忠臣蔵

小説「やる気のない忠臣蔵」

 関ヶ原の戦いから百年ほど経った江戸時代中期、播磨国赤穂藩(現在の兵庫県)を治める浅野家の筆頭家老(一番偉い家臣)に大石内蔵助(おおいし・くらのすけ)という男がいた。親の跡をついでの筆頭家老。実際の政務はベテラン老中である大野知房が全てこなしてくれていた。この時代は仕事も役職も世襲。もとより、関ヶ原の戦いから百年経ち徳川家の支配が確立した太平の世においては手柄を得る機会もなく、大石内蔵助も何事もなく一生を終えるつもりだったろうし、そうなるはずであった。

だが、元禄十四年(1701年)三月、大石内蔵助四十二歳の時。内蔵助の主君である浅野内匠頭(あさの・たくみのかみ)が江戸城・松の廊下で吉良上野介(きら・こうずけのすけ)に対し刃傷(斬りつけ)。その日、江戸城では朝廷からの使いを接待する極めて重要な儀式が行われていた。徳川将軍の中で最も尊王心が高いと言われた五代将軍・綱吉は激怒。その日のうちに内匠頭に切腹を言い渡し、浅野家はお家断絶となった。

 この頃、殿こと浅野内匠頭は、京より江戸へきた朝廷からの使者を接待する勅使饗応役(ちょくしきょうおうやく)という極めて重要な仕事を担当していた。その内匠頭が、接待の期間中に、高家肝煎(接待を指南する立場)の吉良上野介を切りつけたというのだ。当時は喧嘩両成敗が慣例であったにもかかわらず、内匠頭はろくに詮議もされず、そしてその日のうちに切腹・お家断絶というとうていありえない仕打ちとなったのだ。吉良上野介は手当を受け将軍から直々に見舞いの言葉もいただたという。いくら吉良家が家柄も良く徳川家とも縁故が強かったら、とはいえ。

 刃傷の理由はなんだったのか。浅野内匠頭がこの世に亡き以上、もはやそれは誰にもわからない。ただ、その場で吉良上野介と打ち合わせをしていたという旗本(徳川将軍家直属の家臣)・梶川頼照によれば、浅野内匠頭は刃傷の時「この間の遺恨覚えたるか」と叫んだという。

 今と違い連絡手段は徒歩や馬のみだったため、大石内蔵助がこの状況を把握するのに半月くらいかかった。三月の末になってほぼ全容を把握した内蔵助は、家臣を城に集め、意見を集約することにした。
 が、すでに幕府の沙汰は下っている。実際、これからできることと言えば、幕府の沙汰に異論がないという恭順の意を示した上で城を引き渡し、その上で、浅野内匠頭の弟君である浅野大学(長弘)様を立てて浅野家再興を願い出る、これしかない。なにせ、お家断絶・取り潰しといえば、家臣全員が失業してしまうということを意味するのだから、文字通り食っていけなくなる。それは避けねばならん、という気持ちは、口に出さずとも皆共通してたのであろう。
 家臣の中には、城を受け取りに来る幕府軍と一戦交え、城を枕に討ち死になどと威勢のいい声を上げるものもいた。だが、すでに徳川の天下は盤石の時代。勝ち目などあろうはずもない。万が一勝ったら勝ったで、今度は幕府軍の総攻撃が押し寄せてくるだろう。お家再興どころではない。そんな戦はゴメンだと、真っ先に城を出たのは、かの有能な老中たる大野知房であった。

 そのため、これからは名実ともに大石内蔵助が舵取りをしていかなければならない。

 当時は同じ藩でも家臣たちは本国と江戸とに分かれて勤めていた。そのため、江戸住みの家臣は殿が討ちそこねた吉良を討たねばと熱り立った。だが当然このような事件の直後であれば吉良邸の警戒は厳しい。赤穂藩士皆であれば討てようと赤穂へ行き大石らをけしかけるが、家臣らの意見はすでに城明け渡しに決していた。
 内蔵助は、血気にはやる江戸組に対し、弟の大学様によるお家再興をまず目指すことこと亡き殿への忠義であると説き伏せる。江戸組を含め赤穂の地に戻れなくなる家臣たちに、内蔵助は生き続けるため藩の金を分け与えた。無駄死にはするな、まずはお家再興を目指そう、それがかなわなかったならば、それが決起のときである、と。
 お家再興。それは大石内蔵助の本心であった。城明け渡しの手続きの間にも、内蔵助は幕府目付けを通じて浅野家再興と吉良上野介処分を願い出ている。それがかなわなかったのは歴史のとおりであるが。
 全ての手続を終えた大石内蔵助は六月、家族とともに生まれ故郷の赤穂を離れた。

 その後大石内蔵助一家は京都の山科へ隠居をした。なぜ京都かと言えば、縁戚にある京都の公家へ浅野家再興の政界工作をするのに都合が良かったからというのがひとつ。
 そしてもう一つ、京の遊郭に通うのに都合が良かったからだ。
 赤穂時代から大石内蔵助は女好きで、なにかにつけて遊郭で遊びふけった。これは内蔵助が特別女にだらしなかったということではない。跡継ぎを残さなければならないという当時の社会制度による社会の共通認識である。
 で、それを言い訳にして、毎夜のごとく遊郭通いをしていた。
 この大石内蔵助の姿に、浅野家断絶以降、旧赤穂藩士らによる復讐を恐れ見張りを命ぜられていた吉良家の者たちは、呆れや戸惑いを隠せなかった。これは我々を欺くためなのか。あるいは本当に大石内蔵助は吉良家への復讐を考えていないのか、と。
 そして、大石内蔵助の様子に用心していたのは吉良家だけではない。
 吉良家は名門中の名門な家柄というだけでなく、三代将軍家光の異母弟・保科正之との関係を通じ徳川家そのものとも強い関係があった。この時の上杉家当主は上杉綱憲であるが、これは吉良上野介の三男である。先代の上杉家当主・上杉綱勝が跡取り無く急死した際、当時の取り決めではお家断絶になるところを、保科正之の斡旋で吉良上野介の長男・三之助を上杉家の養子(上杉綱憲)とし、取り潰しを免れたのだった。
 そして、元々浪費癖のあった吉良上野介はこの関係を利用し、上杉家にさかんに財政支援をさせ、上杉家は窮乏していっていたのである。
 もし、赤穂の連中が吉良を討ってくれたなら、上杉家の財政問題も一安心だ。
 大石内蔵助そして旧赤穂藩士の吉良家討ち入りはあるかなしかは、吉良家のみならず上杉家にとっても重大な関心事だったのだ。

 昼は浅野家再興に神経を減らし、夜、遊びに来たら来たで一挙手一投足を密偵に見張られる中、大石内蔵助は遊郭で女を抱いているときが一番心休まる時であった。
 特に、お軽という女が良かった。他に客もおろうに自分が来たときには格別喜び、小さな顔のわりに大きな目を輝かせて甘えてくる。世間知らずの昼行灯には、どの客にもそういう態度をしてるだろうというような想像力は働かない。小さくて柔らかいお軽の胸に顔を埋め、チラッと顔をあげるとお軽は実に幸せそうな微笑みで自分をつつんでくれる。このお軽とのときがずっと続くならどれほど幸せだろうかと内蔵助は思った。
 武士としてはあまりに油断しすぎかもしれんが、それが昼行灯の所以だろう。なんならこのままお軽と死ねれば、お家再興だの討ち入りだのめんどくさいことから開放される。そんなふうにすら考えていた。

 そうした間にも江戸組の旧藩士たちは、山科の内蔵助のところへ出向き、江戸へ来て討ち入りを、吉良の首をと、何度と無く催促をしている。
 しかしお家再興がかかった大事な時期に討ち入りだのなんだのと動かれてはうまくいくものもうまくいかん。仮に討ち入りをするとしても、それはお家再興の望みが絶たれたときだ。それまではなんとしても江戸の旧藩士たちに事を起こさせてはならない。そう、ひらすら言い聞かせた。内心、お軽との時間が終わるのが嫌だったのではあるが。
 お家再興がなれば、お軽とこれからもともに寝れるだろうか。とはいえ、お家再興がかなわぬことは、内蔵助もこのころから薄々感じていた。いっそ討ち入りとかみんな早く忘れてくれないだろうか。

 京で放蕩するばかりの日々で一向に討ち入りの気配を見せなかった大石内蔵助であったが、年が明けた元禄十五年(1702)年四月、嫡男である大石主税(おおいし・ちから)を残し妻子を離別した。これは、妻子に累を及ぼさんため、即ち討ち入りを決意したのではないか、と大石に目を光らす者たちは色めき立った。だが実際には、お軽と山科で暮らすためだったのだ。主税を手元に残したのは、血気にはやる旧藩士たちが主税を旗印にと討ち入りでもされたら、お家再興と何もあったものではないという判断だ。なお、お軽は十八歳だった。
 お家再興と討ち入り、両方の可能性を残し先送りしたまま、大石内蔵助はお軽との日々を過ごした。ただ側にいて、ともに陽の光を浴び、夜になれば身体をからませる。大石内蔵助は、このような日々がずっと続いてほしいと願っていた。
 藩政だとか、幕府だとか、討ち入りとか、お家再興とか、もうそんなことはどうでもよかった。
 実際どうでもよいではないか。
 内蔵助がこれまで生きてきて、それらになにか意味があったのか。
 お家再興?この山科の地でお軽と静かに暮らしてはいかんのか。
 幕府?幕府が何をしてくれた。戦国の世ならいざしらず、今や武士の嗜みは酒と女だ。
 討ち入り?はて、吉良の首をと叫んでいる者の中に、一度でも人を斬ったことのある者がいるのか。
 どうでもいい。
 もうずっとお軽と一緒にいたい。武家だとなんだのと関係ないところで、二人で静かに暮らしたい。そんなことばかり考えていた。それは人の営みとして、武士よりもよほど自然で有意義に思えたからだ。その生活を支える財は元はと言えば領民に納めさせた年貢なのだが、ずっと城の中で昼行灯と呼ばれながら仕事をしてきた内蔵助にはそれを実感できなかった。
 そうした父の姿に、十五歳だった大石主税は、いろいろと我慢するのがやっとだった。いろいろと。

 江戸に潜む“赤穂のお侍さん”は、いよいよ我慢の限界が近づいていた。ありていに言えば、窮乏していたのだ。身体も、心も、懐も。
 金貸しの用心棒になる者、酒に溺れる者。女遊びや博打にうつつを抜かす者、あげく、金に困り夜な夜ななんの関係もない江戸庶民を斬り金品を奪う者。
 一方で、別の理由で討ち入りから心離れるものもいた。元より皆たまたま武士の家に生まれただけで、誰もが武士に向いているわけではない。町人や職人として新たな生活を歩みはじめる者たちもいた。その際に職を紹介したり当座の金を手配したり時には女をあてがったのは、吉良家の者と思われた。身分を隠し旧藩士に近づき、討ち入りで無駄死にするより、新しい生活を考えてはどうか、と、窮乏する旧藩士に“手を差し伸べた”。
 その目的は、もちろん吉良家討ち入りの阻止である。吉良上野介は高齢ということもあってか気弱となり、旧赤穂藩士の討ち入りを日々恐れ、その阻止を強く命じていた。しかし直接に命を奪ってはかえって旧藩士たちの復讐心に火をつけるかもしれない。そこで金を使い、旧藩士たちの士気をそいでいこうという考えだった。
 その金は、やはり上杉家から出ていたのであるが。

 大石内蔵助が山科でお軽と暮らすようになって三ヶ月ほど経った七月。浅野内匠頭の弟君である浅野大学様が広島藩お預けを言い渡された。お家再興はかなわなかったのだ。
 内蔵助と主税は山科を離れ江戸へ向かうことにした。お軽との最後の夜、内蔵助は、自分と関係があったことを誰にも決して話すな、早く良い男を見つけて静かに暮らせよ、と当座の金を渡した。お軽にとっては大金であった。内蔵助にとって、もう山科へ金を置いておく理由など無い。ここで別れてしまえばもうお軽とは会えないだろう。お軽への最後の気持ちのつもりだった。その日暮らしもままならないほど困窮していた江戸の浪士たちのことは、あまり頭になかった。
 大石内蔵助と主税は他の浪士たちと合流しながら江戸へ向かい、到着は秋となった。

 浅野家復興ならずの報は江戸にも流れており、すわ赤穂浪士今度こそ吉良家へ討ち入りかと庶民の噂となった。火事と喧嘩は江戸の華と言われていたが、松の廊下での刃傷事件の時、一方的に斬りつけられたままの吉良上野介は、江戸庶民からは腰抜けよ武士の恥よとさんざんな悪評だった。それを気にしてか吉良上野介は刃傷事件の後すぐ高家肝煎の職を辞し、江戸中心部からなるべく離れた上杉屋敷に隠れるように暮らすようになっていた。その守りは当然上杉家が行わねばならず、いつ来るのか、来るか来ないかもわからない討ち入りのために警護は、上杉家の頭痛の種であった。江戸の民も、とにかく派手に盛り上がればそれでいいと、困窮し落ちぶれたり武士をやめたりした浪士の事には耳を傾けず、討ち入りはいつか、どこか、成功するのか、成功したらどうなるのかなどと噂話に花を咲かせていた。江戸百万の民が、見てきたような嘘を言う講釈師だった。人はいつの世も、見たいものしか見ないものである。

 これには大石内蔵助も困った。お家再興がかなわなくなったため、討ち入りを叫ぶ江戸急進派をはじめとする浪士たちの手前やむを得ず江戸へ来たというのに。こうも噂話が出回っていてはなんの準備もできない。いっそ病か何かで吉良上野介がさっさと死んでくれれば、討ち入りをする意義がなくなる、くらいに考えていた。
 それは内心、他の浪士たちも同じで、“赤穂のお侍さん”などと囃し立てる江戸の民に、騒ぐだけ騒いでなんの援助もしてくれねえ、こっちは毎日食うや食わずだってのに、とうとましく思うものもいた。藩から持ち出した資金も底をつきはじめて、あらゆる意味で限界が近くなっていた。
 冬が近づき、謎理論“区切りのいい年内に”も背中を押して、江戸庶民の赤穂浪士吉良家討ち入りへの期待は、日に日に高まっていった。

 その大石内蔵助に密かに会いたいという者が現れた。上杉家の家老で江戸に勤める色部又四郎(いろべ・またしろう)だ。上杉家当主綱憲は吉良上野介の実子であり、上野介の住む屋敷の守りも行っている。そこの家老が会いたいとか。内蔵助は迷ったが、このままでは内蔵助も八方塞がり。斬られるならそれもよし。討ち入りだの浪士だのめんどくさいことを全てほっぽりだして、お軽のところへ行ける。
 ある夜、小さな船の上で二人は密会した。そしてその色部又四郎の申し出に目も耳も疑うほど驚いた。色部又四郎は、吉良家討ち入りに必要となる吉良邸の絵図面を持ち出したのだ。また、吉良上野介が確実に屋敷にいる日も十二月十四日と伝えられた。色部又四郎はそれ以上言葉を発さなかった。その必要はない。色部又四郎は赤穂浪士に吉良上野介を討てと言っているのだ。
 吉良家を守る立場の上杉家の老中が赤穂浪士に討ち入りの重要情報を伝える。
 罠かもしれない。いやどう考えても罠だ。
 何かがある。
 大石内蔵助は他の浪士たちを遠ざけ、ひとり吉原へ行き、遊女の胸の中でお軽のことを思い出しながら、上杉家の、いや色部又四郎の真意を考えた。
 が、まるでわからなかった。
 もとより昼行灯の内蔵助が、江戸で勤める家老の権謀術数を読み解けるわけがない。
 内蔵助は考えるのを諦めた。
 ならば、色部又四郎の申し出を受けるというのはどうだろうか。
 あの情報が本物で、吉良上野介の討ち取ったなら、討ち入りを悲願としてきたものや、今まで自分を信じてついてきてくれた者たちも納得しよう。
 ではあれが罠だったとして。返り討ちにあったり、捕縛され幕府の処分を受けたりしたら・・・と、ここで考えて、内蔵助は考えが固まった。
 それは別にどっちでも同じではないかと。
 吉良の首を取ったあと、我々がお咎め無しで済むはずがない。切腹、あるいは斬首。おそらく討ち入りに加わったものは皆処罰されるだろう。
 では返り討ちにあったり、幕府に捕まった場合は?同じである。許されるわけがない。
 吉良の首を実際に取れたかどうかなどは、江戸の民は気にするかもしれないが、討ち入りを決行してしまえばその成否自体は結果を左右しない。
 ならば、内蔵助のお家再興工作をひたすら我慢し、討ち入りを日を信じ待ってくれた者たちのためにも、討ち入りは決行すればよいのだ。そうしたら皆せいせいする。何もかも終わりにすることができる。
 その前に、お軽にもう一度だけでも会いたいとは思ったが。

 その年の末。色部又四郎が教えてくれた十二月十四日深夜、大石内蔵助率いる赤穂四十七士はついに吉良邸へ討ち入った。この報を聞いた上杉綱憲(上杉家当主にして吉良上野介の実子)はすぐに加勢の用意をさせようとしたが、これを色部又四郎が止めた。幕府から出兵差し止めの命令が出ていることを伝え、もし命に背き出兵しようものなら、今度は上杉家が浅野家のように取り潰されてしまう、と必至の形相で綱憲を説得した。実際、討ち入り事件の後は、綱憲一人の情でお家断絶になってしまうところだったと、家臣たちは胸をなでおろしたという。

 色部又四郎が大石内蔵助に渡した情報は本当だった。内蔵助ら四十七士は無事吉良上野介を討ち取った。浪士達はその首を槍に突き刺し高々と掲げ、討ち入り成功を知った江戸の民が拍手喝采する中、亡き主君浅野内匠頭の墓がある泉岳寺へ堂々と向かい、その墓前に吉良の首を供えた。それからしばらく、江戸の民は赤穂浪士あっぱれと大いに沸いた。

 その後、赤穂浪士らは幕府に捕らえられ、四つの大名家に御預けとなった。
 御預けの期間は二ヶ月以上に及び、各大名家では罪人扱いというより、“この太平の世に武士道精神を忘れず本懐を遂げた武士の英雄”のように歓待されたという。江戸の民の中でも赤穂浪士よ見事であるとして話題をかっさらった。
 大石内蔵助はわずかに希望を持ち始めていた。
 各大名家や江戸庶民の反応から、なんとかみな命だけは助からんだろうか、と。もとより罪人としての処罰は覚悟の上で事に及んだ。だが、日々のもてなしや江戸庶民らの噂を耳にして、わずかに希望を持ち始めていた。助命嘆願の動きもあるというではないか。
 そうなれば、この討ち入りも無駄にならん。皆の命を将来へつなぐため、やってよかった、といえる。それに、生きていればお軽にも会えるかもしれない。内蔵助は、お軽の小さく柔らかい体の感触や、自分だけを見つめる小さな顔の割に大きな目の笑顔を思い出ししていた。

 しかし、幕府の出した結論は、全員切腹。幕府の沙汰を逆恨みしての徒党を組んだ押し込みなど義挙でもなんでもない、と結論づけた。それでも、各大名や江戸庶民の反応を考慮してか、通常の罪人としての斬首ではなく、武士としての切腹を命ぜられた。

 切腹は、各大名屋敷の庭先で行われた。切腹は覚悟していたというものの、内蔵助にはどうしても解せぬことがあった。それは、そもそも殿こと浅野内匠頭は何故吉良上野介に斬りかかったのか。詮議もほとんどされぬまま即日切腹させられたのか。殿の言う「この間の遺恨覚えたるか」とは、何だったのか。
 流れる涙をまぶたで塞ぎ、内蔵助は亡き殿に問う。

 教えてくだされ、殿。我々は何に命をかけ、何のために死ななければならないのですか。

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