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Shareと愛【バギオ留学】

こんにちは。
英語でHi!とYeahの汎用性が高いがために使いすぎて、日本語で話す時もyeahと言ってしまい恥ずかしい思いをする今日この頃です。

今回はshareするということ、分かち合うということ、について考えたことを書きたいと思います。

離れてわかる大切さ

大学1年生が上京して親元を離れた時、地元の良さや親の有難さを身に染みて感じる、、だとか、恋人と距離をとってみてわかる互いの大切さ、とかよく言うと思うのですが、その類の現象が私にも起きています。

地元東京が恋しくてたまらない、ということは残念ながらないのですが、
「感情や状況を誰かと共有している」という状態がすごく恋しくて、自分にとってとても大切な事だったのだと気づかされました。
これは特に最初の1・2週間で感じたことです。

特有のコミュニティ

学校は沢山人がいるけど誰とも同じものを見ている気がしない。人が回りに沢山いるのに、毎日一緒に過ごす人がいるのに孤独。
皆が英語を勉強して、英語力を向上させるという同じ目標を持っているけど、私たちはチームではない。そして人の入れ替わりも激しい。

私にとってこういった種類のコミュニティというのは初めてで、どう人と接していいのか、心外にも結構戸惑ってしまいました。
学校での人間関係が、薄っぺらいだとか表面的だとかそういう事が言いたいんじゃなくて、私にとってここでの人との関係の築き方が、とても難しく感じる訳です。

自己開示と安全安心空間

私は自己開示をすることになんの抵抗もない人で、人に話せない秘密とかもありません。よくやる失敗は人の心に土足で踏み込んでしまうということ。こちらに来ても、多分必殺「なんでなんで攻め」をしてしまっているのだと思います。潜在的に私は、相手と沢山の事をシェアしているという状態を作りたいからだと思う。

恐らく今までは、なんでなんでを繰り返しても、沢山答えてくれたり、答えようと考えてくれたり、私のロジカルでもなんでもない自己開示も受け止めようとしてくれる友達に囲まれていました。だから私は友達や仲間が作りだしてくれていた安心安全空間のもと、自己開示を恐れない、沢山の感情や選択に関する質問をするのが好きな人でいれたのだと思います。

こっちに来て気が付いたら、私はなんでなんでを繰り返さなくなっていました。
驚く程に自己開示もしなくなっていた。この場所で調和を崩してまで本気でコミュニケーションをとる必要がなくて、自分の弱さをわざわざ人に見せなくてもやっていける。自分のロジカルでない心の奥底の話を醜いながらに話す必要がない。
今までの部活生活、大学生活とは違い、何かをシェアしている必要、心の奥底について話す必要がないし、それを求められていないと感じるのです。

必要はない。求められていない。
けど、その状況は私を満たさない
と感じました。

それで、
分かち合っている状況、シェアしている状況というのが、今まで私を安らげて幸せにしていたのかもしれないと思った訳です。

大学生活は特に、友達や部活の同期、スタッフ達と同じ時間をともにして、沢山笑って、沢山思いを共有した。家族は私のその時々の苦しいという状況や、忙しいという状況、何にはまっているとかそういうのをいつも知っていてくれた。
何かを共有するというのは、とても幸せな事で、それが私を支えていたのだと、一人になって、今まで経験したことのないコミュニティに属して初めて知ります。

おしゃべりをするということ

こちらに来て、時間や思いを共有している、というだけでも、ものすごい価値があることを知って、親友らとのおしゃべりがとっても愛おしいです。(たまに電話したりチャットしたり)

日本にいる時で自分の媒介価値に囚われ過ぎてしまっている時は、“私に相談してくれるのは嬉しいけど、私は何もあなたに解決策を与えることはできない”とか、“こんなつまらない悩み話したところで相手の時間の無駄かな”とか考えることも多かった。

けど、なんというか、自分の感情をありのままに思うがままにシェアできるというのがとても幸せな事で、自分を自分のままに表現できるという事も幸せな事で、誰かの苦しみを一緒に悲しんだり、悩んだり、誰かの喜びを一緒に自分の事のように喜んだり、何かを分かち合っている状態というのが、私を満たしていたのだなと思った。
私が“一体感”とかが好きなのも、きっと、これに通じているのだと思います。

家族に関しても同様です。私は家でいつもたっくさんおしゃべりをしていました。家族に対してこんなつまらない話をして迷惑かな、とか考えたことがなくて、
圧倒的な心理的安全性のもと、小さい話も、ちょっとした面白い事も、話すことができて、沢山の状況や感情をシェアしてきた。
日本にいたらどうでも良いと感じてしまっていたかもしれない親からの連絡も、とても嬉しいし、海外に出たら、何となく自分から家族に連絡することなさそうと思っていましたが、今は大体私から、楽しかったこととか共有してしまいます。

3月9日とアイネクライネ

一番ホームシック・フレンドシックだったのが、3月9日周辺で、
レミオロメンの3月9日を聞いていました。

新たな世界の入り口に立ち、気付いた事は一人じゃないってこと。
瞳を閉じればあなたが瞼の裏にいることでどれほど強くなれたでしょう。
あなたにとって私もそうでありたい。

という歌詞に、心を打たれまくりました。(笑)
病んでいるようですが、そうでなくて、単純に、家族や友達の大切さを身に染みて感じていた時だったので歌詞が沁みたのです。

あとアイネクライネ

消えない悲しみもほころびもあなたといればそれでよかったねと笑えるのがどんなに嬉しいか。
目の前の全てがぼやけては溶けてゆくような奇跡で溢れて足りないや

にも泣けていたなあ。
こちらに来て自分のだめさや不安に涙する日も幾度かありましたが、友や家族への溢れる感謝というか愛に涙した日の方が多い気がしています。(涙もろいです)

おわりに

シェアと愛、というか、友と家族、みたいな話になってしまいました。
けど、これから自分の中で、シェアという観点が何か生きる中でのキーワードになりそうだなと感じたので、タイトルはシェアです。
何かを共有していることはきっと愛を生み、愛はまた何かを分かち合わせ、更なる愛を生むのだろうなーなんて漠然と考えている。

あと、離れてわかる大切さで東京恋しくならないと言いましたが、日本は最高に恋しくなります。(笑)
トイレットペーパーが流せるって楽だなとか、水道水が飲めるって幸せだなとか、出汁って、日本の米って、湯舟って最高だな~という感情は毎日のように抱いている。(笑)

家族や友達の愛含め、日本の様々なインフラ含め、当たり前が当たり前でないことをちゃんと認識するきっかけにこの留学がなるよう、自分の直感やもやもやと向き合い続けたいと思います。

次は、愛と関連して宗教についてかな~。考え中です。

では!