源氏物語_藤壺

絶世の美女 小野小町

平安時代も初期といっていい頃だろう。
第55代文徳天皇の御代である。

平安時代は、あまり人気の無い時代でもある。
戦国時代など武力で他人の領地を奪った方が勝ちという、分かり易い時代ではない事も一因であると思っている。

ドロドロとした陰謀が渦巻く時代。
死刑になることは無いが、一歩つまづけば忽ち左遷か無位無官に追い込まれてしまう。

藤原氏は奈良時代後期から一大勢力にはなっていたものの、その地位は盤石なものではなかった。
その地位を確固たるものにしたのは、藤原良房ではなかろうか。

ここは、皆さん一度は聞き覚えのある、藤原道長の例を取るとイメージしやすい。
道長は第66代一条天皇、67代三条天皇、68代後一条天皇に娘を嫁がせ「一家立三后」を成し遂げたことにより、栄華を極めた。

藤原氏の基本理念は、天皇に娘を嫁がせ、その皇子を天皇の跡継ぎにして、自分は幼少天皇を操り人形として、実権を握るというやり方である。

話は文徳天皇に戻る。
文徳天皇には紀静子という妃(更衣)がおり、3人の皇子が生まれていた。
一番皇位に近かったのは、当時7歳の第一皇子・惟喬親王。
ところが、もう一人の妃(女御:更衣より位が高い)である明子が皇子を生んだ。明子は、藤原良房と、文徳の伯母にあたる潔姫の娘だ。

良房は文徳に圧力をかけた。
そして良房の孫にあたる生後九ヶ月の第四皇子、惟仁親王を皇太子にすることに成功したのである。

失意のうちに京を去った惟喬親王は出家し、小野の里に隠棲する。
ここは、聖徳太子の時代に遣隋使となった小野妹子の墓や、百人一首でも有名な小野篁の神社もある所だ。


小野小町というからには、小野氏出身なのだろう。
このような和歌が残っている。
『古今集』の六歌仙の一人、文屋康秀に都落ちを誘われた小町は

わびぬれば身をうき草の根を絶えて 誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ

と返したというのである。
小町には京にいられなくなった事情があったと考えられる。

「小町」は本名ではない。
後宮には多くの妃がおり、その中でも更衣という中流階級の妃は「町」と呼ばれる所を与えられた。
「町」とは、方形に仕切られた区画のことを言う。

では何故、小野小町は小野町ではなく、「小町」という呼ばれ方をしたのか。
小町は惟喬親王の乳母ではなかったか、という推測ができるのである。
乳母は、乳を飲ませた皇子が天皇にでもなれば、出世栄達の道が開かれる。
しかし惟喬は天皇になれず、出家し、乳母(小野小町)の里で隠遁生活を送ることになる。無論、小野小町も一蓮托生である。

惟喬親王の失脚によって、出世の道を断たれた貴族が他にもいる。
小野小町と同じ『古今集』の六歌仙の一人、在原業平である。
業平は、紀静子の姪を妻としているので、朝廷では惟喬親王派として見られたのであろう。

注目したいのは、古来より小野小町は絶世の美女、在原業平は最高の美男と称されていることである。

日本では、敗れ去った者に対する同情や美化が多い。
一昔前までは、女性の水死体も「美人」と呼ばれた。

小野小町は政治的に敗れ去った、悲劇の女性である。

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