魔法がとけた夜のこと

 

 22歳になるまで、わたしは自分のことを特別な子だって思いこんでいた。
 でも、絵が上手かったり、足が速かったり、これと言って才能があったわけじゃなくて、結局のところ自分が平凡な人間だと気づいたのは、思う存分若くてきれいな時間を使った後だった。
 だれのせいでそう思い込んだかと聞かれたら、間違いなく、8年前に死んじゃったママのせいだった。

 子供の頃はそれでも絵を描くことが好きで、アニメのキャラクターや、雑誌のモデル、とにかく好きなものはなんでも画用紙に色鉛筆で描き殴っていた。どれも子供らしく幼稚で乱雑な線だったけれど、それを見るたびにママは、すごいね、すごいね、と嬉しそうに手を叩き、しまいにはおじいちゃんが買った高い絵画から額縁を抜き取って、玄関に飾るほどだった。中学生のときにコンクールで賞をもらったときもまったく同じで、それらの絵は一枚ずつ立派に額装されて、階段や廊下、トイレの壁なんかまで隙間なく埋めていった。

 でも、本当は娘のわたしなんかよりも、ママのほうがすごかった。
 いつも洗濯を干しながら口ずさんでいた合唱曲はとてもきれいで、それはママが高校の合唱部で一番歌がうまく、ほんとうは音大に行くつもりだったからだと、後になってパパが教えてくれた。

 *

 音大には行かず専業主婦を選んだママが神さまにお祈りする願いはふたつで、ひとつは娘の才能が認められること、もうひとつはわたしが20歳になるまで生きることだった。真面目で信仰深いママだからなのか、その願いは叶えられて、22歳になった春にママは末期癌でこの世を去った。

 病気が発覚してから1年間、わたしは東京の美大を休学して地元に戻った。わたしたちは離れていた月日を埋めるみたいに、静かな病室で延々とお喋りをした。インターネットで有名なパティシエのマカロンを取り寄せたり、デパ地下で一番高いうなぎを買ってきたり、ハーゲンダッツのバニラアイスを舐めたりしながら、とにかく色々な話をした。大学のこと、絵のこと、最近できた好きな男の子のこと、それからパパとのなれそめや、合唱部の話、ママが今までに泣くほどつらかったエピソードもいくつか聞いた。(これはママの名誉のために書かないことにする)そして、ママは毎日病院にやってくる娘のことを可愛いというか、もしくはあえて病室に広げているスケッチブックの絵を褒めた看護婦だけを気に入って菓子をやり、あとでこっそり耳打ちして、自慢げに教えてくれた。

 女の子が自分のママから学ぶべきすべてのことを、わたしはそうやって昼下がりの病室で教えてもらった。この後の人生にやってくるであろう成功や、それに伴う苦労や困難。そして、一人の女としてどう生きていくべきか。でも好きなことを続けなさい。パパが寂しがったってここに戻ってきちゃだめよ。わたしはママのお尻を拭いたり、使い終わったパンツを洗ったりしながら、ただ黙って頷いた。

 生まれてからずっと長い時間をかけて、わたしの人生はママのかけた魔法によって特別なものに仕立て上げられた。
 でも、魔法はもうとけてしまったね。

 *

 わたしは今、普通の会社で働いている。
 美大を卒業後、他の友達と同じように就職して、あんなに上手だって褒められた絵は仕事で時間がないことを理由にやめてしまった。そうして毎日お人形みたいな同僚たちと並んでキーボードを叩いて、だれも読んでいない社内報のイラストをたまに頼まれるくらいで、特別なことはなにも起きない。

 絵はうまくならなかったし、運命の人は現れない。
 ママみたいに歌もうたえないよ。

 金曜日の夜にはベランダに出て、もうとけてしまった魔法のことを考えながらお酒を飲む。
 あの日食べたラズベリーのマカロンの味、病室でお誕生日祝いをしたときに初めてつくったハンバーグの苦い焦げ。今も家中に飾られている絵と、ママの顔で埋め尽くされたあの年のスケッチブック。そして亡くなる前に、パパだけに見せたママの涙のこと。お見舞いにくる全員に、これからあの子をどうかお願いします、と言ったらしい最後の言葉。

 ひろげた手のひらも、部屋の隅で埃をかぶったキャンバスも、からだや才能もふくめたわたしのなにもかもが、ママに愛されてきた跡だ。
それらをひとつずつ見つけるたび、もう少しだけこの息苦しい世界で生きていくしかないのかなって、火照った頬をさすりながら思うのだった。

 

 

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熊沢さとみ

エッセイ

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