『プリティーリズム』『プリキュア』『アイカツ』という3つの女児向けアニメと「人間」について書いてみて。 - そこから何を書くことができたのか。


 この数ヶ月で自分が何を書いてきたのかを振り返る小話。『プリティーリズム・プリパラ』『プリキュア』『アイカツフレンズ』を題材に、一応一連の記事のつもりで3つの記事を書いた。そこで書いたことと、なぜそれを書いたのかについて、振り返ってみたい。おさらい&整理の記事として。

 (本当は、「社会学において何が書けるのか (陳腐化に抗うこと)」「アニメを題材に何を書くのか (どのような距離感でそれを語るのか)」について考察する記事になるはずだったのだけど、記事の内容についてまとめたところで体力が尽きてしまった………)


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 初めに、他者は常に「理解できない他者」であるということ、それを認識することでかえって上手くいく可能性があるという話をした。「相手と一つになること」や、「相手のために何かをすること」は、この社会では基本的に良いことだとされている (そして実際にそれがちゃんと達成されるのであれば、それは確かに良い)。しかし、「相手と一つになること」や「相手のために何かをすること」は、時に「相手を自分のなかに吸収してしまう」ことや「相手を自分の操り人形にしてしまう」ことにつながってしまったりする ( 関連記事https://note.mu/siteki_meigen/n/nce0b224a5a04?magazine_key=m9ecb4c593771 )。%E3%80%82)そういうときのために、相手は私とは違う存在であり、「理解できない他者」であるということを強調しておく必要がある。だから、この記事を書いた。

 しかし、この記事は広く読まれた一方で、「理解できない他者を尊重しましょう」という話としてだけでなく、「理解できないのだから関わらないでほしい」という話としても読まれ、極端な場合だと「私はあの人と絶対にもう関わらない!」という宣言のために使われたりもした。また、「確かに相手は理解できない」ということを認めてくれた上で、「でも、そういうことを考えていたら誰とも関わりを持つことはできないし、そういう可能性を常に考えて怯える人間関係もまた辛いものではないか」と感想を述べてくれた方もいた。

 すると、次に考えなければならないのは、「他者である」ことの難しさを認めた上で、「それでも一緒にいる」ことが出来るとすれば、それはどういった形でなのか、またそのことにはどのような意味があるのかということであろう。こうして、次の記事が生まれた。



 ここで書いたのは、「我々は、実は普段から他者を理解できないものとして扱い、そこから距離をとっているのではないか」ということ。そのうえで、距離をとってコミュニケーションから逃れるのではなく、共に過ごすことが出来るとすればそれはどのような形で可能なのか、ということである。

 最初に上げた記事が「コミュニケーションの過剰 (相手を理解できると思い込むくらいに相手に関わってしまうこと)」から距離を採ることをオススメするものであったとすれば、この記事は「コミュニケーションの過少 (相手を理解できないものとし、そこから距離をとってしまうこと)」に抗うものであったといえるだろう。その点で2つの記事は好対照である。


 だが、まだ問いは尽きない。上に挙げた記事はどちらも、「他者を理解できない」ということを出発点としていた。しかし、私たちは、日常生活のなかで、そのような他者と基本的に問題なく生活をしている。初めてあった人とでもコミュニケーションを取れてしまえるし、「心」とか「理解」とかそういう概念を用いて日常の行動を結構頻繁に記述してしまえたりする。なぜ、そうしたことは可能なのだろうか。絶対に相手のことを理解できないとして、それでも日々問題なく相手と関われているのだが、それはなぜ可能なのだろうか。そのことを遠回しに書いたのが、次の記事である。



 ここで書いたのは第一に、我々は初対面の人間に対してであっても、その人の「役割」を予想することで齟齬なく「相手を理解して」(相手の行動を予期して) コミュニケーションをすることができているということである。例えば、私は突然「コンビニの店員が「金を持って逃げる!」と思い、お金を渡すのを躊躇してしまう」ことはない。アイドルとファンの関係もそうで、基本的には互いの間に距離と秩序が形成され、そのなかでコミュニケーションが行われる (予期できぬコミュニケーションを行おうとするファンが現れても、そのファンは何らかの形で非難・排除され例外として処理される。そうすることで、場の秩序は回復される)。

 そのうえで第二に、その「理解」がやはりすれ違う可能性があることを指摘した。持っている情報や相手についての予期が異なるとき、コミュニケーションがすれ違う可能性がある。それも頻繁に。日常の中でも、そういうことは良く起こるだろう。一見すると相手と会話が成り立っているようで、でもどこかずれている。ずれていることになんとなく気づきながらも、会話が続いてしまう。どうやら私と相手で違うことを話していたようなのだが、それはそれとして相槌を打ててしまう。強いて言えば、「理解できる」と「理解できない」の隙間の状態。そういう隙間が、私たちの生活には隠れている (他者と私の間には、常に曖昧な隙間が存在しているのである。そのことを意識したとき、普段何気なくコミュニケーションをしている他者が、どこか不気味な存在として私たちに対し表れるだろう)。先の2つの記事では、「過剰−過少」といった軸を用意してそこに沿って話を進めた。しかし、そうした軸ではこの隙間 (「理解できる」と「理解できない」の間に存在する「当惑」の空間) を捉えることがなかなかできない。『アイカツフレンズ』で描かれる二人の主人公の微妙な距離感を題材にしてこそそれは可能だったのである。

 そして、この記事では第三に、この二人はどこかすれ違っているのだが、すれ違っているからこそ距離を縮められたということを指摘した。そうした可能性もあるし、そこに意味を見出すこともできるのである。予期からずれたコミュニケーションは困惑や不安を生むが、予想外の出会い (=運命的な出会い) が可能なのも、常にこの困惑や不安の空間においてなのだ。


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 以上、三つの記事を内容に沿ってまとめてみた。一応、次々に描き出すものを変えてきたつもりである。そして、内容だけではなく、扱う作品も意識的に変えてみた。女児向けアニメの代表3つを取り上げることで、ほんの少しだけでもその特徴や差異を (一風変わった形で) 描き出せていれば幸いだ。

 また、実は記事の書き方も一つ一つ変えてきた。

 『プリティーリズム・プリパラ』について書いたときは、社会学の本はもちろん、インタビュー記事なども含めて、一切のものを引用しないことを意識しながら書いた。

 次に『プリキュア』について書いたときには、あえて岸政彦『断片的なものの社会学』を多く引用しながら話を進めた。

 最後に『アイカツフレンズ』について書いたときは、1分半足らずの具体的なシーンについて、なるべく細かく言及しながら書いた。

 どれも記事の内容にシンクロさせる形で、意識的に書き方を変えて書いてきた。それによってどのような効果が出たかは、読み比べつつ考えてみて欲しい。


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 以上のように、自分自身の勉強とかこれまで考えてきたことの整理も兼ねて、自己と他者の関係について複数の視点から論じてみた。一応、通り一遍のことは書けたのかなと思っている (『アイカツフレンズ』については先日放送された3話も非常に面白く、キャラクターの距離感についてまだまだ書けていないことが多いのだが、それは今後の課題だろう)。

 また、ようやく自分なりの書き方でアニメについて語ることができたのかなとも思い、少し満足している。アニメについての語りを読むときにずっと違和感を感じてきたのだが、それから距離をとった形で、自分なりのものを書けるようになったのかな……と。ただ、これはまだ上手く言葉に出来ていないので、また別の機会に論じたい。

 とりあえずは記事同士の関係をまとめて、一連の記事を読むための視点を提供するという振り返り記事でした。





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