小林雄次『小説 スマイルプリキュア!』(2016年に読んだ、人にオススメしたい本 ④)



◯ 小説編:小林雄次『小説 スマイルプリキュア!』(2016)


「ねぇ、そのお話の続き、どうなるの?」(:9)


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 ディズニー映画に『ボルト』という作品がある。犬版『トゥルーマン・ショー』とでも言えばよいのだろうか? スタジオのなかで、自分が本物のスーパーヒーローだと思わされている役者犬が、外の世界を冒険する話だ。

 ひょんなことからスタジオの外に飛び出してしまったボルトは、「特別ではない自分」と向き合うことになる。そして野良猫のミトンズと共に過ごすなかで、徐々に犬としての「ほんとうの自分」を発見していく。「つくられた自分」から「ほんとうの (ありのままの?) 自分」へ。

 もし、仮にこれだけでストーリーが終わっていたら、私はこの映画を好きにはならなかっただろう。むしろ唾棄すべき対象として扱った可能性すらある。しかし、『ボルト』のストーリーはそうした「つくられた自分 / ほんとうの自分」という二分法に則ったものには、実はなっていない。野良猫のミトンズが「ほんとうの自分」というものをボルトに教える存在であるとするならば、ボルトをヒーローとして鼓舞するのがハムスターのライノだ。


かつてRV車で生きていたハムスターもね、少女を救う日を夢見ていたんだ
<ライノ 君のおかげだよ>ってね
ヒーローを待ってるんだよ
みんな 不可能を可能にするヒーローが欲しいんだよ
それが君なんだよ


 ライノはこのように、ボルトの「つくられた」側面を積極的に評価し、それが必要なのだと説く。こうして、「特別ではない自分」と向き合うボルトは、ただの犬としての自分を受け入れながらも、「つくられた自分」という想像力に支えられつつ、「ほんとうの自分」へとなっていく。

 この映画が教えてくれるのは、次のようなことである。いつかは誰でも現実に向き合うことになるだろう。しかし、幼い日に受け取った「ヒーロー/ヒロイン」という想像力が、その辛い瞬間に人を支えてくれることはある。陳腐な想像ではあるかもしれないが、しかしそれがいつか支えになってくれることはある。そして、そうした理想像も含めて、すべてが自分なのだ。


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 さて、長い前置きをもう少しだけ続けよう。『ボルト』の冒頭では、ボルトが出演する番組が「子ども騙し」であることがスポンサーから非難されている。曰く、「女の子を犬が救い出すというワンパターンの展開ばかりで、年齢層の高い視聴者にはウケない」と。もう少しビターでハラハラする展開が必要だというのだ。(*なお、このセリフは映画のラストシーンにも活きてくるものであるため、おそらくは『ボルト』という映画が全編に渡って意識的に抗った価値観を表したものだといえる。)

 まったく大人の視聴者というのはわがままなもので、ときに本当にこういう身勝手なことを言ったりする。いつもいつもワンパターンで勝利するんじゃなくて少しひねった展開をとか、こんなに上手くいくはずがないとか、現実はそんなもんじゃないとか、そういうことを簡単に口に出してしまったりする。というか、言ってた。自分も。「プリキュアにも少しくらい鬱展開があればいいのに」とか、言ってました。

 こういうワガママな大人に対して、「じゃあもう大人用のストーリーやっちゃえばいいじゃん」とばかりに作られたのが (いや別にそういうわけじゃないんだろうけれど)、今回とりあげる小説プリキュアシリーズ。容赦なくビターな展開を入れてくるうえに、「鬱」とか「欅」とかの漢字も容赦なく使ってくる、実はかなり大人向けコンテンツである。

 では、本編が「頭ウルトラハッピー」とか言われてた『スマイルプリキュア』は、どのように「ビター」に描かれたのだろうか……。


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 『小説 スマイルプリキュア!』は、EDを迎えた物語の、「続き」を描く。具体的には、24歳になった元プリキュアたちの姿を描いてしまう。

 たとえば、主人公の星空みゆき。彼女はアニメ本編では絵本作家を目指していた。少しドジだし悩むことも多いが、紆余曲折しながらも夢へ向かっていく中学生の女の子。そういう描かれ方だったと思う。

 では、24歳の彼女はどうなっているのか。

 でも、たった一度、佳作を獲ったくらいで作家への道が開かれるほど世の中甘くはない。専門学校を卒業後、いつしか私は現実の生活にあくせく追い立てられて、童話を書く時間がなくなっていった。空想の物語の力を信じられなくなっていった。(:24)

 結局、星空みゆきは専門学校のノベルコースに進学。その後大きなデビューを果たすこともないまま、書店でバイトをしている。専門卒書店バイト(24)。字面の破壊力がスゴイ。この小説、冒頭からこんな感じ。辛い。辛すぎる。

 そして、まるでそんな現実と対応しているかのように、彼女は自分がプリキュアであったことを忘れてしまっている。

 まるで見えない闇に心を覆われてしまったように、思い出すことができない。いや、思い出すことができないのではなく、初めから私の中学校時代に、特筆すべきことは何もなかったのだろうか。ただ、鬱屈した日常を打破するために、こんな絵本を思いついたのだろうか。(:20)


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 「やがていつか現実と向かい合うことになる」ということから目を逸らすことは難しい。ファンタジーですらも。いつかは現実に追いつかれてしまうのである。例えば名作 A.ミルン『プー横丁にたった家』でも、クリストファー・ロビンは「何も考えない」ことができなくなってしまう。

 近年のプリキュアでも (小説版に限らず)、その事実とどう向き合うかということが一つのテーマになっていたように私は思う (とくに『スマイルプリキュア』ではその傾向が強い。詳しく書くことは避けるが、たとえば関連記事として → 「突如訪れる断絶と「絆」の可能性」)。すでに「未来はいつでも輝いているよ」とか無責任にいえるような時代ではないのだから、やがては問題にぶつかることになるという前提を踏まえながら話が作られていくのは自明であろう。

(*また、未来という不安定なものと同様に、他者という理解しがたいものとどのように関わるかも重要なテーマの一つとなってきた。例えばプリキュアと障害者との関係を描いたものとして、関連記事 → 「他者と向き合うということ」。また、「家族」という、すでに無条件では肯定できぬものとなった他者との関係については、関連記事 → 「家族を選ぶことが出来るということ」。)

 ただし、この「将来への不安」や「現実とぶつかること」、あるいは「特別ではない自分」というものに、『小説 スマイルプリキュア!』ほど正面から向き合ったものはこれまでなかったように感じる。基本的にアニメ本編では描写が中学生 (時折小学生や高校生) の日常に限定されてしまうため、そこに将来への不安が影を落とすことはあれども、直接的に何かが描写されることはない。それに対して、『小説スマイルプリキュア!』が呈示したのは、「24歳で書店バイト」という一つの現実だ。この現実を描写したうえで、それに向き合ったこと。ここに、この小説の大きな意義がある。

 そして、本書の魅力はこれだけには留まらない。本書はこのように困難な問題に足を踏み入れながらも、同時に『スマイルプリキュア』という作品に確固たる決着をつけた。一つの完璧な形で。しかも、本というメディアの特色を最大限に活かし、小説でしか描けなかった形で。『スマイルプリキュア』は正真正銘、ここで完結したといえる。


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「あなた方はいずれ挫折するでしょう。夢を見失うでしょう。友達も思い出も、いつか忘れてしまうでしょう。そんな未来に一体何の意味があるんですか? どうせ挫折するなら、初めから夢なんて持たなければいいと思いませんか?」(:293)


 『小説 スマイルプリキュア!』は、『スマイルプリキュア』という物語に一体どのように決着をつけたのか。それをはっきりとここで書くことはもちろんできない。読んでからのお楽しみだ。

 だから、代わりとして最後に、『ボルト』から引き出しておいた事柄を再確認しておこう。人はいつか現実にぶつかり、何もない自分と向き合うことになる。しかし、だからといって、かつて夢見た「ヒーロー / ヒロイン」の像が何もかも無駄になってしまうわけではない。

 「特別ではない自分」と向き合いながらも、かつて誰かがくれた想像力に支えられて、生きていく。近年のプリキュアが、繰り返し悩みながらも呈示してきた答えもまた、そういうものであった (関連記事 → 「血と愛と枷と糧」)。




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