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日本史考

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色々な歴史関係の小説、解説書、漫画などを通じて、自分なりに解釈した日本史をお届けします。
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二代の后 藤原多子

二代の后 藤原多子

時は平安末期、平氏が栄華を極める兆しが見え始めた保延6年(1140)に藤原多子は生を享ける。

実父は徳大寺(藤原)公能、実母は藤原豪子であったが、誕生間もない頃から藤原頼長、徳大寺幸子(多子の伯母)の養女として育てられた。

久安4年(1148)に頼長が、娘を近衛天皇の元へ入内させる旨、鳥羽法皇に奏上し、認可を受ける。

入内に際して必要となる諱は、儒者や陰陽師に決めてもらうのが、当時の慣例であ

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二人の彦火火出見尊

二人の彦火火出見尊

皇孫 瓊瓊杵尊が鹿葦津姫(木花咲耶姫)を召して、一夜にして身ごもったのを、皇孫が怪しんで「私の子ではなかろう」と暴言を吐いた。
それに怒った鹿葦津姫は、出口の無い小屋に籠って火をつけ「この子が皇孫の子であれば傷つかず、そうでなければ焼け死ぬだろう」と言って、無事に産まれたのが火闌降命(海幸彦)、彦火火出見尊(山幸彦)、火明命の三人の御子である。

彦火火出見尊は海神の娘 豊玉姫を娶り、彦波瀲武鸕鷀

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仲哀天皇は女性だった?

仲哀天皇は女性だった?

日本の第14代天皇である仲哀天皇。
古代の英雄、日本武尊の子であり、三韓征伐で有名な神功皇后の夫である。
しかし、今の通説では実在性さえ疑われる人物となってしまった。

仲哀は女性ではないか?
まず漢風諡号に注目した。
「哀」を抜くと「仲天皇」(なかつすめらみこと)と読める。
「なかつすめらみこと」=「中皇命」と呼ばれた人物が『万葉集』で認められる。
誰を指すのかは定説が無いが、斉明女帝か、その娘

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韓人とは誰を指すのか

韓人とは誰を指すのか

乙巳の変(大化の改新)で、蘇我入鹿が殺された際に、その場にいた古人大兄皇子が叫んだという「韓人、鞍作臣を殺しき。吾が心痛し。」の言葉。
鞍作臣 は蘇我入鹿のことです。
では 韓人 とは誰なのでしょう?

変の首謀者は中大兄皇子と伝えられています。
中大兄皇子と韓人の接点が見当たらず、昔から疑問に思っていました。

ヒントは中大兄皇子の諱「葛城皇子」にありました。

雄略天皇の妃に「葛城韓媛(カツラ

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聖徳太子 死の謎

聖徳太子 死の謎

日本史上最も謎が深いとされる、聖徳太子の生涯。
そもそも聖徳太子は存在したのかどうか、という議論もある。
存在したならば、何故天皇に即位できなかったのか、そして死因は何だったのか。

私はその二点について、母親の影響を強く感じる。

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聖徳太子は、用明天皇と、その異母妹である穴穂部間人皇女との間に嫡男として生まれた。
通名を厩戸皇子という。
幼い頃から利発であったとされ、様々な言い伝えが残

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最も澄んだ人 最澄

最も澄んだ人 最澄

皆さんは最澄という人に、どのようなイメージをお持ちだろうか。
静かで穏やかな佇まい、懐深く慈悲深い僧らしい僧。
私の中では、そういった最澄像が浮かぶ。

伝教大師最澄の7歳年下であり、ほぼ同時代を生きた弘法大師空海と比べると、何となく地味な存在、というのが正直なところであった。

しかし最澄について学ぶにあたり、彼が19歳で山に籠る時に書いたと言われる願文を読み、いきなりそのイメージが覆された。

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数々の伝説を生んだ武将~源義経

数々の伝説を生んだ武将~源義経

平安時代末期、平氏が栄華を極めていた頃に、源義朝の末子として生を享け、謎に満ちた生涯を送った義経。

母は常盤御前。
平清盛に命乞いに行った際、その美貌から3人の子と共に死を免ぜられた。
常盤御前は後に、一条長成の妻となり、当時牛若と呼ばれた義経も、長成の元で育つ。

11歳になった牛若は、鞍馬寺に預けられ、稚児名を遮那王と改めた。
しかし遮那王は僧になることを拒否し、奥州藤原氏宗主で鎮守府将軍で

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天武天皇は何者か

天武天皇は何者か

天武天皇は謎の人物である。
日本書紀30巻のうち、2巻を費やして華々しく天武の功績を讃えているにも関わらず、肝心のことが書かれていないのだ。

天武の生年である。
686年に崩御した記述はあるものの、生年が分からないので、当然没年齢も分かっていない。

後の時代に書かれた『一代要記』や『本朝皇胤紹運録』などには、没年齢は65歳と記されている。
逆算すると天武は622年生まれという事になるが、ここで

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ビジネスマン織田信長 その①

ビジネスマン織田信長 その①

時は戦国。
領土拡大のみを考えた諸大名が跋扈する中、初めて天下統一という、明確なビジョンを持った天才が現れる。

織田信長である。

彼は実に優秀なビジネスマンであった。
ビジネスとは次のように定義される。

「個人または法人組織などの事業体がそれぞれの事業目的実現のために、人・物・金・情報などの諸資源を活用して行う活動全体を意味する。 」

まずはこの定義に従って、改めて信長が実行した内容を整理

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大岡裁きの元ネタ 北条泰時

大岡裁きの元ネタ 北条泰時

大岡越前守忠相といえば、時代劇でもお馴染みの、江戸時代の名奉行である。
ドラマの最後に、胸のすくような解決策で締める「大岡裁き」は特に有名だろう。

中でも「三方一両損」や、「真の母親の見分け方」などは、いかにも日本人好みの話だ。

しかし、この逸話のモデルは、大岡忠相ではない。
ほとんどが鎌倉時代の執権、北条泰時の話だという。

※※※※※

北条泰時といえば、承久の乱の戦後処理として「御成敗式

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天皇位に挑戦した将軍 足利義満

天皇位に挑戦した将軍 足利義満

日本の天皇制というのは、世界的な観念から見ると、極めて特殊である。
平安時代の藤原氏、鎌倉時代の源頼朝、戦国時代の織田信長など、天下を取った人間がその国の王となるのが自然だろうが、日本ではそうならなかった。

称徳天皇は自分の後継者に、平民出身の僧である道鏡を指名したが、あくまで称徳は「皇帝」としての禅譲を実現しようとしたのであり、天皇とは意味合いが全く違う。

桓武平氏の血を引く武人、平将門でさ

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額田王は単なる采女だったのか

額田王は単なる采女だったのか

万葉集を少し齧ったことのある方ならば
額田王という名前は聞いたことがおありだろう。

熟田津に 船乗りせむと 月待てば
  潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな

白村江の戦いに赴く時に詠まれたこの歌は
あまりに有名である。
(日本軍は唐に大敗するのだが)

名に王(おおきみ)と付くのなら
額田は皇族の一員だったはずなのだが
一説に鏡王の娘、と記述があるだけで
素性はよく分からない人物である。

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絶世の美女 小野小町

絶世の美女 小野小町

平安時代も初期といっていい頃だろう。
第55代文徳天皇の御代である。

平安時代は、あまり人気の無い時代でもある。
戦国時代など武力で他人の領地を奪った方が勝ちという、分かり易い時代ではない事も一因であると思っている。

ドロドロとした陰謀が渦巻く時代。
死刑になることは無いが、一歩つまづけば忽ち左遷か無位無官に追い込まれてしまう。

藤原氏は奈良時代後期から一大勢力にはなっていたものの、その地位

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日本史で意外と忘れ去られていること

日本は、奈良時代から明治初期まで、律令国家だった。
諸説あるが、これは意外と知られていない。

中大兄皇子が大化の改新というクーデターを起こし、甚だ不完全ながらも、律令制の制定に力を入れた。
律令制は公地公民が肝であるが、奈良時代後期、この原則を骨抜きにする詔が「三世一身の法」更にいえば「墾田永年私財法」である。

これは政府の作戦負けだった。
(元正天皇と長屋親王)
法には抜け道があり、藤原氏等

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