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宇佐美りん『くるまの娘』を読了した感想文 2022/06/08

本屋に寄る機会があり、久しぶりに小説を読みたいというマインドに陥ったので10~20分ほど物色していると、『推し、燃ゆ』で有名な宇佐美りん先生の新刊である『くるまの娘』が私の心をもっとも高揚させた。

読後感としては「辛い料理を苦しく悶絶しながら食べたが、食後には不思議と充足感があった」という感覚。もちろん、”辛い料理”というのはそれほど苦しいという比喩表現ではあるが、そうと言っていいほどに中盤~終盤までは苦しいことばかりだった。登場人物の”秋野”家族の一家の誰かが常に泣いていたし、苦しそうにしていた。

もう少しだけ例えを付け加えると、「サウナに体力の限界まで入らされた後に水風呂に入った感覚」とか、「幽霊が出ると噂の廃屋で何時間もじっとさせられている感覚」に近い。簡単に言えば、見ているだけで精神がすり減る。


まず、ネタバレにならない程度に大まかなストーリーを簡単に解説すると主人公の女の子「かんこ」を中心とした家族の物語で、祖母が急逝した旨を受けて、「かんこ」の両親や結婚をして実家を出た兄などが一堂に祖母の元に集まり、葬式などを行う。全編で150ページほどで、本当にストーリーとしては祖母の葬式の前後を描いたものでしかないが、とても味わい深いものがあったし、落とし方も綺麗だった。

メインの登場人物および家族構成としては、暴力や暴言を口にすることが目立ちやすい父親、脳梗塞を患ってからはヒステリックな言動が目立つようになった母親、妻の「夏さん」と結婚して家を出て行った兄(あだ名:にい)、高校に通っている影響でより近い祖父・祖母の家に住んでいる弟(あだ名:ぽん)、秋野家の長女であり現在両親と一緒に住んでいる「かなこ」(あだ名:かんこ)という家族構成となっている。

ストーリーの概要としては、どこの家族間でも長年の蟠りわだかまり泥濘でいねいとなって溜まっていることが多い。しかし、それをひた隠すのも蒸し返すのも違うという感情を皆が持っているが、皆がその不満やフラストレーションを抱きながら顔を合わせているといった感じ。その機微を描くのが綺麗だったし、そこに注力しているという印象を受けた。

私が刺さった文章およびこの作品を代表するような文章を、本文から引用すると

また何かが起きた。だがすべてが終わってしまうと、なぜそれが起こったのか正確にたどれるものはいなかった。いつも話は食い違い、食い違う徒労感で、最後には皆だまった。
そして誰々が悪い誰々のせいだとそれぞれに別のことを記憶して、眠るまで過ごした。そしてそれぞれに怒りを、かなしみを、腹にためて泣き寝入りするせいで、腹の中で何年も熟成してしまう。
同じ家にいながら熟成されたもののあまりの違いに、腹からその「歴史」を少しでも取り出すたびに誰かがひどく傷つく、すべて自分が悪いのか?皆、最後にはそう言った。

くるまの娘 p.78 L5-L11

これだけ切り抜くと抽象的かもしれないけど、この一節だけでも作品の概要と作者の伝えたいことは分かると思うし、思い当たる人は多いんじゃないかな。

もう一歩踏み込んで、宇佐美先生が伝えたいメッセージとして、「大人も子供のように手が掛かる」と「大人としての責任や立場」の矛盾するこれらを、3人兄妹の長女である高校生の「かんこ」の視点から描いている。

自分なりにもう少しだけ補足すると、権力の勾配で言えば両親が圧倒的で、子供は黙ることは多いかもしれないけど、じゃあ、両親が傷付かないかと言えばそれは違くて、みんな同じだよね。親も子供も家族間で傷付いてるし、それぞれに正義があるし、それぞれに被害者意識があるし、それが家族間だと猶更こんがらがるよねという主張が聞こえてくる。

もっと言えば、作中では両親がトラブルの種というか、子供を殴ったり、暴言を吐くことが目立ち、実際に兄は異常だと言い放ち辟易して、家を出ていき、弟も結果的に祖父母の家に住むことになり、残った「かんこ」もカウンセリングを受け、母親の車の送り迎えが無くては学校に通えないし、度重なるストレスからか、そもそも学校に行くことを体が拒むようになってしまっていた。

これだけを見ると両親および父親が悪いと感じるだろうし、結果だけ見れば作中で家族を傷つけた回数は父親が断トツで多いので、私もラスト10ページくらいまではそう思っていた。しかし、最後には父親もすべてを帳消しにできるほど許せたわけではないが、皆等しく苦しみを背負って生きているのだと理解して、一概に父親を否定することは出来なくなってしまった。

というより、大人・親も分厚い殻で覆っているだけで本質的には卵のように脆く、子供→大人を経て、皆その殻が厚くなっていくだけで、本質は卵のように脆いのは変わらないのではないか?とも考え始めていた。

詰まるところ、この作品における両親の「暴言・暴力」はすなわち助けてほしいというSOSの信号でもある。でも、子供はその被害者だから助けることは叶わないかもしれない。私自身もそういった似たり寄ったりの経験があるし、暴力を振るった加害者に向かって到底助けようとは思えないが、家族や親しい仲であれば同情は少なからずしてしまう。でも、そういった同情は「暴力・暴言」を肯定することになってしまう。それは良くない。でも、いくら暴力・暴言が目立つ親でも、一緒に泣いたり笑ったりすることは別に許してもいいんじゃないかなと思えた。

そして、もっとも大切なのは「適切な距離」なのだろうとも感じた。例えば親から離れ、一人暮らしをしていて数年ぶりに実家に帰省するとなれば、それは物腰が柔らかくなることだろうし、逆に20台後半などでもずっと実家に暮らしていれば煩わしいという扱いを受けることだろう。

やはりそれはひとえに、距離感などが自分の中で美化されているからなのだろうとも思ってしまった。ずっと一緒に暮らしていれば悪かった部分や小さなフラストレーションを気にするだろうし、数年ぶりに顔を突き合せれば嫌な部分も多少はマシに感じるだろうし、他人の良いところ・悪いところのすべてを抱えていきるのは難しいので、やはり適切な距離が大事なのだろうけど、それはそれで難しい問題だよね。

最後に、宇佐美りん先生への率直な感想を述べると、まだ23歳ほどの若年の作家ではあると自分の中でハードルを下げていたわけではないが、流石に芥川賞作家であると感心した部分として、人物の表現というかこういった人柄なんだなというのが文字だけで如実に表現されていたな、と感じました。

とても面白かったので、今まで小説を敬遠していたわけではないですが、これを機にもっと読みたくなりました。こうやって自分以外の知見というか、知らない光景を自分の経験則から当てはめていって、これは賛同できる・これは賛同できないと取捨選択していくのはとても楽しかったです。

今回の記事はこのくらいで。





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