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あとになって意味をもつ写真たちのことをぼくたちはまだ知らない

その写真が意味をもつ日が、明日かかもしれはいし、1年後なのか3年後なのか10年後なのかわからないけど、きっとある。

少し前にiPhoneから、ストレージがお腹いっぱいだよの通知がきて、カメラロールからいそいそと不要なものを消す作業をしていました。

無造作に入れられた写真の中には、なんで撮ったのか分からないようなものもあるし、それこそ何でお気に入りに入れたのか分からない写真とあった。

きっとその時のぼくにとって、とても意味のあるもんだったんだろうなぁと思いつつ、今のぼくには意味がなくて、そのまま消してしまった。 
 
その逆もあって、見返していたらあれこれは?って思うものが出てきて、お気に入りにいれた。 
 
きっと今のぼくに何か意味があったんだろうなぁ。 
 
そんなことをしてるから、写真は溜まる一方で結局消せないことものばかりになる。
 
写真には、いろいろな種類がある。
それこそ撮る写真家によって千差万別、だ。

そして鑑賞者によって見方、感じ方も千差万別で、それまた千差万別、だと思っています。 
 
何かと答えや最適解を求めていくと、何かしらの意味を持って撮ろうとすることもあるけど、それは当の本人しか分からないし、当の本人でも理解できないこともある。

見る側となった時、その時代の状況やその人の環境、境遇で同じ写真でも与えられるものが違って。
 
だから、ぼくはぼくの写真がいつ意味をもつのかは分からない。
だから、いつもいつでもは意味を持って撮ろうとすることをやめることにした。

そして大事にでも雑にでも写真をたくさん撮って持っておこう。
いつかのその日のために。

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