優しいけものであり続けること

30歳になっていた。わたしの母がわたしを産んだ年齢だ。その事実は、30歳になるまでわたしを少しだけ苦しめたけど、実際に30歳になるころには、それはただの優しい事実になった。母がわたしの母になった年齢という優しい事実だ。

30歳になることは、書類上での変化しか(今の所は)なく、むしろメンタリティは以前よりタフに、安定傾向にあるように感じる。紅い口紅が似合うようになった。まわりが気にならなくなったし、かつてうるさく言ってきた人も、「こいつはもうどうしようもない」と諦めてくれたように感じる。

それでいい。わたしの生き方について、誰からの口出しも聞き入れるつもりはないからだ。

友人が結婚する。友人が子どもを作る。以前は、なにかしらの社会的な焦りというものがなくもなかったが、いまは、ただただ、事実として衝撃が大きい。おお、すごいな。この人も結婚というものをするんだな。この人も人の親になるんだな。すごいな、ただただすごいな。という感情で、それは、「南極に行ってきた」という人や、「世界50カ国に行ったことがあるよ」という人や、「FXでそこそこ儲かったよ」という人へ向けるまなざしに近い。自分が経験したことのない大きめな経験をした人への「すげえな」という、羨望と尊敬とその他の感情が混じり合った感情だ。

逆に言えば、それ以上でもそれ以下でもなく、社会的な焦りはもはや生まれなくなった。「結婚した」という報告は、「起業した」と同じぐらいの感情をわたしに想起させる。すげえ、おまえがそれを、おっいいですね、おめでとう、がんばってくれ、どうかうまくいくように。という感情だ。

社会的な焦り。

気づいたら、社会的な焦りというものを殺せる鉤爪のようなものがわたしの手のひらに備わっていたように感じる。前からあったのかもしれないが、30歳になる10日前くらいに気づいた。

わたしは社会的な焦りを両の鉤爪でばっさりと斬り捨て、その肉を食らっている自覚がある。でも、「社会的な焦り」を殺したつもりが、「社会的な焦りを気にしすぎてそれの言いなりになっている人」をも殺してしまうことがある。影に隠れているもんだから、気づかず殺してしまったのである。肉を食いちぎっている途中で気づくのである。この肉は○○さんの肉ではないか、と。

そういうこともある。社会的な焦りの肉は水タバコの煙みたいな触感だが、人の肉はやっぱり肉っぽい触感がするのである。

食い終わって、ああ食ってしまった、ひとを食ってしまった、そんなつもりはなかったのに、申し訳ない、悲しい悲しいと、さめざめと人間のまねをして泣いてみたりもする。悲しい気持ちは嘘ではないが、わたしは人間だった頃から異様に立ち直りは早いのだ。

30歳になってから、紅い口紅が似合うようになった。新鮮な肉を食らったあとの口の色だ。あなたは優しい人だと誰かがわたしに言った。でも、優しいように見えるのは貴殿に興味がないからで、興味がないので、影に隠れてたらきっと気づかず殺してしまうのです。そしたらわたしは悲しい悲しいとわあわあ泣いて、それを見た他人が、あなたは優しい人だとわたしに言うのです。

優しいかもしれないけど、もう人ではないのです。

人間だった時、わたしは優しかっただろうか。人間に鉤爪はない。何か、道具を使ってものごとを殺していたのではないか。「社会的な焦り」というような道具を使っていたのではないか。殺していたことさえ気づかず。その死体を食いもせず。

自分の手で殺し、食い、殺してしまった事実を事実として受け入れ、悲しいと涙し、食ったものを栄養にして生きていくわたしは、もう人間だったときのことを思い出せない。

優しいけものでいたい。できれば、あなたを殺さないようにしながら生きていきたい。そう願いながら、とおくからあなたを眺める。もう戻れない世界のひとびとを眺める。

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コメント1件

わかる…
私もたぶん、人間そっくり系です…気づかれないと、ほっとする反面、さびしい。馴染めたふりで自分を騙しても、結局どこかでほころびて、戻れやしないのだと思い知らされる。
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