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小説「気がつけば秀吉」

 授業に出たくなかったので、目黒日吉は学校の屋上に来た。昼休みには生徒でにぎわう屋上も、授業中だからもちろん他に誰もいない。日吉はそこで腐りかけていた手すりにもたれかかって、雲に覆われて薄暗い空をぼんやりと眺めていた。手すりのサビを無意味に撫でたり、ゆするとガタガタするので何度もおもちゃみたいに揺らしていた。屋上は風が吹いて少し冷たいのが心地よかった。日吉は精神的にもやもやすると、いつもひとりで屋上に来ていた。ひとりになりたかったのだ。
 その屋上へもうひとり生徒がやってきた。クラスメートの櫃出路明だ。
「日吉!」
 乱暴に呼びつけられ、日吉はイラっときた。もやもやの原因はこの路明だってのに。
「お前がこうやって授業をサボるたびに、俺がパシリにされるんじゃないか。同じ剣道部で、高校一年二年と同じクラスだったってだけの理由でな」
 そう。日吉は路明と一緒にされることが多かった。同じ剣道部だったり。同じクラスだったり。仲が良かったことなど一度もないのに。
 と言っても、仲が悪いわけでもなかった。どっちでもない。お互いに「またあいつか」程度の意識しかなかった。
 だが今年、高校三年になって、保科藍という女子が同じクラスになった。日吉と藍は中学が同じで、その頃からずっと気になっていた。高校も同じで、いつか友達になるチャンスが来るのではと考えいてた。だが、気にしてるのは日吉のほうだけで、藍は日吉が中学高校と同じ学校だったこともずっと知らなかった。日吉は藍に存在すら認められてなかったのだ。それがショックだった。
 ゆえに、日吉は藍に話しかけることもできず、教室で遠くからこっそり藍を見つめるだけだった。眠れぬ夜は藍で発散したりもした。一方、路明は社交的で男女ともに友だちも多く、藍とも自然に話していた。日吉が六年かかってできなかったことを、路明は三十分でやってのけた。藍が路明と話すときの笑顔、ほがらかな笑い声、連れ立って廊下を歩く姿。それらを見たり聞いたりするのがつらかった。せめてクラスが違えばまだマシだったのだが。
 いつしか二人はつきあってるとか言われるようになった。本人たちは否定してたが。
 だから、その路明に怒鳴られれば、ムカつくし、反抗もする。
「お前に関係ないだろ」
「ふざけんな、お前のせいでこうやって呼びに行かされるって言ってんだろ。教室に帰るぞ」
 日吉は無視するように、灰色の空を見つめていた。
「ヒネくれるのもいいかげんにしろ!」
 路明にそう言われて、日吉は路明の胸ぐらをつかんでくってかかった。
「なんだよ。やんのかよ。紅白試合で一度も俺から一本も取れたことないくせに」
 剣道部の練習で日吉が路明から一本も取れないのは本当だった。それだけに、日吉は頭に血がのぼった。路明も日吉の両腕をつかみ、取っ組み合い寸前みたいになった。
 そこへもう一人、屋上に生徒がやってきた。保科藍だ。二人がもめてるのを見て駆け寄ってきた。
 日吉はめんどくさいと思った。
「何やってるの!先生が二人とも早く教室に戻ってこいって」
「だってよ。ほら、やんのか。それとも教室に戻るか」
 路明は日吉を手すりに押し付けるようにして日吉の動きを止めていた。
「俺に指図するんじゃねえよ!」
 日吉は力を抜いたり入れたりして路明の体勢をくずし、今度は路明が手すりに押し付けられた。そのことが路明をイラつかせた。
「てめえ!」
 二人は何度も体勢を入れ替えながら、お互いを手すりに押しつけあった。
 それを見ていた藍が困ったようにやや大きい声を出す。
「やめなさいよ二人とも。やめて!原因はなんなの」
「このサボり魔に聞けよ!」
 そう言いながら、路明は目線で日吉を指した。
 路明は日吉が自分をやっかんでいるのを知っていた。それだけに、部活も勉強もロクにできないくせに藍を気にしている、気にしてほしくてイジけている日吉にイラついていた。
「くそっ!」
 何度めかに体勢を入れ替えたとき、二人の体重が手すりにかかった。
 その時。
 腐りかけていた手すりがとうとう壊れ、一部が屋上から落ちていった。そこに体重がかかっていた二人も、バランスを崩して落ちていった。
 それは一瞬で、あまりにあっけなく、藍は声も出なかった。二人はごく自然に、当たり前に、校庭に向かって落ちていった。
 日吉の視界には灰色の曇り空が逆さに映っていた。四階建て校舎の屋上から落ちたのだからすぐ地面に着きそうなものだが、スローモーションのように時間がゆっくり流れているように感じられた。
 やがて二人は、校庭に植えられた葉をたっぷり生やした大樹の中につっこんだ。
 日吉の視界はスローモーションが続き、やがて真っ暗になった。

 無限に続く暗黒の中を日吉は流されていた。その間、周囲はおろか自分の手足さえ見えず、己が存在してるのかすらよくわからなかった。
 意識が戻ったのは、体中に衝撃を受けて地面に叩きつけられたときである。
 そこは土とぼうぼう草に覆われた、大きな木の根本だった。森の中というか山の中みたいである。イタタと言いながら、頭も打ったかと痛い部分をさすっていると、野太く尖った声が日吉の意識を刺した。
「貴様、何奴!」
 声の方を向くと、馬に乗った男がこちらに銃というかライフルのようなものを向けていた。男は着物というか薄汚いボロボロの浴衣みたいなものを着て、長い髪の毛を束ねていた。片肌脱いで露出した胸や腕は、細くかつ筋肉隆々として、無駄が一切ない身体に思えた。年上のように感じたが、そこまで歳違わないようにも見えた。
 学校の屋上から落ちたはずの自分が、このような場所であのような男に銃を向けられているというシチュエーションが理解できず、日吉はボーッとするのみだった。
 すると男は発砲した。
 撃たれたと思い日吉は思わず肩をすくめた。だが撃たれたのは、日吉の少し後ろにいた、茶色っぽいボロボロの衣服の人間(たぶん男)だった。
 馬上の男が構えた長い銃の先からは煙が流れていた。
「どこぞの間者か」
 男はそういうと鼻で笑った。
 自分が狙われたのではないことに安心してか、日吉は身体をぐったりとさせ、深く息を吐いた。
「しかし、本当にサルが木から落ちるとはな。お前のおかげで間者に気づいたわ」
 男は日吉にそう声をかけた。まだ若そうなのにずいぶんと低くしゃがれた声で、重厚な貫禄を感じさせた。自分がサル呼ばわりされてることに気づくのに少し時間がかかった。
「ハッ!」
 男は馬で走り去った。
 日吉は何がなんだかわからなかった。
 校舎の屋上から落ちて生きているのはいいのだが、ここはどこなんだ。なんで校庭じゃないんだ。日吉は現在地を確認しようとポケットからスマホを取り出したが、ロック画面に表示された年月日に目を疑った。
「1554年?!」
 時計が狂ったのか。故障したのか。だが他の機能は正常に動いているようだ。現在地の確認もできた。できたが・・・今、日吉がいる場所は、愛知県名古屋市あたり。しかもマップには「尾張」と書いてある。周囲には駅もコンビニもファミレスも、それどころか道路も確認できない。
 日吉は頭がおかしくなったのかと思ったが、頭のおかしい人間が自分の頭がおかしいと自覚するのもヘンな話だ。それに、周囲の光景はあまりに実存感がありすぎる。土も、草も、風も、周りの木々や緑も、明らかに実際の景色だ。
 とにかく状況を把握したいと、山を降りた。山というか実際には丘みたいな感じの場所であったが。
 あたり一面は田んぼや畑で、遠くにも山が見える。
 スマホのマップで地形はわかるものの、山と川くらいしか無い。
 その、田んぼや畑で働いてる農民らしき人に話を聞くと、やはりここは尾張。そしてさっきの馬に乗った男は、うつけの殿様、つまり織田信長だというのだ!
 なるほど1554年なら時代も合う。
 納得している場合ではない。
 このままでは飯も食えないし、今夜寝るところもない。こんな時代のこんな場所に飛ばされたら、そのへんでのたれ死んでしまう。
 まずはどこか街らしき場所に行かねば。信長がいるなら城があろう。その城下に街があるはずだ。いろいろ検索したら(なぜかできた)信長の居城は「那古野城」と言うらしい。住所で検索したらなんとマップに場所が表示された。時間はかかるが歩いて歩けない距離でもない。
 日吉はとにかく城へ向かって歩くことにした。
 その途中、道端でうずくまってる女性と、その背中をさすりながらおろおろする中年の女性がいた。声を掛けると、急な病で困っているという。もう少しでお城に着く、そしたら薬があるからと言う。中年女性は、城まで助けを呼びに行こうとするも彼女の側を離れるのが心配で、どうしたらいいかわからなく軽くパニクっていた。
 そこで日吉は、彼女を背負って城まで連れて行くことにした。正直ずっと歩いてて足はつらかったが、どのみち城へ向かっていたのだ。それにこの女性、着物もキレイだし、お付の人がいるところを見るとそれなりに身分のある人かもしれない。そういう打算をする自分が日吉は嫌いだったが、今は非常時だからしょうがないと自分に言い聞かせた。戦国時代に飛ばされたらどうするか、はさすがに検索しても出てこなかったし。
 女性の家についた。世話をする人が何人も出てきて、家の中に連れられていった。しばらくするとどうやら落ち着いたらしい。なにかお礼がしたいと言うので、訳あって故郷を追われ行くあてのない旅をしている。なんでもするからしばらく置いてもらえないかと相談すると、仕事をするならという条件で許された。我ながら口からでまかせだ。仕事はつらそうだが、どうやら飯と雨風をしのぐ場所は確保できたから良しとせねば。
 女性の名前は吉乃と言い、なんと信長の側室だという。こんなめぐりあわせもあるものか。

 吉乃は信長に見初められて側室になったというだけあり、なかなかの美貌だった。日吉よりだいぶ年上だったが、それはそれで日吉に年相応の女性の魅力を感じさせた。吉乃の側にいられると言う想いだけで、日々のつらい仕事(主に雑用)も我慢できた。いやそれは言いすぎた。つらいものはつらい。薪割りだの水汲みだの慣れない力仕事ばっかり。夜明けから日が暮れるまで仕事しっぱなし。飯は一日一度。寝床は馬小屋の藁の上。奴隷か。現代に戻る方法も思いつかない。もちろん検索しても出てこない。でも、たまに吉乃の顔が見れるのを楽しみになんとか過ごしていた。
 信長はよく吉乃の家に来た。側室に会いに来るということはそういうことだ。うらやましい、俺もヤリたい、吉乃に優しく筆下ろしされたい、と日吉は思った。高校生はヤリたい盛りだし、童貞の日吉はだいたい頭ン中エロいことでいっぱいだった。信長が来た夜、抱かれてる吉乃の声を聞きながらこっそり発散することもあった。
 信長が吉乃に会いに来たある日の翌朝、雪が降った。そんな中、信長が帰るまで外で控えてなければならなかった。そこでふと、信長の草履が目に入った。とにかくクソ寒いので草履をケツに敷いて座った。信長の足音が聞こえたので日吉は急いで草履を揃え控えた。が、信長は草履を履くと低く響く声で言った。
「ぬくい!」
 次の瞬間、信長は控えてる日吉を思いっきり蹴飛ばした。
「こいつ、ワシの草履をケツにしいておったな!そこへなおれ!」
 信長はまさしく鬼の形相で刀を抜こうとした。そうだ。信長そういうキャラだった。日吉はエロいことばっか考えてて気を抜いていた。
 とにかくこの場をなんとかしなければ、と日吉は雪の降る中、急いで土下座した。
「いえ、とんでもございません。この寒さゆえ、殿の草履をふところであたためておきました!ふところでぇ!あたためておきましたぁ!」
 日吉はとにかくでかい声で必死にアピールした。これ、信長と秀吉の有名なエピソードのはず。上手くいってくれ。童貞のまま死にたくない。
 シンと静まり返る中、雪だけが積もる。
 寒さで震えてるのか、ビビってるのか、日吉は自分でもわからなかった。だが、信長は急に笑顔になり、でかい声で笑いだした。
「はっはっは。そうかそうか。よう気がつくのう」
「ハハッ!恐れ入ります!」
 土下座し顔が信長に見られないようにしながら、日吉は100メートルダッシュしたあとみたいにゼイゼイと何度も息を吐いた。
「面を上げい」
 信長の笑い声は失せ、低く響く声を日吉にかけた。日吉は息を整えながら、恐る恐る顔を上げた。
「おう。おぬし、いつぞやのサルではないか」
 何ヶ月も前に一度会っただけなのに覚えられてた。天下人とはこういうものか。
「ついてこい!」
 信長はそう怒鳴ってスタスタと歩き出すので、日吉はあわてて立ち上がった。寒さで足が軽くマヒしてるっぽく、よたよたと信長についていった。
 日吉は、信長の側に仕えることとなった。今まで側で仕えてた者が逃げ出したため欠員があったという。その者の名が「藤吉郎」だったから、日吉はその名を受け継げと言われた。また、信長が出会った時の様子から「木の下におったから木下、今日からお前は木下藤吉郎と名乗れ」と殿直々に名前を賜った。
 木下藤吉郎。
 検索するまでもなく、天下人・豊臣秀吉の若き日の名だ。
「俺が、木下藤吉郎・・・つまり、豊臣秀吉・・・」
 日吉・・・いや藤吉郎は思った。さっきの草履の件といい、このまま史実通りに行くならば、俺が史実通りに動けば、俺はやがて天下人になれるということか。そしたら現代に帰る必要など無いではないか。別に何か楽しいことがあったわけでもないし。
 そうだ。俺は天下人になるのだ。

 それからは、藤吉郎はとにかく信長に気に入られることを目指した。信長の身の回りの雑用を任されてる時点で気に入られてるとも言えたが、ヘマをすればその場で手討ちである。
 それでもなんとか務めることができたのはスマホのおかげだ。暇さえあれば信長のクセや好みなどを調べたり、この時代での困ったことがあればそれも検索した。サバイバル系のサイトが役に立つこともあった。
 何より頼りになったのが、マップと天気アプリだ。この時代に天気予報などあるわけがない。それだけに、いつ雨が降るのか、いつ晴れるのか、大雨や台風はどのくらいの規模なのか、そういうことを藤吉郎がほぼ当てるので、信長はその点に関しては、藤吉郎を実に頼りにしていた。
 マップアプリで地形を正確に把握できたことも様々な点で役になった。さすがにスマホ画面を見せるわけにはいかないので、筆で紙にさも自分が調べたように書いてみせた。こうしたことで藤吉郎は信長だけではなく他の家臣たちからも一目おかれるようになっていった。
 その藤吉郎の力は、あの有名な桶狭間の戦いでも大いに役に立つことになる。
 藤吉郎がこの時代に来てから6年後の1560年5月、遠江と駿河(現在の静岡県)を支配する大名・今川義元が数万の大群を率いて尾張への侵攻を開始した。
 一方、織田軍の兵力はわずか数千。まともに戦っても勝ち目はない。
 今川軍が尾張領内への攻撃を開始した夜、信長のいる尾張・清州城では籠城か出撃か家臣たちが延々と議論していたが、結論は出なかった。
 信長ももはや考えるのがつらくなったのか、自室へ引きこもってしまった。それを見た家臣たちは意気消沈し、もはや議論する気力もなく、通夜のように静かになった。
 自室で信長は荒れた。頭を抱え奇声を上げ、のたうちまわった。そうかと思えば四つん這いになり震えていた。不安と恐怖で発狂寸前だったのだ。やがてもう精も根も尽き果てたのか、大の字になって寝っ転がった。
 その音を藤吉郎は外で聞いていた。静かになるのを待って、信長に声をかけた。
「サル・・・サルか?!」
 信長は外へ出てきた。涙目であった。
「僭越ながら、それがしに今川軍を破る秘策がございます」
「なんだと?」
「まずはこれをご覧ください」
 藤吉郎は自筆の地図を信長に見せた。もちろんマップアプリを利用して描いたものだ。
「敵がこのまま進軍すれば、午の刻(正午)あたりには、この谷あいの地へたどり着くでしょう。ここでは大軍も動きにくく、逃げることもままなりません」
「桶狭間か」
「しかもこの地、午の刻あたりには大雨が降ると思われます」
 これももちろん、天気予報アプリや気象レーダーアプリで調べた結果だ。
「サルは空模様を読むのが上手いからのう」
「谷あいの地で大雨が降れば、敵は動くこともままならぬはず。そこを義元の首のみを狙えば、勝利は間違いございません!」
 歴史がそうなってるのだ。藤吉郎は確信を持って断言した。
「今から出陣すれば間に合うな!」
 藤吉郎の言葉に奮起した信長はお約束の「敦盛」を舞い、わずかに小姓などを引き連れて出陣した。あきらめモードだった家臣たちはそのことを知ると、あわてて信長を追った。
 それでも兵の数は三千人ほどだった。
 藤吉郎は万全を期すために、桶狭間周辺の農民らに、これから偉い殿様が通りかかる、戦続きでお疲れだろうからぜひもてなしてやってくれと金を与え、酒や女を手配させた。
 果たして桶狭間に着いた今川軍本隊は、土地の者たちに接待を受け、ゆっくり休んでいた。そこに大雨。さらに信長らの奇襲攻撃を受け今川軍総崩れの中、義元は討ち取られてしまう。
 大大名・今川義元が討ち取られ今川氏の勢力が急速に衰退したことで、東日本の情勢は大きく変化し、また信長も天下人への歩みを進めることとなる。

 信長は今川氏から離反し三河(現在の愛知県東部)を制圧した徳川家康と同盟を結び、東への備えとした。そして斎藤龍興が支配する美濃(現在の岐阜県南部)への本格的な侵攻を開始する。
 藤吉郎は「木下藤吉郎秀吉」と名乗りはじめた。なぜならネットでこの頃から名乗っていると書いてあったからだ。なるべき史実通りに動けば、自分が天下人になれる。そう考えたのだ。
 桶狭間の戦いの翌年1561年、秀吉は結婚した。足軽組頭となっていた秀吉の相手は、同じく足軽組頭である浅野長勝の娘・寧々。これももちろん史実がそうなっているから結婚したのだ。寧々は美人というわけではないものの、屈託のない笑顔が秀吉の心を優しくつつんだ。それでいて肝っ玉母ちゃん的な強さもあり、秀吉を影から支えた。そんな寧々と秀吉は毎晩ヤッた。この時代だから当然いつも生で中出しだ。セックスとはこんなに気持ちのいいものかと感動した。寧々さえそばにいてくれればそれでいいと、この時は思っていた。
 信長は美濃攻略に際し、北近江(現在の滋賀県)の浅井長政に美濃を牽制させるため同盟を結び、妹のお市を政略結婚させた。このことが、のちに秀吉の人生にも影響を与えることになる。

 1566年。秀吉がこの時代に来て十年以上が経っていた。美濃を攻めあぐねてた信長は、侵攻の足がかりとするため、国境に近い美濃の墨俣に城を作ろうとした。佐久間信盛が築城を命じられるも失敗。次に柴田勝家が命ぜられるもやはり失敗。墨俣は中州にある上、敵の城から丸見えで妨害が絶えなかったため、築城は極めて困難だったのだ。
 ここで秀吉が名乗りを上げ、わずか数日で城を完成させた。世に言う墨俣一夜城である。やり方はネットで調べた。佐久間信盛も柴田勝家も失敗するのがわかってたので、それを待って秀吉は名乗りを上げたのだ。そのほうが自分の成功が評価される。信長は美濃攻略に成功し、秀吉の才覚は信長はもちろん家臣たちにも高く評価されるようになった。
 秀吉はほくそ笑んだ。全てうまくいっている。このまま史実通りになれば、やがて信長は明智光秀に討たれ、そして光秀を自分が倒せば天下人になれる。そう考えていた。

 その明智光秀との出会いがやってきた。
 1568年。室町幕府は戦国大名らの権力闘争の道具に成り果てていた。将軍となり幕府を再興したい足利義昭はひとまず越前国(現在の福井県)を治める朝倉義景のところへ身を寄せていた。だが上洛を渋る義景に業を煮やし、信長を頼ることにした。義昭と信長を仲介したのが当時朝倉義景に仕えていた明智光秀で、信長の正室・濃姫が光秀と親類だったため、そのツテを頼ったのだ。
 秀吉は、明智光秀の顔を見て驚いた。本当に驚いた。
 なんと、学校でもめて一緒に屋上から落ちた櫃出路明とそっくりだったからである。
 いや、そっくりなのではない。あの明智光秀は、櫃出路明本人ではなかろうか。はじめて会った時、その目を見た時、向こうも秀吉を日吉と知ってるような感じがした。
 このまま歴史が進めば、いずれ路明の光秀と戦うことになる。いやそれ以前に、路明が本能寺の変を起こすはず、だが・・・。
 光秀が路明なら、当然信長を討ったあと自分がどうなるか知ってる。負けるとわかっている戦いを自ら仕掛けるのか?
 そんな秀吉の戸惑いとは関係なく、歴史は動いていく。
 足利義昭は織田信長軍と浅井長政軍を従えて上洛(京の都に入ること)した。信長は義昭を十五代将軍に擁立し、自らは義昭を通じて天下に号令する立場を手に入れたのだ。秀吉と光秀も信長とともに上洛し、京都の政務にあたった。
 そうした日々の中で、光秀と二人きりで話す機会もあった。だが、秀吉は光秀が櫃出路明であることを確認できなかった。もし本当の(本当の?)光秀なら、このまま本能寺で信長を討ち、光秀を秀吉が討つことで、天下人への道となる。だがもしこの光秀が路明だったら?路明が光秀だったら?自分の障害となる秀吉をただではおかないだろう。秀吉はそれが怖かった。ほうっておいてもどうにもなることではない。だが今、光秀を討つわけにはいかない。光秀を討つのは信長が討たれたあとでなくてはならないのだ。
 ここから先は検索だけでなく、自らの考えと判断で歩んでいかなければならないのか。秀吉はそう覚悟を決めたいと思いつつも、やはり怖かった。
 もし史実から外れたら、自分はどうなるのか?

 上洛した信長は、将軍・足利義昭の命として越前国の朝倉義景に上洛を促すが義景はこれを拒否。元々朝倉氏は織田氏と対立関係にある上、上洛のため越前を留守にすることを嫌ったためだ。
 1570年。信長は自分に従わない朝倉義景を討つため、徳川家康とともに越前へ進軍する。この戦には秀吉と光秀も参加していた。
 当初は順調に進軍していたが、同盟関係にあった北近江の浅井長政が突如裏切り織田軍を攻撃した。浅井家には信長の妹・お市の方が嫁いでいたが、戦国の世に裏切りはつきものだ。
 浅井軍と朝倉軍に挟み撃ちにされた織田軍であったが、秀吉や光秀が殿(しんがり)を務め、京への脱出に成功する。殿とは、本隊が撤退する時最後尾で追撃を阻止し後退を援護する仕事。そのため武勇に優れるだけではなく、信頼のある者にしかできない任務であった。
 この時、秀吉と光秀は協力して戦った。
 秀吉は光秀の動きに注意していた。光秀が櫃出路明なら、どさくさに紛れて秀吉を亡き者にするかもしれない。そうすれば本能寺の変後の展開も大きく変わるからだ。
 だが光秀はそのような動きはしなかった。むしろ必死に秀吉と協力し、時には援護し戦った。もちろん殿という位置だけに力を合わせ全力で戦わねば生き残れないという判断もあったかもしれない。そして秀吉も光秀を援護することもあった。今はまだ光秀に死なれるわけにはいかないからだ。
 その後、1573年に再び越前国を攻めた信長は朝倉氏を滅亡させる。その後、近江国の浅井軍も攻め、本拠の小谷城を包囲した。秀吉は、信長の命で浅井長政に降伏勧告をするがこれを拒否され長政は自害。長政の妻で信長の妹であるお市の方と娘三人はなんとか救出に成功した。この娘三人のうちの一人・茶々がのちの淀殿であり、自分の側室になり、豊臣家を滅亡させる女である。
 助けてよかったのだろうか。
 この娘の行く末を知ってる秀吉は戸惑ったが、今はまだ何も知らない年端のいかぬ子供である。助けられるのに助けないなどということはできなかった。
 浅井長政攻めの功で秀吉は浅井氏の旧領を得、そこに自分の城・長浜城を建てた。この中で秀吉は、寧々と日々ヤリまくった。戦で常に死と隣り合わせでいる秀吉であったが、寧々に抱かれている間だけは心の底から安堵していられた。
 寧々は、優しかった。

 目黒日吉が秀吉になって、およそ二十年が経っていた。このころ、織田家重臣である丹羽長秀と柴田勝家にあやかって名を羽柴秀吉と改めた。なぜならネットにそう書いてあったからだ。
 秀吉はその後いくつもの戦で功績を上げ、みるみる出世していった。
 1577年。秀吉は、毛利輝元ら毛利氏の支配下にある中国地方の攻略を信長に命ぜられた。秀吉は次々に勝利を重ね、西へ西へと兵を進めた。
 そして秀吉の軍は備中国(現在の岡山県西部)に達した。

 1582年すなわち天正十年。本能寺の変が起こる年になった。
 この頃になると信長は全国の勢力を次々に従属させ、版図を広げていた。北陸や関東での戦いに加え、四国制圧の準備を行い、また中国地方には秀吉を出兵させていた。そのため信長の居城であった安土城(琵琶湖東岸)や京周辺は兵力が手薄になっていた。
 5月。毛利勢との対峙が続く秀吉は、史実通り信長に援軍を要請した。信長は光秀に秀吉への支援を命じ、これを受けた光秀は何ら怪しまれること無く挙兵したのである。
 秀吉は前もって京方面にいつもより多めに密偵を放つとともに、光秀の動向にも目を光らせていた。光秀が信長を討ったあと、速やかに光秀を仕留めねばその後の秀吉の立場も史実と変わり、天下人への道が危うくなるからだ。
 信長が討たれたという一報が来たら、速やかに京方面へ引き返さなければならない。いわゆる中国大返しである。秀吉が今攻めている備中国・高山城(現在の岡山市)から、光秀との戦闘となる山崎(現在の大阪と京都の府境)までおよそ二百キロ。それを二万の軍とともに十日間で移動し、なおかつ光秀との戦いに勝利しなければならないのだ。
 秀吉は不安だった。自分にできるのだろうか。もし光秀があの櫃出路明なら・・・。剣道部の練習で日吉が一本も取れなかった櫃出路明を相手に、勝てるのか。
 こればっかりは検索しても答えは出てこない。ただ史実が記されているだけである。
 これまで西へ進軍する途中にも、秀吉は道を整備し、途中に兵を休めたりできる場所を設けるなど、中国大返しに備えてきた。家来たちには怪しまれぬよう「のちに上様(信長)をお迎えする際苦労のないように今のうちにいろいろ整備しておくのだ」と説明していた。
 それでも心配だった。そもそも本能寺の変は起こるのか。光秀が櫃出路明なら、明智光秀の行く末を知っている路明なら、なにか仕掛けてくるのではないか。そう思うといてもたってもいられず、秀吉は高松城攻めを重臣・黒田官兵衛に任せ、上様を出迎えたいと言いわずかな兵を引き連れ自ら本能寺に向かった。なんならその場で光秀を倒すことも考えていた。
 本能寺の変が起こる(はず)の6月2日未明、秀吉は本能寺の近くまで来た。
 その時である。
 ものすごい轟音とともに周囲を照らすほどの火柱が高く上がった。本能寺が爆発し炎につつまれたのだ。
 炎が秀吉の周囲を明るく照らした。そして秀吉は驚いた。明智光秀の姿が見えたからである。やはり少数の兵を連れていた。
「もしやと思ったが、本当に来るとはな」
 嘲るような口調で光秀がが言う。
「お前が西国で道を整備してると聞いてな。なんとわかりやすいやつかと思ったよ。中国大返しをできるかどうか不安だったのだろう」
「なっ・・・!」
「密偵を放っているのがお前だけだと思ってたのか。それに、お前をこれを持ってるんじゃないのか」
 光秀は懐からスマホを取り出した。
「上様が・・・信長が言ってたよ。サルの天気の読みはアテになるって。そりゃそうだ。こんなん持ってたら、この時代なら誰だって予言者になれる」
「やはり・・・櫃出路明か!」
「ほう。俺のことを覚えててくれたのか。光栄だねえ。学校の屋上から一緒に落ちて、さて何十年経ったか。なあ日吉」
 炎につつまれた本能寺はパチパチバチバチと音をたてながら燃え続けていたが、ついにバキバキドドドという音とともに崩れた。火は一向に止む気配がなかった。
「しかし、これは・・・」
「知らんのか。本能寺の地下には火薬庫があったんだよ。そこに火をつければドーン!って、こうなる。是非もない、なんて言うヒマすらなかったろう」
 爆発の迫力、燃え崩れる本能寺、眼前の光秀いや櫃出路明。驚くことが次々に起こり、日吉は声を震わせてしまった。
「だが、これからどうするつもりだ。お前は俺に倒されるんだぞ」
「だったらここで斬るまでだ」
 路明は刀を抜いた。
「やめろ!お前は倒される運命にあるんだぞ」
「へっ。武士らしく一騎打ちといこうじゃないか。俺は歴史を変えると言ってるんだ。お前みたいに、好きな女と話せもしないようなチンケな奴に、俺が負けるわけ無いだろ。剣道部でも俺から一本も取れなかったくせに」
 襲いかかってくる路明に対し、日吉も刀を抜いて応戦した。
「うるさいっ!黙れ!」
 中学の頃からずっと好きで、だけど声をかけることもできなかった保科藍のことを言われ、日吉も頭に血が上った。
 交わった二つの刃はカン高い金属音を響かせ、本能寺の炎を受けて輝く。
 キン!
 これまでの戦と違い、知っている人間を斬るのは躊躇していたが、それも吹き飛んだ。
 キンキン!
「あんな、審判の多数決で勝負が決まるような剣道の試合が実戦で役に立つものか!」
 キンキンキン!
「いつも俺が先手を打ってたのに!」
 キンキンキンキン!
「そういうネジクレ根性だから藍もお前のことなんか気にしないんだ」
 キンキンキンキンキン!
 何度か刃を交えた末、先に傷を負ったのは路明だった。驚くほどの血しぶきが飛び路明は刀を落とした。日吉は、知り合いを斬ってしまった自分に驚いた。
 路明はすばやく刀を拾い、距離をとった。
 光秀の兵が路明を守りながら後ずさりし、秀吉の兵も日吉を取り囲み秀吉を守った。
「チッ。だがな、お前の勝ちはないぞ。すでに他の武将らにも、公家衆にも、秀吉に謀反の疑いこれありと知らせてある。西国の道を整備してるのは、毛利と組んで信長を攻めるつもりからだとな」
「なんだと?」
「たとえ俺が倒れても、お前が信長を討った張本人だ。もはや天下人の目はない」
 そう言うと路明の光秀は、兵とともに闇の中に消えていった。
 なんと。ここまで史実通りやってきたというのに。事前に本能寺へ来たのは間違いだったのか。
 日吉もとい秀吉は、山崎の戦いにおいて拠点となる富田(現在の大阪府高槻市)で布陣。忍びを放ち、西国へ向かうものをことごとく始末させ、情報を断った。その上で高松城にいる黒田官兵衛に、上様が暗殺された、毛利とは速やかに和睦しただちに引き返せ、決して毛利側に悟られるな、と指示を出した。また各方面には密偵を使い、信長は健在であり上様暗殺を目論んだ明智光秀を秀吉が討つと情報を流した。
 路明の明智光秀は信長本拠である安土城を制圧。貯蔵されていた金銀財宝で兵を集めたり朝廷工作に利用した。同時に、織田の武将らに謀反者秀吉を討つので加勢せよと呼びかけた。
 だがほとんどの武将は、信長が生きてるか死んでるかわからない中で、みな様子をうかがっていた。また、今秀吉が備中にいるなら、そんなにすぐには戻ってこないだろうという考えもあってか、光秀の呼びかけに応じる武将は少なかった。
 結局、史実とほぼ同じく、光秀軍二万弱、秀吉軍三万弱の軍勢で山崎にて対峙した。
 戦いがはじまってすぐ勝敗は決した。上様の仇討ちで士気にまさる秀吉軍が、金で集めた兵の光秀軍を圧倒したのだ。敗戦と判断するや光秀はわずかな伴を連れてすぐ戦場から逃げ出した。
 その後、光秀が落ち武者狩りの百姓に竹槍で殺されたとの連絡を受け、秀吉は安堵した。光秀の死が公になると、光秀から誘いの書状を受け取った武将や公家らはそれらを焼き捨て、光秀に関わった証拠を消した。
 秀吉、いや日吉の天下取りにおいて最も障害となる光秀こと櫃出路明を討ちとった。
 日吉は確信した。これで、これで天下は自分のものだ。俺は天下人になれるのだ。
 確かに、このあとの秀吉は順調に事が進んだ。織田家中の主導権を握り、徳川家康を降伏させ、全国統一に順調に近づいていった。

 1585年。秀吉は天皇から関白に任ぜられ、豊臣秀吉となる。朝廷から政治を任された事実上の最高権力者となった。
 天下人だ!ついに天下人になったぞ!
 これまで、いつもいちいち検索結果をチェックして、史実に沿って動かけばならんと気にしてた。実に晴れ晴れとした気分であった。自分よりエラい奴はいない。まさしくこの日本での頂点なのだ。これ以上の喜びはない。
 秀吉はすでに五十歳近くになっていた。だが心身の衰えはほとんど無く、特に夜は盛んであった。寧々もすでに四十である。寧々は、自分が跡継ぎを産めないことを気にしてか、秀吉に側室をよく薦めていた。それもあって秀吉には十人以上の側室がいた。彼女らをとっかえひっかえ毎晩毎晩ヤりまくっていた。かつて高校生の頃、スマホで無料エロ動画を漁り、今日は誰でヌこうかと頭を悩ませた日々もあったが、秀吉ならぬ日吉は今それをリアルでやっている。昨日は嶋姫、今日は甲斐姫、明日は摩阿姫。ヤリ放題だ。もはやこの国に思い通りにならぬものなどない。この開放感、この全能感は性の快楽以上に日吉を充足させた。
 そこへ、豊臣家の運命を握る少女が秀吉のもとへやってきた。
 茶々である。
 かつて信長が滅ぼした浅井長政の娘で、秀吉が救い出した三姉妹の一人だ。あれから十年以上が経っていた。
 秀吉の元へ来た茶々はまさしく少女も少女。そして子供の頃は気づかなかったが、なんと保科藍にとても良く似ていた。中学高校とずっと想いを寄せながら一言も口をきけなかったあの藍にそっくりなのだ。それこそ年齢もあの頃の保科藍と同じくらいだった。
 藍もこの時代に来ていたのか?いや年齢が全然違うではないか。櫃出路明の明智光秀の場合とは異なる。
 実際、藍いや茶々が秀吉に向ける目は、知った顔だというよりは、ただただ空虚であった。父の仇の側室にならねばならぬ運命を受け入れるにどれほどの覚悟があったか。それは秀吉が想像してもしきれるものでもない。
 そして茶々は藍でもない。
 はじめてともに夜を過ごした時、ただこの世のあるがままを受け入れるように秀吉に抱かれた。
 茶々は、秀吉いや日吉の心に染み入ってきた。
 今自分の腕の中に藍がいる。教室でいつも見つめることしかできなかった藍を抱いている。違うとわかっていても、茶々を抱いている時、日吉は藍のことを思い出していた。そしてその茶々の藍が今自分を(主に物理的に)受け入れてることを何より幸せに感じた。
 毎晩とっかえひっかえ側室を抱いていた秀吉だったが、茶々が来てからはすっかり茶々とだけ寝るようになった。娘ほども歳の離れた藍いや茶々と、日吉いや秀吉は毎日ヤりまくった。

 その後、秀吉は関白として惣無事令(戦を禁止する命令)を発した。これに反し戦をするものを成敗するという大義名分で、四国、九州と次々に制圧。
 1590年。惣無事令に違反したとして関東の北条氏を二十三万の軍勢をもって制圧。東北の武将らも臣従させ、全国統一を成し遂げた。
 全てスマホで検索したとおりだった。
 さて、秀吉が全国を統一し戦がなくなった。もともと現代人である日吉の秀吉は、やれやれこれでもう戦をしなくてすむといった心持ちだった。
 だが武将たちには違う想いがあった。
 生まれてからずっと戦しかしてこなかった者たちである。自分が攻め込まれる心配が無くなったら、どこかに攻め込みたいという気持ちが武将らの間に蔓延していった。
 誰となく、日本の武将が束になれば敵などいない、次は外国だ、という流れになった。大陸進出は信長の意思でもあり、この気運を制することはなかなか難しくなった。
 秀吉は甥(この時代に甥とかいないはずだが有名になると知らない親戚が増えるというアレだろう)の秀次を養子とし関白の座を譲ると、自らは太閤となった。身内に関白の座を譲った者を太閤と呼ぶのだが、太閤・秀吉は関白の親でもあり、政治の実権が秀次に移ることはなかった。
 太閤秀吉は戦を求める国内の気運をそらすため、唐入りを決断する。戦をしたがらない今の腰抜け秀吉なら倒せると思われ、謀反されるのを防ぐためだ。
 唐入りとは明国(中国)征服のこと。そのため朝鮮に秀吉の軍を通すように要求したが拒まれたため、まず朝鮮を攻めることとなった。
 1592年・文禄元年、朝鮮出兵。いわゆる文禄の役である。開戦当初は順調に勝ち進んだが、その後明国の援軍が来るなどしたため、戦況は膠着状態となった。
 1593年。明国との講和交渉を開始することとなり、その使節として沈惟敬(しん・いけい)という男が日本に来た。
 沈惟敬と面会した秀吉はその顔を見るや真っ青になり、あわてて人払いをした。
 装いや髪やヒゲでずいぶんと見た目は異なっているが、秀吉には、いや日吉にはわかった。こいつは櫃出路明だ。
 真っ青になった秀吉の顔を見るや、沈惟敬は不敵な笑いを隠さなかった。
「ククク・・・こういうときは、ちゃんと足はついてますぞ、とか言ったほうがいいのかな。それにしても、お互い歳をくったな」
「やはり路明・・・!なぜ生きている?」
「生き延びたからだよ」
 さも当然という感じだった。
「明智光秀の最期をスマホで調べて、似たような死体に似たような格好をさせて、百姓に持たせたのさ」
 確かに、日吉の秀吉は光秀の首実検(死体の確認)をしていない。迂闊だった。
「それで、生き延びて、大陸に渡ったのか」
「まあな。有能な人間ならどこへ行っても活躍の場はあるものだ」
 路明の目は完全に日吉を見下していた。
 平静を装おうとした秀吉だったが、驚きや戸惑いがモロに顔や態度に出ており、それが沈惟敬を笑わせた。
「・・・それで、明国からどんな話を持ってきたのだ」
 路明が沈惟敬すなわち明国の使節であることを思い出し、日吉の秀吉はあらためて問うた。
「では・・・まずはこれをご覧ください」
 書状を出そうと沈惟敬は懐に手を入れた。だが次の瞬間彼の目つきは変わった。沈惟敬はすばやく懐から棒手裏剣を取り出し、秀吉に向かって投げた。
 沈惟敬の目つきが変わった時に臆し、座ったまま後ずさったのが幸いし、手裏剣は秀吉の顔をかすめるだけですんだ。
 この物音を聞きつけた家臣たちが飛び込んできたが、沈惟敬はこれを手裏剣と短刀で蹴散らし逃げていった。その後も沈惟敬を捉えたという報告は無かった。
 沈惟敬が投げた棒手裏剣には毒が塗られており、秀吉は体調を崩した。毒の直接の影響は少なく一命はとりとめたものの、これ以後、秀吉の体調は急速に悪くなっていった。

 沈惟敬と面会する前、茶々は男子(のちの豊臣秀頼)を出産していた。だがそれが自分の子でないことを秀吉すなわち日吉は知っていた。検索結果からも明らかであった。それでもあの子供は豊臣秀頼なのだ。茶々が溺愛しているなら、それでいい。
 日に日に体調が悪化する秀吉の面倒を見たのは主に寧々であり、茶々は見舞いにも来なかった。それこそ、秀頼の実父と言われる家臣の大野治長あたりとよろしくやっていたのだろう。
 主君を暗殺されかかったことで打倒明国の気運は高まり、1597年・慶長二年に再度朝鮮出兵が行われた。いわゆる慶長の役である。だが病の床にあった秀吉は、この戦の仔細も戦果も知らない。
 やがて秀吉はほぼ寝たきりのようになり、もはや先は長くないと誰もが思っていた。
 意識も曖昧になりながら、秀吉は天井を見て過ごす日々が続いた。
 電気のない時代。夜ともなれば真っ暗で、横になっている秀吉には天井すら見えない。
 クルマや電車の通る音も、エアコンの室外機や換気扇の音も、何も聞こえない。
 新月の夜ともなれば完全な暗闇と静寂が訪れる。
 秀吉は、まるでこの宇宙に一人でいるような気持ちになった。
 ある夜、宇宙での孤独を感じたまま、秀吉の意識はスーッとどこかへ落ちていき、何かにガツンとぶつかったかと思うと、次の瞬間にはまばゆい光につつまれた。
 光が収まると、日吉は全裸で宙に浮いており、空は灰色の雲に覆われていた。下を見ると、そこは日吉が通ってた学校の校庭だった。自らも高校生の姿を取り戻していた。
 校庭では生徒たちが集まって大騒ぎになっていた。その中心にはある生徒が倒れており、頭部は潰れたトマトのようにぐしゃぐしゃになっていた。
 日吉はわかった。あれは俺だと。
 ぐしゃぐしゃトマトの死体のそばにあった銅像には血の跡がべっとりついていた。屋上から落ちた時に銅像に頭をぶつけたようだ。
 一方、銅像のそばに生えている大樹の木陰では、櫃出路明が保科藍から手当てを受けていた。ボロボロの制服には葉っぱがあちこちについており、どうやら大樹がクッションになって軽傷ですんだらしい。
 なんと。
 嗚呼、俺はどこまでツイてないんだ。俺一人だけ死んでしまうなんて。剣道部で一本も取れなかった相手には、やはり勝てないのか。一生勝てなかったのか。
「何を言ってるの。あなたは天下をとったのよ」
 日吉にふわっともたれかかるように全裸の女が現れた。寧々だ。それも、出会った頃の若い姿のままで。
「あなたはこの国の頂点に立ったのよ。なにもくやしがることはないわ」
 寧々は優しくささやき、日吉に寄り添った。
「そうか。そうだな・・・だけど・・・だけど・・・」
 くやしさを抑えられないといった感じでつぶやいていると、また全裸の女がふわっと現れ、寧々とは逆サイドに寄り添った。
「あたしがいるじゃない」
 そう言って女は笑った。茶々だった。保科藍の姿をした茶々だった。ずっと笑ってくれなかった茶々が、はじめて日吉に笑顔をみせた。藍が、はじめて日吉に笑顔を向けた。
 二人の女にはさまれるようになった日吉は、二人の肩に手をかけた。
「ああ、そうか。そうだな。寧々も茶々もいてくれるなら、俺はそれでいいんだ」
 日吉は天を仰ぎ、涙した。
 全裸の三人はそのまますーっと空に向かって昇っていき、灰色の雲の向こうへ、太陽が永遠に輝く世界へ去っていった。


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