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劣等感と自己否定まみれだった私が、変われた理由


なんで自分ってこうなんだろう
なんでこんな小さい自分との約束が守れないんだろう
なんで私はいつまでたっても変われないのだろう
私の媒介価値ってなんなんだろう
肩書を抜いた私には、何が残るのだろう
私が死ぬとき、どれだけの人が私の周りに集まってくれるのだろう

すごい人、を見たときの劣等感。
すごい成果を残した人への劣等感と、自分らしく生きている人を見たときの劣等感。単純なリスペクトや、ああいう風に生きたい!というわくわく感よりも先に、矢印が自分に向かってくる感覚。
なんで私はああなれないのだろう。と。

いつからかわからない。
だけど、自分の時間、というものを持つにつれて、だんだんこのように思うことが増えていった。
部活で多忙だったときもそんなことを思うことがあったけれども、とにかく多忙さがよくも悪くもすべてをさらっていっていた。ちゃんと自分と向き合う時間が増えると、いつも苦しくなる。受験の時もそうだったのかもしれない。何かに追われないとやらない自分というのが浮き彫りになって、自分の意志の弱さに萎えるばかりだった。多忙さで心の余裕がなくなること、自分と向き合う時間を取りづらくなることが当時は嫌だったけど、多忙さは魔法だ。その嫌な気持ちさえ、ひょいっと外においておけるのだから。

そして部活の時に気が付いた。
自分を自分でそのように傷つけること、後悔することは、改善するためにアクションするよりもよっぽど簡単であるということ。後悔することや自己嫌悪に浸ること、それ自体が弱くて逃げであること。
それに気が付いてから、自分の思考の逃げ場がなくなった。自分を顧みて傷つくことは、逃げで妥協でしかない。そう思うようになった。
自分を卑下して自分で自分を傷つけながら、その卑下する行為を逃げだと認識しているからこそ、傷つく度に自分のだささや弱さにまた落ち込む。その無限ループ。
自分の価値を感じられなくて仕方がなくて、自分がダメな存在にしか思えなくて、愛されるべき存在であるための努力の方法もよくわからなくなっちゃって、
TODOか何かに追われていたい、何か求められるタスクを的確にこなして認められていたい。自由になるほどに、自分が自由の舵を取れないという現実を目の当たりにし、不自由さに文句を言う「自由さ」に戻りたくなってしまっていた。

デンマークに行って2か月くらいは、振り返ってみるとしんどかった。
比較できる人がたくさんいて、自分より人間的に「優れている」と思う人ばかりで、劣等感がもっと増した。

けど、自分そのものを見せていかなくちゃいけないシチュエーションがたくさんあって、いつの間にか夜な夜な自分の生き方についての悩みを人に話すようになった。誰かが明確な解決策をくれるわけではない。だけど、人にシェアすることで、あなたは素敵だと言ってくれる人がたくさん周りにいてくれた。みんながどうしたらよいのか一緒に考えてくれた。そして、自分で自分のこと価値がないだなんて絶対に言わないで。と言ってくれる人がいた。自分を責める自分を、決して責めないで。と抱きしめてくれる人がいた。弱さを見せたら、あなたを誇りに思うと、弱さを見せた勇気を抱きしめてくれる人がいた。
弱さを見せたら、信頼が落ちるといった価値観がぐっと揺らいだ。弱さを見せた分、人が私を私として見てくれている感覚が増えた。それはきっと、私が、これ以上私を飾ってみんなに見せる必要がないと思ったからだと思う。素のままの自分でコミュニケーションをとるようになったら、もっと互いの信頼感が増していった。そんなように思う。

私は素晴らしい人間で美しい人間だ、ということを、耳にタコができるほど言い続けてくれた先生たちがいた。勇気を出して何かをしたときに、絶対にその勇気を抱きしめてくれる人がいた。弱さを出した時に、絶対にその弱さをシェアしてくれてありがとうと、解決策よりなにより先に、感謝してくれる人がいた、私をより知られて嬉しいと言ってくれる人がいた。
誰とでも公平に接して挨拶してコミュニケーションをとることを楽しむデンマークの友達がいた。あなたはどう思うの?それが好きだった?どうだった?とたくさん私を主語にした質問を投げかけてくれる人がいた。
一緒にみんなと生活しているうちに、よくおしゃべりする人以外であっても、私は何かしらの愛しさを感じるようになっていった。それは、その人は私にとてもよくしてくれる人で、とかそういうものでなくて、ただいるだけで愛しいと、そう思える人が増えていった。ただ、誰かがいるだけで安心した。

私はそれから、信じられるようになった。
私は、特別何かしていなくても、愛されるに値する人間であり、素晴らしい人である、ということを。私の丸ごとを抱きしめてくれる人がこんなにもいるということを。
そこから、ふーーーって楽になった。
ああ、誰かに認められるために、とか、自分が価値ある存在だと証明するために、とか、そういう風に切羽詰まって頑張るのってちょっとしんどかったのかもしれない。常に自分という存在意義をかけてがけっぶちだったのかもしれないと。心に余裕が生まれづらかった。

そうすると、思考も少しクリアになったんだ。
私、自分で自分を嫌いになるループから抜け出したいんだった。と。
じゃあ何ができるかな。とりあえず、自分が嫌だと思った瞬間を書き出して、どうしたらよいのかちょっとした対応策を立ててみようかな。目に見える場所にとまるように書き出してみようかな。
ちょっと考えればやれそうなことをやってこなかった。今まで自分に自信をつけるために何か特別な目標みたいなものを立ててみても、それを実践できなくて自己嫌悪のループだったけど、いまの自分がどういうときに心が痛むのか、というのにちゃんと向き合えるようになって、知ったかぶりをしない、誉め言葉を素直にうけとる、みたいな簡単なところから始められるようになった。
何か特段の努力や成果を出さなくても、私はそのままで素晴らしいんだから、そのままの自分を出せるように、素直でいられるように、そしてその上でちょっとでもより良くあれるように努力してみよう。そんなループになった。安心して、ちょっと頑張ろうと思えるようになった。

日本に帰ってきた。
気が付いた。自分を卑下する人がとっても多いことを。
そして、それに気が付かなかった自分がいたことを。
今は明確に違和感を覚える。あなたはなんでそんなに自分をさげるのか。そんなこと言わないでほしい。そう思うようになった。そしてはねかえりで、自分が自分を卑下することがすごく減っていることに気が付いた。自分をネガティブバイアスなくみられるようになった。そして、人を歪んでみなくなった気がした。きっと私はいつの日からか、マウントされにいく習性がついていた。それが多分だいぶなくなったからだと思う。
自分ができないこと、みたいなものをすごく劣等感に覚えていた分、自分ができないものをできる人をすごい、と思い過剰に下から出てしまったり、逆に人が単純に情報をシェアしてくれていただけかもしれないことを、自慢してるのかな、と思ってしまったりしていた部分がなくなった気がする。
人の見え方が変わった。
伴って社会の見え方も、なんだか変わった。

そして、留学が終わって1か月たっても、日本に帰ってきてもなおそういう風に思い続けられているのは、同じホイスコーレに通っていた日本人留学生の存在が超絶に大きいと思う。毎日寝食共にして語り合った友達が、日本のそれぞれの場所で、自分らしくあるのがちょっと難しい日本で、自分らしく生きようと、周囲の人がいきいきと生きられるような社会を作ろうと、頑張っている。それがよくわかる。すごく、同志に感じる。遠くにいても、SNSやLINEで思いを共有する度に、互いを認め合って、確かめあっている感覚がある。
ものすごく心強い。
見知らぬ誰かが、同じように頑張っていることでインスパイア受けることもある。けど、同じ時間を過ごした友達が、自分らしくあろうと、より良い社会を作っていこうと頑張っていることを知っている状況っていうのは、そしてそれを客観的に見て素敵だって思えている状況は、人と比べて劣等感と自己嫌悪にまみれていた私に戻さないでくれている。


私は家庭環境にすごく恵まれていて、小さい頃から無償の愛を家族から受け取ってきた。けど、それでも、成果でばかり評価される社会にずっといると、成果を出さないと自分は価値がないと思ってしまうようになり得るという訳だと思っている。特に受験やスポーツといった競争社会に身を置いていたのも影響していると思う。家族だけでなくて、でも家族のような、自分そのものを認めてくれる存在が一人でも多くいる、ということをわかっている状態は、とっても私を私でいさせてくれて、安心して、頑張ろう。そう思わせてくれる。
それでも、成果をとにかく重視した環境に24時間いたら、きっと私はまたもとの自分に戻ってしまう可能性もあるだろう。
だから、自分が過ごす環境、というのはちゃんと選択したいし、自分がまずはいろんな人にとっての安全で安心な人でありたい、と思う。