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宗教・信仰について①【バギオ留学】

こんにちは。
今日は休日なのでルームメイトは皆お出かけしていて部屋には私一人です。
久々の一人の時間で、たまには一人も心が落ち着いて良いなと思います。

さて!今回は宗教について感じたことを書きたいと思います!
恐らくこのトピックについては、あともう1回は書きそうな気がしています。
自分の中で、知識量が追い付いていないのと、全く咀嚼・消化しきれていないからです。とりあえず、今のもやもやを書き残しておこうと思います。

日本にいた頃

・日本には公教がないこと
・大学入学まで公立学校で教育を受けてきたこと
・家族が何かの宗教に熱心という訳ではなかったこと、など
おそらく色んな理由が相俟り、私の宗教に関する知識は底辺レベルでした。
というか強く関心をもつきっかけがなかった。

大学では多文化共生について学んでいたので、宗教というトピックに触れる機会は多く、考えを巡らすこともそれなりにあり、少なくとも宗教を悪いものとしては捉えてこなかったつもりです。
けど、今考えるとやはり宗教という言葉が身近ではなかったこともあり、本質的には「無関心」という言葉が適切だったように思います。

出国前宗教について考えていたことはと言うと、
日本人は宗教や強く信じる指針のようなものをあまり持っていないから、生きづらい傾向があるのかな、”
とか、
何か信じるものを持てるっていいな、強くあれそうだな
とかそのくらいにしか考えていませんでした。

宗教が時に戦の種となることについても、
宗教によって違う考え方しているからそりゃ対立するよな、異文化がわかり合うって難しいもんな
くらいにしか考えておらず、、

かなり表面的にしか捉えて考えてきていなかったのだと気づかされました。
(今もまだまだ表面的、知識不足ですが)

フィリピンにきて

私が暮らしているバギオがある“ルソン島”というフィリピンで一番大きな島は、8割がカトリック教徒で構成されていると言われていて、街には沢山の協会があります。
そのため先生たちも殆どがカトリック教徒でキリスチャンです。週末にはミサに行くという話もよく聞きます。

また、私の語学学校の1割くらいはサウジアラビアからの生徒で、彼らはイスラム教徒です。学校ではハラール料理を食べています。たまにハラール料理をふるまってくれて、手で食べる食べ方を教えてくれたりします。(めっちゃ美味しかった)
何となく、宗教に触れる機会は日本よりは多くて、“異文化だな面白いな~”くらいにしか感じていませんでした。

先生とのおしゃべり

私にはとっても仲良しのフィリピン人の先生がいます。同い年で、哲学的な会話や本質的な会話(愛とは何か、自分はどう生きていきたいか、等)ができるとっても貴重な存在です。私は彼女の事が本当に大好きで、いつも彼女と話すことを楽しみにしています。

ある日、何かのきっかけから宗教の話になりました。彼女もキリスチャンです。宗教の話をする彼女は今までで見たことないくらいとってもキラキラしていて、この彼女をここまで惹きつけるものというのにすごく興味が沸いて、彼女が信じているもの、考え方について、何時間も授業そっちのけで話を聞きました。私は本当に無知なので、「神とかいないっしょ!」とか「なんで信じられるの?」とかとても無礼で根本的な質問を沢山投げかけ続けました。


その中で、彼女はJesus Christを「本当に心の底から信じている」んだな、というのを肌で感じたのです。いや、多くの人々が心から宗教を信じている事はわかっていたつもりです。
でも、本当に、心の底から信じているんだ、ということを全ての会話の節々から感じて、少し唖然としてしまいました。
彼女が見ている世界は、全てが神によって作られていて、彼女は私という人間も神の手によって作られたものだと思っているんだ。と。
彼女にとって、神が何よりも偉くて権力を持っていて、神は全てを知っていると思っている。そう思うと、少し彼女と距離を感じてしまう自分がいました。本当に率直な感想を言うと、「わ、本当に洗脳されているんだ」と思ってしまったという感じです。(本当に失礼だと思う。すみません)

彼女が人に優しくすること、モラルある行動をすること、ほとんど全ての行動が信仰と結びついている。
・なんでそれをするのか→神が喜ぶから。
・なんで○○という選択をするのか→神によって禁じられているから。聖書に書いてあるから。

人々の行動の背景、モチベーションの源泉等を知るのが好きな私ですが、それらは、その人らしさを知れるから好きだと感じています。日本で、何か深堀った質問をした時に、宗教について語られることは今まで全然なかったので、先生と話していて、感情や行動の源泉が、ここまでも信仰によって作られているのかと、本当に驚いてしまったのです。
(勿論、人によって信仰のレベルは違い、同じキリスチャンでも沢山の信仰の種類があることはわかっているつもりです。)

と同時に、もし自分が多くの宗教や信仰について理解を深められたら、世界中の多くの人の感情や背景を知れるヒントになるのでは、、?とも感じ、宗教やその理念を勉強したい!という強い好奇心に駆られました。
久々の心から湧き上がる好奇心にうきうきし、聖書のアプリをダウンロードして読み始めてみたり、ネットで色々調べたりしてみました。

ミサに参加して

先週の日曜にはバギオ大聖堂という大きな協会に行き、ミサに参加しました。前々日からミサの意味等をわくわくしながら調べて、聞いて、とても楽しみにして行きました。
バギオ大聖堂は本当に大きな由緒正しきカトリックの教会で、ステンドグラスが美しい教会でした。私は午後に3回あるミサのうち2回目のミサに参加しました。教会に入りきれないほどの人々がそこには集まっていて、1回だけでも恐らく800人は超えていたと思います。

初の教会。初のミサ。高ぶる気持ち。
でも、そこで、私は「恐怖」を覚えてしまったのです。祈る人々の姿を美しいと思えなかったのです。血の流れたキリストの磔の像が沢山ある教会の中で、皆が皆赤ちゃんから老人まで、何度も何度も十字を切り歌を歌う。私には、目に見えない神という存在をなんでそこまで崇め奉ることができるのか、わからなかった。一体感が大好きな私だけども、教会で感じた一体感は私を戦慄させた。
まだまだ知識が足りないのか、はたまた自分の器が小さいのか。
何が何だかわからないけれども居ても立っても居られずに、ミサの終わりの時間を迎える前に、その場を去ることにしてしまいました。

本当は祈り信じリスペクトする気持ちを、リスペクトしたくて行ったのに、より距離を感じて帰ってきてしまい、とても落ち込みました。どうすれば理解できるのだろう、勉強するしかないのだろうか。理解はできずとも、どうすれば違う信仰を持つ人々と、距離を感じたり負の感情を抱いたりすることなく接せられるのだろうか、、。ミサに参加する、という経験が、私を長く暗いトンネルへといざないこむこととなってしまいました。

まだまだこの経験はクリアに言語化できずにいます。

つづく

長くなりそうな気がしたので、一先ず宗教編①を終わりにします。
自分の偏見というか、理屈を超えた感情に驚きが隠せませんでした。これから先も、きっと宗教に関して考えることが多くなると思います。
この投稿に続いて、自分の信仰とは?ということ等々について書けたらと思います。

※少しセンシティブな内容だったので、気を悪くされてしまった方がいたら、本当に申し訳ありません。

世界はわからないこと、知らないことだらけだーーー><

それでは!