ルーマン「社会学的パースペクティブから見た規範」(1969) 1節まとめ


 現在の周知の見解では、社会学と法学は存在[~であること]と当為[~すべきこと]の差異に従って分離されている。しかし、人間の行為を対象とするあらゆる科学は、存在および当為を主題とせざるをえない[:21]。もちろん、[存在と当為を扱うからといって]自然法の復興という方向からその根拠づけを行ってはならない。求められるのは「自然法における《自然》だったものを別のものにうまく置き換え」ることであり、「『人間が手を携えて生きていくためには、規範への定位が必要である』というテーゼ」を、「[存在と当為、当為と規範を短絡させる自然法とは]別様に根拠づけ」ることである (:23)。
 [そもそも自然法は、存在と当為と規範を自然=人間の本性に則るものとして結びつけるのだが]規範の根拠づけがなされるのは、規範の機能的代替不可能性においてである。1節では、その機能を明らかにする。そのうえで2節では、「社会システムが規範を形成し構造として用いることができるのはどのような観点のもとでなのか、そこで解決されるべきはどんな個別問題なのか」という点に関して若干の示唆を提供する。

《1》-1 
 人間の知覚は極めて狭い範囲に限定されており、[高度な行動・適応を可能にするためには]「その都度現時的な体験の予期地平」が付加されることで行動が調整される必要がある (:24)。しかし、予期には[複雑性と偶発性のもとで]欺かれる可能性もある。それに備えるために、「想起によって予期を確証すること」や「機能的にそれを等価な、一つの当為という相のもとで[すなわち、この予期は実現されるべきである。として]予期を象徴化すること」によって選択的構造が据えられることとなる。こうすることで、未知の諸可能性の氾濫のなかで自身の身を守ることが可能となっているのだ。やがて、この形式は外界の刺激からある程度の独立性を獲得し、内的に条件づけられた確定性を主張するようになる。予期の違背に対して「予期を変更するかしないか」「学ぶかそれとも学ばないか」という二つの可能性を保持し、環境に対して選択的に行動することが可能となるのである (:26)。

《1》-2
 「過剰な複雑性と偶発性という圧力は一般的なものであり、それによって[上で見たように]自己動機づけ、情報処理、学習の余地の内的構造が形成されてくることになる。他の人間に直面する場合[あらたな複雑性が加わる場合]には、この圧力を特に先鋭に跡づけることができる」(:26)。ここには他者のパースペクティブを引き受けることで、時間支出なしに自身の体験地平を拡張するというチャンスと、その引き受けは他者と私が同様であるという前提を踏まえることによってのみ生じうる[つまり、他者が自由に、自分とは異なるように行動するということを想定のなかに組み込めない]ということによるリスクがある。その葛藤状況の中で、特別な要求と問題解決策が発展してくる (:27)。
 その要求とは、「予期の再帰化」である。予期する者は、とりわけ自分自身に向けられた他者の予期を、予期することを学ばねばならない (予期の予期)。それこそが規範形成の基礎となる (:27)。この予期の予期があることで、私は行為をある程度自由に内的に決定することが可能となるのであり、あるいは[予期の予期の予期という形式をとる場合などはとくに]広範囲のコミュニケーションを抜きにしても速やかで思慮深いコンセンサスを形成することが可能となる。ただし、予期に定位することは、それだけ錯誤のリスクも高まるということを意味しており、小規模な社会システムにおいてならともかく、それ以上のものについてこの形を貫くことには無理がある (:28)。
 そこで、「当為の脱人格化」が必要となる。当為は、誰が従うべきか、誰が同意したものかといったこととは無関係に立てられることとなり、匿名的で客観的な掟として体験されることとなる (:28)。これこそが規範であり、こうした規範において「[互いに]予期することの統合が摩擦なしに成し遂げられ、他の人間を誤って解釈するというリスクが吸収され」ているのである。他方で、実践において他者の予期 (ないし予期の予期) を適切に予期できる場合 (その点で他者を理解できる場合) には、規範を変更・修正・逸脱することも当然可能となっている (:29)。

《1》-3
「以上の考察の核心を、次のように要約することもできよう。他者の予期を共予期することによって、予期する者は適応を[他者の状態にではなく]自身の状態への反応として[すなわち内的に]、したがってより容易かつ速やかに、実行できるようになる。この利点は自身の予期構造のうちに他者の予期を包含することに基づいている。すなわち、自身の予期と整合する形で他者の予期を共予期することに、である (それはある種の僭称にすぎないのだが)」(:29)。このとき、他の人間には、予期されたことに適合する予期姿勢までもが要求される。行動と予期は相補的になされるのである。
 一般に矛盾をはらんだ予期を維持するのは困難であり、予期の内容は調和へと向かう。そのようであるがゆえに[a/非aの状態を同時に予期しておくことが難しいがゆえに、他者に対して危険なほど斉一的な予期像を抱かざるをえなくなるので]、予期は裏切られる可能性が高い。学ぶこと/学ばないこと[予期を放棄すること/固持すること]という対照的な戦略は、この予期外れに耐えることを可能にするものである。[通常対照物として扱われる]これらの反応はいずれも「裏切られたという事態を処理するという同じ機能を満たしうる」という点で、機能的に等価なのである (:30)。これは言い換えれば、「私は自分が反応するための主要な基礎を、私に関する他者の予期のうちに求めてもよいし[すなわち、他者が私に対して予期することにならって、自身の予期を変更し (他者から学び)、他者と同調しても良いし]、他者に関する私の予期のうちに求めることもできる[すなわち、私の予期に合わせるべきだと要求して、他者を規範づけたり、他者に忠告したり非難したりすることができる]」ということを意味している。「多くの心理学者たちに顕著に見られる傾向として、今述べた第二の戦略が、つまり他者に関する自身の予期を固持することが、病理的であると、あるいは少なくとも発達不全と見なされがちであることが挙げられる。それゆえに、二つの戦略が同等の価値を持つとは見なされないのである。(…) 特徴的なのは心理学者が、独力で学ぼうとする態度のみを考慮に入れているという点である。同じ戦略を学ぶにしても、現行の道徳、制度、法に依拠する行動[すなわち、そうした規範に則って抗事実的に予期を固持すること]までもが考えられているわけではない[心理学者はそれを問題として観察しない]。そこから明らかになるように社会規範によって初めて、学習しないことが承認された、リスクを伴わない、成功をもたらす戦略へと、変換されるのである。社会的規範によって初めて、学ばないこと[起こったことを無視し、あるいは逸脱として他者の行為を観察したりすることで、自身の予期を変更しないこと]は脱病理化されるわけだ。心的システムが抗事実的に安定化されるためには、社会的庇護が必要なのである」(:31)。学ぶか学ばないかという決定は、社会的に規制されているのである。
 予期を予期する可能性は、心的システムと社会システムの共通の基礎ともいえるものである。「有意味に予期されうる相互行為という領域の中でのシステム形成を通して初めて[すなわち、予期を予期するなかで、学ぶことと学ばないことという戦略が必要となることで初めて]、心的システムと社会システムが相互に分離する[私が心のなかに留めておいたり修正すべきであったりする予期 (「秘書の髪がブロンドだったらいいなぁ」といった予期) と私には修正する構えがなくむしろ他者に対して行為・予期の修正を求めるような予期 (「秘書は仕事ができるべきだ」といった予期) が分離される]。そしてこの二つのシステムとの関連において、心理学と社会学が分離することになるのである」(:32)。この有意味な体験処理の基礎的なメカニズムを、より抽象的に記述してみよう。

《1》-4
 ヨハン・ガルトゥングの提案にならって、学ぶ用意のある予期を「認知的予期」と呼び、学ぶつもりなしの予期を「規範的予期」と呼ぼう。このように相手が学ぶつもりであるかどうかというのもまた、先取りされ共予期されている。この予期は広範囲にわたって社会システムを通して与えられている。「存在と当為」という区別の根底にあるのも、この区別なのである。この予期には、「学ぶか学ばないかの決定を未決にしておくような、あるいは躊躇しつつ修正の用意をしながら予告するような、予期の領域」もある。予期は違背が起こるたびにすべて覆されるわけではなく、他方で必要な適応を閉め出してしまうわけでもない (:33)。あえて純粋に認知的・規範的な予期に手を出すことはリスクが大きく、そのためには特殊な制度化による保障が必要となるであろう。規範的予期の場合、予期外れの事例のために設けられた裁判官という役割がそれを後見した[ただしルーマンはほかのところで、裁判官の認知的な側面にも触れている。『自己言及性について』(ちくま学芸文庫,2016) に収録された「法の自己再生産とその限界」から引用しておこう。「裁判官が当然そなえているべきと考えられているのは、事件を取り扱う際の特別な技能と事件のコンテクストに関する感受性である。彼らは規範を事情に応じて適用し、必要とされれば例外をつくりだすが、それはあくまでもとのルールを守るためである」(:302)。このような形で、規範的構造は認知的要素によってそれとなくコントロールされ固持されている]。認知的予期の方ではそれに対応する社会的役割は生じておらず、このことは「規範的に予期し予期外れを除去することへの、ある種自然な選好が存在」することを示している (:34)。しかし、認知的学習過程が[科学のような形で]独立して組織化されるようになって初めて、規範的予期と認知的予期の分化が全体社会組成の基本的な構造原理となったのである。
 そして、この分化にともなって、予期同定のより抽象的な型式であるところの「概念と規則」が発展してくる (:34)。予期は概念連関の一貫性のうちに自身の根拠を見出すようになる。今日では法規範の概念的に秩序づけられたシステムと、世界がどのようにできているかを扱う科学的理論は完全に分離されている。[法と科学の両者はそれぞれに内的な一貫性を有しているが、それは法と科学が互いに整合性を採ろうとすることを放棄することで可能になっている]。

《1》-5
「予期の規範的様式化が表現しているのは、学ばないという確たる姿勢なのである。規範とは抗事実的に安定化された予期である」(:35)。規範は自身が予期されるはずだいう権利を持つ。この学ばないという姿勢には、[ここまでで見てきた予期の再帰性、認知的予期と規範的予期の十分な分化のほかに]予期外れの場合に特定の解釈と行動を支えてくれる保障を必要とする。一つは「予期外れを[例外として、例えば魔術や死者の復讐や神による罰、近代的な説明としては行為者の《コンプレックス》や階級状態、システムからの強制として、あるいは《今どきの若者》といったステレオタイプを通じて]説明すること[を通じて予期外れから予期を守ること]」であり、もう一つは「[予期に反して行動する者の悪意、罪過に焦点を合わせた]行動様式、とりわけサンクション」によってである (:36)。いずれも、説明することは予期外れの行為を特定の原因に帰せ、予期を保持する。
 [しかし、より根本的に必要なのは、]予期を固持することを反応によって描出するということなのである (:38)。必ずしもサンクションに加わる必要はないし、サンクション以外にも様々な戦略がある。「時間に遅れた友人」に対して、どのように我々が反応しうるか、その多様さを考えてみれば良い。日常においては予期外れへの説明と反応様式に関して豊富な選択肢が用いられているのであり、人々は無数の規範投企のチャンスを有する (:39)。




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