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ことばとIdentity【バギオ留学】

こんにちは。
こうして英語ではなく日本語を書くことに罪悪感を覚える語学留学生活です。

今回は、留学にきて感じた“ことば”に関する感情をシェアしたいと思います。

英語を勉強したい理由

そもそもなんで英語を勉強したいかと思ったかというと、
今いる学校では、説明が長くなるのでいつも“今年の夏から行くデンマークの学校で困らないようにしたいから”と話しています。
ですが、根本は少し別のところにあります。

遡ること16年。私は英語の勉強を始めました。
ですが16年も勉強しても、私は英語を話すことはできないでいました。
典型的な受験のための英語勉強をしてきたからだと思います。
大学受験も何とか突破し、大学でも英会話の授業を取ってみたりしたのですが、英会話に関する自信がつくことはありませんでした。


大学に入り、様々な自分の関心分野に関するイベントに参加できる機会を得たものの、その場所がEnglish onlyの場所であると、私はいつも参加を踏みとどまってしまっていました。英語に対するコンプレックスのせいで学ぶ機会を沢山損失してきたのです。今考えると、そんな小さなプライドのために沢山のチャンスを逃す必要はなかったのに、と思えますが、そんな小さなプライドさえ傷つけたくなかった当時の自分の想いも理解できます。

加えて、大学・部活生活で様々な学びを得る中で、「沢山の人の感情の背景を理解したい」という思いが自分の中で大きくなりました。そうすることで自分が人に優しくなれると思ったからです。
「異なる文化の背景を慮れること、抱えられること」は、「より多くの人に寄り添える人間になること」に繋がると考えてきました。


比較国際教育を勉強する中で、日本や日本の教育を客観的に見ることが増え、ありきたりですが、自分の見てきた世界や自分の受けてきた教育は、世界のたった一部の地域の物でしかないことも感じてきました。もっと色んな世界を知れたら、まず自分がもっと生きやすくなると思ったし、何か行き詰まりを感じる人に対しても、プラスに転じる違う視点を届けられる日が来るだろうと、、。

そうなった時に、もっと広い世界を見て感じ、沢山の人と対話を通して自分の固定概念を崩していくためには、英語ができること、話せることが大きなメリットとなり、最低条件だと単純に思った訳です。これが、今私が語学留学をしている理由です。

だったら、昔から一生懸命色んな手段を使って勉強してきなさいよ!何も休学してまで、、。という話であることは十分わかっていて、私も沢山後悔してきました。
でも昔やればよかったこと、後悔している事が、今から挑戦しない理由にはならないのと、今やらなかったらこれから先も何百回と後悔することがわかっているので、今このタイミングで語学留学、というわけです。

と、前置きが長くなりすぎてしまいましたが(笑)
こちらに来て、“言葉”について考える機会が増えたので、それについて書こうと思います。

漠然とした不安

留学へ旅立つ3日前くらいから、なんだか訳の分からない不安に苛まれていたのですが、その要因の一つは、間違いなく言語に対する不安だったと思っています。
“言葉が通じないこと=自分のことを表現できない=コミュニケーションが取れない=不安”
という方程式が自分の中でおそらく出来上がっていました。

でも、考えてみたらコミュニケーションの手段って、言葉だけじゃないんですよね。
ノンバーバルな部分の方が人のだいたいの印象を左右するとわかっていたつもりだったのに、人を信頼できるかは言葉よりも行動だと部活で学んでいたはずなのに、
莫大な不安という感情が、自分がいかに“言葉”に強く依存してきたのか、ということを気付かせます。

私にとっての"ことば"

で、なぜ自分にとって言葉がここまでも大切か、ということを考えて出た答えが

“自分の一番の表現方法が言葉だから”ということ。

とってもありきたりに聞こえる気がするけれども、自分にとっては一つの大きな発見でした。


私は歌が得意な訳でもなく、スポーツが得意な訳でもなく、絵が得意な訳でもなく、それぞれをすごく好きな訳でもない。自分のことを、それらを通して表現することは難しいです。表情もずば抜けて豊かというわけでもない。(ピアノを熱心にやっていた頃は、恐らくピアノも私の大きな表現手段の一つだったと思うけど)

私は文章を書くのが上手とか得意という訳ではないけど、言葉を紡ぐのは好きです。
何か嫌な事があったら、無心で言葉を紡ぐ作業を通して、自分の心を安らげるという事も沢山あった。何か嬉しい事があったら、とにかく言葉を紡いで、書き残して、もっと喜びに浸るという事も沢山あった。当たり前すぎるけど“日本語”とは生まれてからずっと一緒に過ごしてきて、私の一つの大きなアイデンティティになっていた事に気づかされます。日本語は、どんな時も一緒で今まで私を支えてきた頼れる戦友だったのだなーと。

アイデンティティの喪失

だから、フィリピンにきて、というか日本語の話せない環境にきて、
言葉を失うということは、一つのアイデンティティの喪失なんだなと、大げさかもしれないけど思いました。特に最初の方は自分の想いを表現できない苦しさ、自分の想いを分かち合えない悲しさが本当に苦しく感じた。私は自分で選んでこういう環境に来てはいるけど、もしも自分の表現方法を人から制限されたら、どれほど苦しいのだろうと思います。
「表現の自由」ってめちゃくちゃ大事なんだなと、体感した気分です。

派生して、植民地の時代に自分の言葉を制限され使えなくなった時、人々はどんな思いだったのだろう、どれほど辛く苦しかったのだろう、、自分の地域の言葉が時代の流れとともに消滅していくことはどれほど悲しい事なのだろう、、と、考えてしまいます。ただの史実ではない苦しさがそこには沢山あったのだなと思わされるし、少数民族言語の消滅が現在進行形で進んでいることに対しても、いろいろと考えさせられる毎日です。


実際、フィリピンは100前後の言語があると言われていて、沢山の言葉がなくなりつつあります。母国語、公用語、国語が全部違う、なんて人は沢山います。
公用語の1つが英語なので大体のフィリピン人は英語ペラペラで、それで私も英語をここに学びに来ている訳ですが(ネイティブかそうでないかが英語学習にどう影響するか、みたいな話はまたの機会に)、なぜフィリピン人が英語を話せるのか、とか背景を考えると複雑な気分になります。。

とかなんとか書いたのですが、実際私の語学学校には、沢山の日本人がいて、学校外では日本語を話せてしまうというのも現状です。(笑)英語学習にはよくない。(笑)

おわりに

長くなってしまいました。
駄文をここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
※目次とかいろいろレイアウト作るのはまだハードルが高いので、しばらくはこんな感じのnote(文章)になってしまうと思います。すみません

今回は言葉について書きました。
こちらに来て日本語という言葉の美しさを改めて感じ、日本語という戦友への愛しさも増していますが、本来の目的を思い出し、自分を英語でちゃんと表現できるように英語力をしっかり向上させようと思います。あとは、何か言葉以外でも自分を表現できる手段を得たいです。

次は何をTOPICに書くか決まっていないですが、恐らく今回と関連して、“人の判断基準”等について思った事を書けたらなと思います!

では!