (様々な留保のもとでなのだが) 私のことを知っている、ということができる。この「他者のことを知ることはできないが、私のことは私がよく知っている」という非対称性こそが、寛容のための肝となる。

 私は、他者が「本当に努力をしているか」などわかりようがない。しかし、「自分が怠けているか」については、少しばかりよくわかる。だから、他者に厳しくすることはできず、自分には (その必要があるなら) 厳しくできる」。その程度の話なのだ。言い換えればこれは、「不用意に、また過剰に、他者を理解してはいけない」というなのである。私は私の為すべきことを、為すしかない。自分の領域を守り、他者の領域に過剰に踏み込んではいけない。

 もちろん、そうはいっていられない事情もあるし、税金の使い道に関する議論など何か多数の人を一律に扱い判断する必要がある事例に関しては適用できない。だが、日常コミュニケーションのレベルにおいては、かなりわかりやすい指針であり、また重要な実践であると私は考えている。

 


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