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身近なことと見たい社会

私が大学2.3年生のころかな、いろんな授業に頭を出すようになって、いろんな学生と出会うようになって、その時に、私がよく感じたことが、
「あ、この人私に興味ないな。」とか「あ、この人私が部活やっていること見下しているな」とか、「あ、この人私から得られるものは少ないと思ったな」とか、そういうことだった。
自分がネガティブだとかそれ以上に、あからさまに態度として示されることが何度かあった。向上心が強いように見える人ほど特に。その時に、すごく悲しい思いをして、自分のレベルの低い質問とかをしづらくなったから、私は決してこれからの人生で≪すごい人≫になることがあろうとも、そういう態度をとらないようにしようって思ったことを、たまに思い出す。それと、世界平和語るのに、私には優しくしてくれないんだ、とかもやもやしたことも思い出す(笑)


一方、ここデンマークで今のところ、「この人価値ないな」「自分の意見も持ってなくてくそだな」みたいな目で見られたり「自分にとってこの人と話すことは生産的でない」みたいな態度をとられたりしたことは一度もなくて、自分が英語がへたくそであっても、最後までtake your timeと待ってもらい聞いてもらった経験のほうがよくあてはまる。どんなにうまくロジカルに説明ができなくても、わかってくれようとしたり、自分が考えが浅かったり情報に乏しかったら、ただ情報シェアするだけだよ、と言ってシェアしてくれることが多い気がしている。
そんな安全な空間を作ってもらって、やっと、自分の意見を未熟であったり気づきのレベルが低いと感じても、感じたことそのままに話すことができたり、それを踏まえていろんな人の意見を聞けて、学びが深まっていく感覚を得られている。それは間違いなく、自分の自信にもつながっていると思っていて、自分の頭でより一層考えよう、発信しようと思う思考に直結している。

そういった経験が自分にとって大きかったのか小さいのかはよくわからないけど、
最近人を見下す、ということは、間違いなく自分が見たい社会(皆が自分の存在を認められる、とか大多数に無意識に流されない社会とか)と相反するなと、もやもやしていたところがすっきりした感覚があった。
すなわち、人が素直に自分の意見とか、わからないことを言える雰囲気を毎日毎回作る、ということは、自分が見たい社会に近づけるな、と思った。


私は、ナチスの再来みたいなことが怖くて仕方がなくて、一人ひとりがしっかりと考える力を持たず、疲弊の末に大多数に流れ物事が悪く運ばれることや進まれていくことが、とても怖い。(もちろん、自分もその中に含まれている。)
文句を言う楽さや誰かのせいにする楽さに流されて、その人の幸せな人生が台無しになるのもいやだし、みんなハッピーになってほしいって普通に思う。

じゃあ、どういう人が大多数に流れる大衆と化すのかな、って考えたときに、
労働や家庭に疲弊する、といった側面はまたボリュームが大きいので置いておいたとして、
自分の意見に価値を見出してもらえた経験が少ない人、自分の意見を自信をもって言えない人、否定を恐れる人、間違いを恐れる人、というのが大多数に流れがちなんじゃないかと思ったわけです。もちろん他もあるとは思うけど、それも一要素やと。
そういう場をつくりだしてきたのは教育であったり家庭であったり友人関係であったりいろいろだと思うのだけど、
そう思ったら、自分は、大きな夢や平和を語ってそういうことに関心がない人を見下したりするのではなく、日ごろから接する人に自分のそのままの意見を安心して言える環境を作れる人でありたいと思うわけで、なんとなく、昔人に抱いた違和感がすっきりした気がした。人を価値ない、という目で見ることは人をより考えない人に仕立て上げてしまう。


あと、そこで、あんまり情報をもっていなかったり、自分の意見もっていない人、自分で何か社会問題に向けてアクションを起こしていない人を、否定したりするのはただ敵を作るだけだと感じる。
例えば、気候変動のためにビーガンやベジタリアンになるとして、それをやらない人をけなしたりするのは、その人が気候変動のためにアクションするかもしれない可能性と未来をつぶすことになると思う。
例えば、インスタ映えばかりを狙って写真を撮る人たちを、頭ごなしに、何も考えていないで人から賞賛されることばかりを気にしている、とけなすのは、その人がこれから写真を使って何か社会に強く訴えかけることにつながるかもしれない可能性をつぶすだろうと思う。
例えば、自分に自信がなくて、うじうじと悩んで一歩踏み出せない人のことを、そういう人たちは一生成長できない、とかいう言葉で片づけたら、その人達は余計自分たちの意見を発信して自信を得ていく過程をそがれるだろうと思う。
例えば、選挙に行かない人たちのことを、選挙に行かない人とか意識低すぎだろ訳わからん、頭悪すぎ、とかそういうけなし方をしたら、その人は本当に選挙に行く人が偉くて自分の義務なのか?と「意識高い」と言われる人との隔たりを大きくしていくだろうと思う。

成長するために、自分を変えるために必要なこと、の一つとして、≪付き合う人を変える≫というのはよく言われる話ではあって、とてもよくわかるのだけど、そこで人を見下したり、けなしたりしてほしくないなあと、特に社会貢献に携わりたいと思う人たちにちょっと感じたり、自分の教訓にしよう、と思ったりした。

何はともわれ自分自身があまりにも、温かいこのフォルケという環境に身を置いて人の温かさに触れて、自分の意見自信がないときも言っていこうというメンタルになって助けられているから、この環境が社会全体としてあったらいいな、私が今度はその一員になりたいなと思ったわけです。