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蜘蛛

 

 真夜中、巨大な蜘蛛を見た。

 それは掌を広げたのと同じくらいの大きさで、ベッドの真横にあるテーブルの隅にぴたりと静止していた。自分でもその気配に気づいて目を覚ましたのか、もしくは蜘蛛の夢を見たから起きたのか、よくは覚えていない。けれど、その後、テーブルから床にかけてゆっくりと下りる様子を、はっきりと視線の先に捉えていたから、私はそれから探すのも怖くて眠れなくなってしまった。
 二週間が経って、その間一度も見かけなかったから、あれは夢だったのかもしれないと結論づけたところで、蜘蛛が再び現れた。今度は本棚の上からゆっくりと、前よりも時間をかけて下りてくる。ちょうど床に着地したところで、慌ててスマートフォンのライトで照らしたけれど、やはりなにもいなかった。


 私とは関係のない生きものが、私の部屋にいる。
 その事実をひさしぶりに泊まりにきた彼に主張して、本棚をどかしたり、冷蔵庫の裏を覗いたりして、部屋中をくまなく探してもらった。けれど、やはりどこにもいなかった。百円ショップで買ってきた季節はずれの虫取り編みは行き場をなくして、とりあえず下駄箱の奥にしまわれた。

「この前はいたんだけど」
 私は夕飯の途中で口を開いた。お好み焼きを頬張っていた彼が顔をあげて、話に耳を傾ける。
「このくらいの大きさでね、赤かった気がするの」
 右の掌を広げて見せると、彼は嫌そうに口の中の咀嚼物を飲みこみ、ぴたりと箸を止めた。
「電気を消していたのに色がわかったの?」
「うん」
「それはおかしいね」

 彼は眉間にぎゅっと皺を寄せて、テレビのチャンネルをニュースからバラエティ番組に変えた。それから、蜘蛛の赤ん坊が赤い色をしている話は聞いたことがあるが、大きなものでその色をしているのは知らない、と彼は付け足した。

 いつも面倒くさがりな彼が夕食を中断してまで話を聞いてくれたのは、二週間前に私の女友達と遊んだことが発覚して、喧嘩になったからだった。付き合って初めて言い争って、今日会うのはそれ以来だった。とりあえず蜘蛛の話をしていれば女友達の話題にはならないので、彼はその後も何度か、私が蜘蛛を見たときの話を聞きたがった。私は適当に会話を続けながら、片手のスマートフォンでグーグルを開き、「蜘蛛」「大きい」「部屋にいる」などと検索した。
 三度目に目撃したときは、さすがにそれが普通の蜘蛛じゃないことはわかっていた。だから、あまり驚かなかったし、隣ですやすやと眠りこける彼のことも起こさなかった。私は修行僧みたいな気持ちで、蜘蛛をじっと見つめた。何度か瞬きをしたらそれは次第に透明になっていき、気がつくと部屋の背景は元通りに戻り、どこにもいなくなってしまった。


 翌週の週末、泊まりにきた彼は食事の準備ができる前から、待ちきれない様子で話題を切り出した。

「インターネットで調べてみたんだけどさ」
「え?」
 私はうまく聞き取れなくて、台所から部屋にいる彼に聞き返した。
「前に言っていた、蜘蛛の話」
「ああ」
 私が頷くと、彼は言いにくそうに口ごもる。
「病気みたいなんだけど」
「え?」
 聞き返すと、彼はやや声を大きくした。
「だから、記事に書いてあったんだ」
「あなたから見ても、私、別に変じゃないでしょう」
「そうだけど」
「普通に働いているし、ご飯も食べているじゃない」
 もう一度、彼は口ごもった。
「でも、一応、診てもらいにいかない?」

 そう言ったとき、こちらを見ている彼は目を丸くしてすっかり怯えきっていた。どこかで見たなと思っていたら、初めての喧嘩をしたとき、彼がまったく同じ顔をしていたことを思い出した。


 その日は台風の影響で雨が降り続いて、夜になるとぐっと気温が下がった。
 眠れない私は冷たくなった足先をいたずらに彼のふくらはぎにつけて湯冷めを防ごうとする。ちょっとだけ身震いしたけれど、起きる様子は少しもなさそうだった。ようやく体が温まってうつらうつら眠気に誘われていると、再び、巨大な蜘蛛が現れた。

 蜘蛛は目の前にいた。

 隣にいる彼のちょうど後頭部のところだった。無数の足がわさわさと髪の上で動いているのがわかる。今度は怖くて声がでなかった。この人、どうして起きないんだろうと睨みつけていると、彼のからだの輪郭がふんわりと光って見えることに気づいた。パジャマの端でも、耳の上でも、白い靄のようなものが揺れている。よく見ると、それは細い糸だった。けれど、彼を揺り起こすことも、安全な後ろに自分の身を引くこともできない。蜘蛛は同じ位置に止まったまま動かず、時折足を動かしながら、ただ私のことを見ていた。蜘蛛の目が一体どこにあるのかも知らないけど、そんな気がした。

 ようやく朝になってから、私は慌てて彼の背中をたしかめた。なんてことはない。昨日とほとんど変わっていない。パジャマにはなにもついていないし、ベッドの中にも、蜘蛛なんていなかった。

「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
 私は背中を撫でつけて、彼が無事なことをたしかめる。
「悪かったよ」
「え?」
 思わず聞き返したけれど、それ以上、彼は答えなかった。

 私は彼のほうに背を向けると、あと一時間だけ眠るために毛布を被り直す。すると、後ろから抱きしめられる感触がして、その温かい手にしかたなく触れながら、視線の先に垂れてくる透明な糸にじっと見入った。


 

 

  

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