熊沢さとみ

文筆家。某出版社勤務。小説やエッセイを書いています。著書に『だれも知らないムーミン谷-孤児たちの避難所』(朝日出版社)。他、小学館「本の窓」4月号・5月号に短編小説を連続掲載など。

あの太り過ぎたピンクペリカンに乗って

日曜日の午後、水族館でデートしたときに彼がこう言った。
「あのピンク色のペリカン、太り過ぎていない?」って。

 そのペリカンは4匹いる中で一際からだが大きくて、一番小さいやつと並ぶと同じ生き物とはとても思えないほどだった。きっと飼育員が餌をあげすぎているんだわ、と私は反論したけれど、彼は面白がってパシャパシャと写真を撮ってInstagramにアップした。
 水に浮かんでぼんやりと佇むピンクペリカ

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おしゃべりな黒子

下唇の右下にある黒子は、ちょうどチョコレートボールを指で潰したくらいの大きさをしていて一際目立つから、私と向かい合うときはだれもがそれに夢中になった。

 授業中に数学の問題をあてる先生も、プリントを手渡してくれる前の席の女の子も、とにかく私と顔を合わせる人はみんな、まるで私の顔の中で見るべきものはそれ以外にないって言うみたいに、いつも黒子ばかりを見つめていた。私は頭をずらして視線をずらそうとする

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2017.12.9

30歳を迎えた誕生日の夜、まだ知り合って間もない男の人と抱き合いながら、人生って思っていたよりずっと短いのかもしれない、と唐突に思った。だって、100歳まで生きるとしても、あと2ターンとちょっとしかできないわけだから。隣の彼は気持ちよさそうに寝息を立てて、私はそれを羨ましく思いながら、せめて体だけでもくっつけた。

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物心ついたときから、少女漫画に憧れてずっと恋ばかりしていた。
初恋は小学生

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魔法がとけた夜のこと

22歳になるまで、わたしは自分のことを特別な子だって思いこんでいた。
 でも、絵が上手かったり、足が速かったり、これと言って才能があったわけじゃなくて、結局のところ自分が平凡な人間だと気づいたのは、思う存分若くてきれいな時間を使った後だった。
 だれのせいでそう思い込んだかと聞かれたら、間違いなく、8年前に死んじゃったママのせいだった。

 子供の頃はそれでも絵を描くことが好きで、アニメのキャラク

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音楽が聞こえる

玄関を開けると、ギターの音が聞こえくる。
 その次に見えるのは窓際のソファに寄りかかる、ご機嫌なあの人の俯いた顔だった。ただいま。おかえり。今日の夕飯はなににするの。彼はそう問いかけながら、曲とも言えない音をいくつか鳴らして、私は、肉じゃがとカレーならどっちがいい、と冷蔵庫を開けながら聞き返す。しばらく手を止めて悩んだ後、カレーかな、といつも通りの答えを呟いた。それから、今度はちゃんと私でも知って

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