かがく宇かんを聴講した、いち市民のレポート/その2 〈記録編〉

このノートの前置きはこちら 「かがく宇かんを聴講したいち市民のレポート/その1 〈期待編〉」



専門の人たちがした専門の議論を聴いていた市民が
そこにいなかった市民へ伝えられたらというノート。



第2編は当日の記録。
当日は発言をできるだけ拾おうと、かといって言葉の意図を汲み落としてしまわないように頭で噛み締めながら、集中力MAXで何ページもメモをとった。もはやスポーツ!と思うくらい体力を使った。

市民聴講者と後日話すとみんな同じで。心地よく全力運動をした感覚!久しぶりに頭をフル回転した!と言い合った。



今回はそのメモを元にした記録。
実際の流れに沿って、発言を箇条書き的に並べている。
加えて会場の様子や、議論中に自分の頭によぎったことも流れに即して差し込んでいるので、読みにくいところもあるかもしれない。せめて記録部分と個人的見解などが区別しやすいように、いくつかのかっこを使い分けて表現してみた。

「」…会話文、強調したい語句、作品タイトルなど(わりと適当)

()…前に書いたことの補足

【】…研究メンバーのお名前

『』…大見出し(太字・大文字)

<>…小見出し

---- …会場の様子、流れ の変化

《》…私が個人的に思ったこと


とくに《》は私個人の言葉なので、流れを追いたい場合は飛ばしていい箇所として覚えておけば読みやすいかも。あまり機能していないかもしれないけど……

それから、メモをとるのも体力勝負だったので、発言者が違っていたりニュアンスを捉えられてないことはあるかもしれない。あくまで公式の議事録やレポートではないので悪しからず。

それでは、以下記録文です。



***



----会場中央にラウンドテーブル型に研究メンバーが座り、
その周りをぐるりと聴講者席が囲む。
金沢美大の学生さんなど、半分関係者のような方々も多くいる様子。
友の会の方々や、私のように告知に心をつかまれた市民もちらほら集まってきていて、聴講者席は満席。(30分前に行ってよかった!)
プロジェクトディレクターである岡崎乾二郎氏は「だいたいこういうものはもっと閑散としてるんだけどな…」とつぶやいていた。

----全体の流れは「基調講演」「研究発表」「ディスカッション」と設定されていたが、まず前述の研究メンバー17組(告知に記載されていた19組のうち2組が不参加だった)の紹介が行われた。次にイントロダクションとして、自然科学と人間社会の関わりについての一般論や、科学の進歩と芸術表現の関わりの事例などが岡崎氏から話された。そこからゆるやかに各メンバーの発表をともなうディスカッションへと進んでいった。

『イントロダクション』


<自然科学と芸術の関係について>
自然科学のプロセスとは…[発見、実験・失敗、仮説だて、その繰り返し]
そのプロセスが芸術との共通点?というのは誰もが頷きそうな考え方だとして、もうすこし突っ込んでみる。

自然科学には、理論的整合が必要。
理論的整合性のないものははじかれる。
理論的整合をとるのに時間がかかる。
またそれが人間社会に仕組みなどのかたちで応用されていくとき、
「実践」と最新の仮説とのずれがおこる
「実装」と最新の仮説とのずれおこる

《常に実装との間に大きなタイムラグがあるのは容易に理解できる。どう展開していくのか、わくわくする。まずは頭のウォームアップ!》


<シンギュラリティのことも無視できない>
現実味を帯びているシンギュラリティの到来。
科学のブラックボックス化が起こり、
仮説を人間が把握できなくなった先に(発見実験失敗仮説のプロセスが人間の認知下では行われずに、AI等が瞬時に解を見つけ、それらが実装される世界において)
科学と現実とは離されていくのではないか
そこでは人間の再定義が必要になる。

《科学が切実な発見とか感動なしに、事実としてある感覚を想像してみる。その未来にも、発見とか感動ってどこかにちゃんとあるだろうか》

<科学的発見が芸術家の視点に影響した例>
雲の形態の構造原理が解明される前後での
絵画における雲の描かれ方の違い。
まさにその解明に影響を受けた絵画の紹介(コンスタブル)
解明以前…絵画の余白を埋めるためにもやもやと雲らしい陰影をつけるにとどまっていた画家と雲との関係。
解明以後…雲がどんなときにどんな形になるのかのパターンが説明されたことで、絵画に意味をもたらすことのできる要素になった。


<宇吉郎の自然に対する視点>
中谷宇吉郎が雪の研究へ向かうことに影響を与えたベントレーの写真集。
それに対する宇吉郎氏の視点。
美しい(と人間に認識される)状態の結晶だけを収集して撮り収めた作品、それに対する違和感。
本当に自然界にあるのは、畸形的な、美しいと呼べなさそうな、未完成の結晶ばかりなのに。
未完成と完成との間にあるもの。
欠陥にこそ、水蒸気が雪の結晶になるまでのプロセスを読み取るヒントがあると考えた。
それが「雪は天から送られた手紙である」の言葉につながっていく。

《完璧を基本にするから欠陥なんて呼ぶことになる、違い、ダイバーシティにすぎないという感覚は最近じゃ一般知になりつつあるだろう》

《聞き慣れた「雪は天から送られた手紙」はそういう意味だったのか》

《ここで思い出したのは、先日参加した講義の中で、ゲストの谷崎テトラ氏が述べた「地球の全景写真を共有した前後では人類の感覚がまるで違う。経済学も社会学も地球の全景を見ずに考えられたものが、それを見たあとの世代に応用されているからチグハグなのだ」という話。科学がもたらす発見は、確かに人々の思考を解き放ってくれているのだろう。》


----ここからは自由なディスカッション。自由とはいえ、終始岡崎氏のシナリオともいえそうなコントロールの下に議論が進んだような印象。プロレスっぽく進む議論は飲み込みやすいけれど、もっと自由なやりとりが聞きたい気もした。

『研究メンバーのマイクリレーディスカッション』

【中谷芙二子】霧の彫刻家
自身の作品の紹介。
海外の自然公園で、数カ所に装置を設置して霧を出したもの。
実際の映像で紹介された。
氷河が作り出した地形を水のように霧が流れる。霧の間を差す日光。
霧の存在によって地形があぶり出されていくような印象。
「公園のコンセプトを顕在化させた」との表現。

《ありのままの自然を公園にしているが、ありのままなだけではハッとしない。なるほど、霧のおかげで地形が掘り出されたプロセスすら感じる》

霧がゆっくりと傾斜を流れ落ちてくると
動物や子ども達は動いていく霧の塊に出たり入ったりして境目を楽しむのだという。

《それについて「突破する喜び」と表現した芙二子さんの純粋な視点が、彼女の口下手な様子も相まって眩しく感じた。》


【ぱくきょんみ】詩人
「自分にとっての感動を発見すること」が芸術には不可欠。
その感動の種である「不思議」。
「不思議」は芸術家や科学者のものではなく、みんなのものでなければならない。

《ちょうど読んでいたWEBメディア『UNLEASH(アンリーシュ)』での往復書簡形式コラムがが思い出された。「デザインを開く」という話、フィンランドにおける「デザイナーの視点」の話など。専門の城壁で囲われたものを「みんな」に開いていくことがよく耳につく昨今。現実にはすでに、テクノロジーによって発信もものづくりもみんなに開かれているわけだから、まだまだ囲われている領域でも開いていく流れは続くだろう。》

----そんなことが頭をよぎるうちに、リング上ではサクサクとマイクがリレーされていく。


【毛利悠子】美術家
自身のインスタレーション作品の紹介。
長い廊下という展示ロケーションが先にあった。
その距離を生かし音速を利用してディレイを体感するもの。
体験者が動くことで「音に遅れが生じていると感じる状態」と、「同時だと感じる状態」をを行き来できるという。

《科学が伴走者としてあることがわかりやすい芸術》


また自身の作品以外でも、流木のようなものを用いた屋外設置の作品を紹介。
朽ちていく過程ごと保管されているような作品。
摩耗することを悪いことではないと捉え直す視点。
経過を主題とした作品の保管・コレクションの方法の行方。


【三輪健仁】東京国立近代美術館 主任研究員
美術館という「保管コンテナ」の限界について。
スミスソンのノンサイトシリーズの紹介。
チョークを広野から拾ってきて箱に入れた状態の作品(チョークとは黒板用の筆記具ではなく自然の石灰岩)。
過程・行為ごと作品である作品。
展示を終えると石をひとつひとつ紙に包んで保管しているという。
行為の指示書として物質を保管している?
空間ごと保管しなくては作品としての完結性が失われる?
岩石という物質単位で見れば、紙に包んで開いてを繰り返すことでむしろ繊細なチョーク質はだんだんと粉塵化している。
保管とは?
ミニマルアート、コンセプチュアルアート、もはや美術館ありきの作品。

《美術館それ自体が「作品」という概念を固定する足枷となっているアイロニー。わたしが美術館で現代アートを見つめるとき、いつもなんとなく違和感があった。現代アートと呼ばれる枠組みにあまり共感していない。その正体がそこにある気がした。》

作品を保存するコンテナ(容器・枠組み)としての美術館に、収容できない(想定していない形式での)作品が登場する
=枠組みの崩壊

作品を保存するコンテナとしての美術館はどう作品に接するべきなのか。
どう変わるべきなのか。

《岡崎氏の前置きが回収された。科学の進歩やそれと相関してアップデートされる芸術表現が、保管収容できない作品として登場したとき、美術館という固定された枠組みは置き去りになる。》


【中谷芙二子】霧の彫刻家
作品を構成する物質としての「岩石の摩耗」という点に話が及んだところからマイクパス。
中谷宇吉郎 雪の科学館の中庭。
グリーンランドの海岸から運ばれた石が敷き詰められている。(約60トン)
それらは38億年前から存在するものなのだという。
氷河によって運ばれ、海岸に堆積し、氷がとけてあらわれた石。
日本に運びたいと考えた芙二子さんはグリーンランドの機関に許可を得ようとコンタクトをとった。
それに対する返答
「これは動いている石です。ゆくゆくは海へ流れていたかもしれないし、日本へ流れ着いていたとも知らないもの。日本へゆくのが少し早まっただけかもしれない。どうぞお持ちください。」

《この言葉が芙二子さんから紹介されたとき、会場がひとつの感動に包まれ、フワッと場の空気が軽くなったように感じた。みんなの心を掴むパンチラインはいつだって平易な言葉なんだと思う。》


【岡崎乾二郎】
さっきまでの文脈とつながりを持たせるような解説。
それぞれの物質には時間軸があり、それぞれがたえず運動している。
保存なんてそもそもできるのか?

【辻田勝吉】ロボット工学
《芸術分野からの視点が続いたところで、科学の視点。個人的にはとても感動的だった部分。》
宇宙ステーションから、ずっとずっと遠くの人工衛星などに交信を送るときの話。
管制官の頭の中には、その人工衛星の時間軸。
しかし交信を送ってそれが対象に届き、さらに返事がこちらへ届くまでに1時間とか2時間の長い時間がかかる。
その間、管制官の頭の中では何億光年の距離を超えた時間軸のスイッチングが行われる。
交信を送るときは人工衛星の時間軸に切り替わり
返事を待つ間は地球上の自分の時間軸に切り替わる
そして返事が届くとまた瞬時に人工衛星の時間軸へ切り替えることができるのだ。

《辻田さんはこのことにいたく感動していた。私は一瞬「それはそんなもんだろう」と感じたけど、辻田さんの生き生きとした口調に引っ張られるようにその「不思議」の中に感動を見つけた。専門領域がみんなに開かれていくと、素朴な不思議に感動する力こそ専門家たる素質なのだということが際立ってくる》

「同時」についての事例1
フォーメーションフライトと描画ロボットについての考察。
いずれも、複数の物体のそれぞれの動作によって別の一点における動作を引き起こす仕組み。
個体それぞれが別の動きをして、それらが結実してひとつの動作がなされるとき、そこに「同時」という概念はあてはめられるか?

「同時」についての事例2
ロケットの打ち上げが0.07秒の誤差で中止された事例。
ロケットに搭載されたコンピュータの情報が、地上管設備に届くまでに0.07秒の時間差が生じたことが大変な問題なのだということ。

《科学技術分野での「同時」ということのシビアさを想像させつつ、それだけにとどまらない意味を含む「同時」へのイメージを掻き立てられるターン。》


【岡崎乾二郎】
全ての作品を構成するのは、別の時間軸にある物質同士。それがここで出会った。それこそが現在を紐解く。



----分野も視点もあっちへこっちへと飛び交う上に、それぞれの話す内容が分厚い。それらをひとつの議論へと束ねるように、岡崎氏が解説を添える。

《岡崎氏の解説による文脈の導きは少々力づくに感じる場面もあったが、わかりやすい楽しみを与えられていると思えた。付箋が回収され、答えが浮かび上がってくるような感覚がじわじわくるのもエンタメ感。しかし研究メンバーの方々はプロレスのシナリオを知らされていなかったようで、後半は予定不調和の発言も飛び交い始めた。おもしろみが増すと同時に、議論についていくのがますますハードになった。》



【藤幡正樹】メディアアート
同時性とは人間の認識下でのみ語られるものだ。
人間の予測には誤差が生じる(道路幅の例)
サスペンションとしての誤差が空間の個性となり、世界を作る。

遅延記憶装置(水銀遅延線)の例え。
音速を利用した記憶装置においては、
距離を長くとる=メモリー量の拡大
それは時間と空間(距離の言い換え)は入れ替え可能であるという視点をもたらす。


【中井悠】音楽家
自身が長年取り組んでいるデーヴィッド・チュードアの研究からの視点を紹介。

チュードアの音楽家としての原点は教会のパイプオルガン。
操作する点と音が出る点が大きく離れた再生装置。
それを扱う視点は、のちの電子音楽の構築にも反映されていたという。
そんな背景を持つ彼が、芙二子さんらとともに取り組んだ未完のプロジェクト「Island Eye Island Era」
島全体を楽器化しようというものだった。
計画に合致する条件の孤島を探し出すこと自体が難関で、実現できなかったらしい。

未完に終わりこそしたが、それこそ保存のしようがない作品となっていただろう。
風化の英語表現はweatheringであり、天気にさらされるという感覚。
島自体が作品だとすれば、それは常にweatheringし続け、摩耗してゆくことは避けられない。

さらに議論を飛躍させる。
作品というコンテンツだって摩耗するし、そもそもそれを保存しようというコンテナも摩耗する。そして、それらは美術館という枠組みの摩耗であり、作品という枠組みの摩耗なのではないかと。物質も枠組みも言説も、それら全てに摩耗は生じるという前提に立ってみてはどうか、と。


【高橋明彦】日本文学
アンリ・ベルクソンの考えを紹介しつつ見解。

《私の集中が切れ、うまく汲み取れなかったことが悔やまれる。》


豊嶋康子【美術家】
わかりやすく、示唆に富んだ「相撲」の映像を紹介。
相撲の取り組みでは、取り直しという再試合の仕組みがある。
行司の判定に物言いがあった場合に協議の上、いちから取り組みを行うというもの。
それは仕組みとしては時間を巻き戻すのだが、実際に取り組んだ力士たちは不可逆な時間を歩んでしまっている。
同じ条件下での取り組みは2度と行えない。
事例として紹介された取り組みでは、片方の力士は怪我をしており、取り直しになってしまえば同じ相撲は取れない状態であった。
不可逆性のもたらすおもしろみや美しさが味わい深いのだという。


【中井悠】音楽家
人間の体のうち大半はマイクロバイオーム、つまり菌類やウイルスなどで構成されているらしく、そう思ってダンサーやこの相撲の取り組みを見るとなんだか面白い。

《私の頭には、辻田さんのフォーメーションフライトの話がよぎった。》
《ずっと話題に上がっているキーワードのひとつ“同時性”を語るときには、対象をどこまで分節するのかということが問題になるように思う。マイクロバイオームだとかの領域まで対象を分節すれば、時間軸はそれらの個体全てに固有のもので、同時なんてどこにもなく、あるのはそれぞれの時間軸の重なりのような遭遇点だけのだと考えられる。逆に分節をやめて視点を離してゆけば、全ては同時であり一連の運動だと言うこともできるのではないか。》


【高嶋晋一と中川周】映像
自身らの映像作品の紹介。
視点を固定した映像に、何かが投げ込まれる。
それを撮っていたカメラが投げられる。
宙を舞い土の上に落ちるカメラの視点。

----二人が作品解説を述べようとするが、岡崎氏との間に見解の相違。

《個人的には「映像は摩耗しないと思うが…」という発言は、ここまでの議論をふまえるとうーん?と思った。その後に腑落ちする説明が続いたのかもしれないが、残り時間を意識した時間帯だったこともあってマイクは次へまわされた。》


【藤幡正樹】メディアアート
BE HEREという作品の紹介。(とても興味深く、キャッチーさもある取り組みなので調べたかったが、メモが不十分で情報をキャッチできず)
当時のニューメディアで撮った写真を、最新の解像装置でARに投影。
当時の撮影者と同じ視点に立つことができる。
当時の被写体とともに同じ場所で合成される。
解像装置のアップデートで、コンテンツは再生の機会を得る。
装置が現れると置き去られたメディアを引き出せる。



----まだ発言できていない方が多いが、終了時間が近づいてきた。
マイクのまわる速度が上がる。追うことに必死だったので、ここからはどなたの発言かをほとんど捉えられていない。


楽器という再生装置/演奏する=像が現れる
演奏=仮説を立てること
楽器を変える=演奏方法を変える
その視点でみる美術館のあり方=再生装置としてのあり方
再生産可能な装置であるために。

シーンとシーンのあいだが示唆すること。
シーンからシーンへと運ぶ装置としての「あいだ」
インターバルの持つ情報を映画からも読み取れる。

手紙はディレイとセットのもの
テクノロジーはディレイを削減しょうと、同期しようと躍起になってきたが、それを見直すべきではないか。

【松井茂】詩人
美術館は詩に関係ない。
美術館を前提とした作品に対してか、「作品そはそんなものか」という一言。

《詩の立場からの明快な見解が気持ち良い》

詩人の科学的行為
公然たる抵抗をあえてする(言葉の表現の上で)


***

『ここで議論は終了』

----タイムオーバー気味になんとか終えたところで、教育委員会の方の終了挨拶が長いのがおもしろかった。
催しは全部で3時間半。「長丁場…」と思っていたけれど、17組の意見を自由に飛びかわすには結果短かったことにも驚き。後半はなんとかシナリオ上の結論(あくまで“結論らしいこと”と岡崎氏自身も述べていたが)に着地させて、体感的には駆け足で終了を迎えた。


発言できなかった方が多かったのは残念で、段取りに物申すなら冒頭のメンバー紹介のフェーズは余計だった。(紙でもらっている内容と同じだったし)研究メンバーの人数の多さも、多いことが問題なのか、人数に対して段取り設計がいまいちだったのかはわからないけれど、きっと運営側でも振り返られていることだろうと思う。

また、メンバーの専門領域の比率についてはかたよりを感じた。圧倒的に芸術分野の方が多く、辻田さんのような科学の視点からの見解をもっと交えてほしかった。

とかなんとか言っても第1編で前置きしたように、濃密で幅広い考察のスピード感あるマイクリレーは、聴講者に強烈な刺激を与え心を躍らせた。非日常的な高揚感とたくさんの言説のインパクトが、私だけではなく多くの人の中に溢れかえっていたことだろう。

ただしそれらは自分の言葉で丁寧に縁どっておかないと、あっという間に手からさらさらこぼれていくに違いなとも感じた。それぞれの言葉の本意がどこにあって、私はどう考えるのか。かがく宇かんとはなんなのか、私は何を学んだのか。

第3編で、ゆっくりまとめたい。

以上、記録編でした。

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