非日常の中から、日常の有難さを知った
一本の清流に導かれ
写真集で見つけた一本の川に目が留まった。それはまるで、この世界のものとは思えないほどの輝きと青さだった。
「ここはどこだろう?」
すぐさま場所を調べると、それは高知県にある川だった。今でこそ地名のあとにブルーを付けて、「○○ブルー」と呼ぶことは一般的になったけれど、その当時、まだそう呼ばれている場所はほとんどなかった。それが「仁淀(によど)ブルー」だ。
それ以降わたしは、仁淀川(通称:仁淀ブルー)にとりつかれたように、清流の写真を眺め続けた。そして、こう感じるようになっていった。
「いつか本物の仁淀ブルーを見てみたい。」
非日常を求めて旅をした
わたしは大学生の時から、旅が好きだった。きっかけは、女二人で東南アジアを二週間かけて放浪するという、なんともアグレッシブな旅をしたこと。宿調達も現地、どこに行くかも現地で決めるという自由な時間だった。
この時を境に、自身のなかにあった旅に対するハードルが、ぐんと低くなったのを記憶している。
「旅をすれば、これまで見たこともない世界を堪能できる。」
そのうちわたしは都内の会社に勤めるOLになった。毎朝夕と満員電車に揺られ、慌ただしく活動する秘書になった。
忙しない平日とは真逆で、休みの日になると、たいていは自然がある場所に出かけた。川の音、海の表情、森の香り。すべてが癒しを与えてくれた。
こんな風に、わたしは旅が「非日常を感じるもの」であると理解していた。日常から離れて、非日常を感じてこそ旅なのだと考えていた。
出発の日
憧れ続けた仁淀ブルーに対面する時がきた。ゴールデンウィークだった。5月になると、仁淀川は鯉のぼりイベントで賑わう。
「せっかくだから、鯉のぼりの時期に行こう!」
一人で大きなバックパックを背負って、地元を飛び出した。当時付き合っていた彼氏も置いて、わたしは一人、仁淀ブルーに会いに行った。
「わあ。綺麗。」
仁淀ブルーは写真で見た通りだった。太陽に照らされて、ずっと光ってわたしを離さなかった。ちゃぷちゃぷと川岸を撫でるその透明感に、優しい気持ちをもらった。
「そろそろ宿に行こう。」
仁淀川を存分に見て楽しんだわたしは、一人が少し寂しくなって、宿へ移動することにした。そこは農家民宿だった。自分の両親よりも年齢が高そうなご主人と奥さんがふたりで経営されている、大自然のお宿だった。
「こんな素敵なお庭があるんですか?」
宿の目前、庭同然に広がるのは仁淀川と同じか、もっと透明度の高い川、吉野川だった。ところどころエメラルドグリーンやエメラルドブルーになって、あまりの美しさに、不思議な感覚さえ抱いた。
夜になると、わたしは奥さんの手料理にありついた。庭先で収穫したという山菜たち。タケノコ、ゼンマイ、フキ、シイタケ、などなど山の幸に、目いっぱい囲まれた。この時奥さんとたくさん話した。
そして、わたしの旅に対する考え方を、わたしを、変えてくれた気がする。奥さんはこう言っていた。
「わたしね、横浜に観光しに行ったことがあるんだけど。早くここに帰ってきたいって感じちゃってね。キラキラした宝石を見ても綺麗に思えないし、早く帰ってきたかったわ。」
そうか。奥さんには旅に出ても早く帰りたい、一番美しいと思えるふるさとがあるんだ。自分が暮らしている「ここ」が、一番の幸せな場所なんだ。楽しい場所なんだ。日常が輝いている。そう感じた。
奥さんのふるさとに対する想いを噛みしめながら、わたしは懐中電灯を片手に真っ暗な夜道を散歩した。奥さんは日常の尊さをよく知っている人だった。そして、ひとつの疑問が浮かんできた。
「わたしは旅で感じる非日常ばかりに人生の比重をおいて過ごし、ふるさとへ帰ったときの日常を、毎日を、大事にできているのだろうか?」
日常を愛する技術
しばしば旅に出る目的として、人生を変えたいだとか、旅に出たら簡単に何かが手に入る、海外ボランティアに行けばすごい、と思っている人も少なくないと思う。かつてのわたしもそうだった。
外へ外へと答えを探していた。
でも、旅に出れば出るほど、なにかが違うと感じていた。旅のなかで感じる非日常は、あくまで一瞬のできごとであったのだ。
仁淀ブルーを見たい。こんな願望も仁淀川を見れば、叶ってしまう。仁淀川を見ているその瞬間が非日常なだけであって、旅が終わればどうなるのだろう?また日常に戻るのだ。
「早く帰りたかったわ。」
わたしは、奥さんの言葉が答えになると感じている。
わたしはこれまで旅に、非日常や外部からの刺激を求めていたのだ。しかし、旅が終わればまた日常が待っている。その日常が辛かったら?楽しくなかったら?大事じゃなかったら?また旅を、非日常を、求めてしまうかもしれない。
「日常を楽しくする工夫が必要なのではないか?」
奥さんのようにふるさとを愛したい。毎日の暮らしを愛したい。非日常を求めなくても幸せでいたい。わたしはそう感じるようになっていった。
今ここで生きていく
わたしは都内の会社を辞めて、田舎に移住した。数年内には主人とともに、湖畔にたたずむ古民家を改装した農家民宿をオープンさせたいと思っている。
これまで旅人であった自分がついに家を持って定住するのかと思うと、少し不思議な気持ちになる。けれども、わたしは忘れないつもりだ。仁淀ブルーの旅で出会った奥さんの言葉と、日常への想いを。
「ここで毎日を精一杯生きていく。」
そう思えるようになったことを考えると、わたしにとっての旅とは、「非日常のなかから、日常の有難さを知るもの」であったのかもしれない。いつか自分の宿に若いお客さんが来た時には、めいっぱい日常への愛情を語りたいと思っている。奥さんのように。
旅には感謝している。
そのとき必要なことに必要な分だけ、ありがたく使わせていただきます。