パックとガァララ-「ふたりぼっち」と支配について


 今週のプリパラについて考えたことを簡潔に。ゆいの夢とパックの対立についてはすでに多く語られているようなので、ここではその手前の部分について考えてみよう。パックはなぜ混乱し、暴走しているのだろうか。実際のところ、ゆいたちが考えるように、周囲と友達になって、そのなかにもガァララがいて、みんな一緒にいられるなら、それが最も簡単な解決方法であるはずだ。そうであるにもかかわらずパックがこれを受け入れられないとすれば、それは一体なぜなのか。この点を考察・整理しておこう。

 おそらく、パックにとってガァララと自分は「一つ」であった。長い時間「孤独」を共有し、二人だけで過ごし続けるなかで、パックはガァララを自分と同一の存在であると勘違いしてしまったのだろう。ためらいもなく「パックのガァララ」などと言ってしまうところからもそれが窺える。そして、そのようにガァララと自分が「一つ」だと思いこんでいたからこそ、パックはガァララが他者と出会い変わっていくことを許すことができない。「自分の理解できないガァララ」「自分の知らないガァララ」が存在する可能性を、彼は受け入れることができないのである。

 そのような状況に対してパックが考えた解決方法は、ガァララと他者とのコミュニケーションを遮断するということであった。ガァララが自分以外の誰とも関わらなければ、「自分の理解できないガァララ」が存在する可能性はなくなる。自分とガァララの二人で「孤独」になれば、その「孤独」という感情を共有し続けることで、ずっと自分と相手を「一つ」だと思いこんでいられる。

 だからこそパックは、「ふたりぼっち」であることにこだわっている。「みんな」のなかに二人が含まれることでは不充分なのだ。「みんな」とのコミュニケーションを遮断しガァララが変わってしまう可能性を排除したうえで、「みんな」から疎外されているという「孤独」を軸にガァララと自分を結びつける。そのような形で自分とガァララが「一つ」である状態を取り戻す唯一の方策が、「ふたりぼっち」なのである。

 こうしたパックとガァララの関係には、自分と相手が「一つ」であるという勘違いが、支配欲へと転化されてしまう様子が上手く描かれている。パックを見ていて、どこか「子どもの変化」を恐れる過保護な親を思い出すのもそのせいなのだろう。その問題については以下の記事でも論じた。


 そして、これがどこか親子の関係に似ているからこそ、らぁらの夢のなかでの成長や、「アイドルタイム」というモチーフが、大きな意味を持ってくる……のだと思う。時間を受け入れて、関係の変化を受け入れること。これが重要になるのではないだろうか。とはいえ、まだどう転ぶかわからないので、それは今後に期待ということで。

 



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