人の意識活動、思考することについて

言葉が「世界」を分けるというとき、世界とは記憶のことであり、人の「記憶」を分けているのだと以前書きました。

すなわち、言葉は記憶につける目印のようなものであり、言葉による思考とは、その人の持つ過去に感覚器官が受けた記憶の中から、一部の記憶を再構築し、パターン化する作業だということです。

ところで、人は言葉を使わずとも考えることができます。

おそらく多くの人が考えているというときには、ほとんどの場合、言葉を使っていると思います。これは、記憶の分け方(人の考え方)が複雑になっていて、そして言葉を使う以上他の人と共通の考えをする必要性が出てきているということです。

ここで、例えば、今あなたの気になる人が何をしているかを言葉を使わずに考えてみましょう。この時、頭の中で何かを見たり聞いたりしていると思います。それが意識の正体だと思われます。

想像上の世界を頭が作り出すというときにも、現実のものを思い出すという事ではない以上、頭で考えているわけですが、その時には必ずしも言葉を使いません。

体験したことのない想像上の世界について考えてみるとわかりやすいかもしれません。例えば、死後の世界が小説や映画などで描かれる時にそこはどうなっているでしょうか。例えば天国で魂になっていて、美しい音色が聞こえたり、きれいな景色があったりするかもしれません。幽体離脱したり、幽霊になっているのであれば、葬式で誰かが泣いているのかもしれません。

さて、この時大事なことはどちらも、見るには目が必要であるし、聴くには耳が必要だということです。魂に目があるのでしょうか?幽霊にちゃんと音波を受け止める鼓膜や脳に伝える神経回路があるのでしょうか?つまり、これは人が死んだ後のような感覚器官がなくなると思われる状況においても、なお維持しているものを想定して行われているのです。維持しているものとは、すなわちそれは以前見たもの、聞いたもの、触ったり、味わったりしたものの記憶によって作られているのです。この理屈からいくと、生まれてから一度も目が見えたことのない人は魂を描いても視覚を使うことはないでしょうし、耳が聞こえたことのない人であれば聴覚について同様のことがいえると思います。

さらに、もう一歩進んで記憶が作られる所を考えてみます。

例えば、花を見てみます。そして手触りを確認してみます。さらに匂いを嗅いでみます。この時、人は花の色と手触り、匂いを記憶することになります。ところで、ここで一つ大事なことは人の感覚器にとっては、花の色と手触りと匂いはそれぞれ何の関係もないということです。花を見ながら猫をなで、ワインの匂いを嗅ぐということもできます。つまり頭で統合するまで耳や目や舌など個々の感覚器官が感じたことは相互につながりを持てないと思われるのです。

すなわちこれを統合するのが意識活動と言えるのです。記憶の中で関係のない感覚器官が受け取ったものたちを結びつけるという活動です。

前に、意識活動とは、言葉と同様に記憶を分ける事と考えられると書きましたが、それは一人の人の記憶全体を一つのものとして基準にして考えるとそのように言えますが、一つ一つの感覚器官がとらえる一定時間内の記憶を基準にして考えると意識活動とは個々の感覚器官の記憶の結びつけでもあると言えます。

つまり私たちが頭の中で、以前見て嗅いだことのある花の色や形と匂いを「思い出す」ことと、その同じ花からたとえば納豆の匂いがするとか犬の鳴き声がするとかを「想像する」ことは、同じようなことを行っていると言えます。唯一異なるのは、実際に同時に体験したという記憶があるかどうかということです。



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