8歳の頃からサイバラ漫画を読んでいるわたしが「ダーリンは70歳」を読んで感じた希望

わたしは漫画家の西原理恵子さんことサイバラのファンであります。最初に彼女の作品を読んだのはエッセイ+四コマの「怒濤の虫」で、当時わたしは8歳やそこらでありました。母が読んでいた本として出会い、間も無くサイバラにはまり、恨ミシュラン、できるかな、まあじゃんほうろうき等エッセイ漫画、ゆんぼくん、ぼくんち等ストーリー漫画まで読み続けて今に至るわけです。

今や「おかん」として、毎日かあさんを書き続けている彼女の作品を、わたしは常に読んでいました。彼女が20代の頃の作品から(リアルタイムではないにしろ)読んでいました。ひとりの女性の、20歳そこそこで描いたものから、独身の30歳前後のもの、鴨ちゃんと結婚した頃のもの、子どもが生まれた頃のもの、鴨ちゃんが亡くなった頃のもの、そして50歳になった今のもの…。

わたしは彼女を「もうひとりの母」と思っているのですが、それはまた別の話で。

今回「ダーリンは70歳」を読んで感じたのは、「ああ、彼女は自分自身の『さみしさ』とか『性欲』とかを描けるようになったんだなあ、すごいなあ」ということなのでした。

今回は、サイバラが交際している高須クリニック院長とのエピソードがメインとなっています。

サイバラが自身を描く時の書き方として、毎日かあさんではお団子頭の割烹着スタイルですが、今回はまるで「恨ミシュラン」のころと「怒濤の虫」の頃を足して割ったような自画像です。20代の頃の自画像、結婚前の自画像にすこし寄ってる感じになっています。

鴨ちゃんとの生活や、子どもが生まれた頃の時は、彼女の自画像はもんぺを履いたり、おかんとしての姿だった。

今回、彼女は「20代の頃の自分と地続き」な50歳の女性として自分自身を描いて、好きな人と会えないさみしさ、好きな人に触れたい性欲、それを茶化すことなくあの絵柄で描ききった。これは本当にすごいと思いました。

よく「おばさんは羞恥心がなくなる」といわれる。確かにサイバラはおばさんになった。けど20代の時に感じたさみしさや性欲や切なさを一切忘れず、それを真正面から受け止めて生きている。恥じらって自分の性欲や切ない気持ちを茶化したり、客観的に斜め上から書いたりすることがなくなってしまった。

よく聞く「大人の落ち着いた自立したしっぽりした交際」ではない。自分のわがままや相手のわがままをぶつけ合いながら、会いたいと感じたり、切なさを感じたり、やりたいと思ったり、そういう「アキレス腱的な弱い部分」を正直に発露させることができるのは、彼女がいろいろあって50歳になった今だからこそなのではないだろうか。少なくても「できるかな」時代、タイに住む鴨ちゃんとのやりとりで、そのような「自分の弱いところ」の表現はほぼなかったと記憶している。彼女は強く無頼で豪快な顔を見せ続けていたはずだ。

わたしもまた歳をとり、まもなく30歳になる。サイバラはわたしにとってもうひとりの母であり、女性として「ああ、50歳になっても、すてきな恋はできるんだなあ」と思える希望なのでありました。

いつかサイバラと日本酒しこたま飲みたいなあ。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

11
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。