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時のすきま…

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小説です。 すべてフィクションです。 実在の人物・団体・場所や出来事とは一切関係ありません。
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記事一覧

『本日、酉の刻…』

第97話

この河原に降り立った瞬間、ウルカの心に深い寂寥の想いがよぎった。
それは訓練されたウルカでも、おのれ自身では決して拭い去ることはできない、もっとも強い悲しい感情だった。
その心の揺らめきを鵺の長兄が見逃すはずがない。
鵺の術は強力だ。
心の底に沈みこんでいる僅かな澱みを救い上げ、捕らえ惑わす。
不安や欲望や真の思いを形として、その者の目の前や心の内に曝け出し、そこに生まれた“隙”と“弱

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『本日、酉の刻…』

第96話

残った鵺が着地したウルカに向かって間髪入れずに大きく翼を広げ、上空から襲いかかってきた。彼は後方に飛び退きながら直線攻撃を避け、態勢を整え応戦した。
鵺たちの鋭い槍先が容赦なくウルカに向かって突きかかってくる。
すんでのところを小太刀で対するが、やはり槍のリーチには小太刀の刀身の長さでは圧倒的に不利だ。
鋭い槍先をかわすだけが精いっぱいで、ひたすら応戦のみである。
ウルカをよく見ると、

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『本日、酉の刻…』

第95話

――どうして、ここが分かった?――
鵺たちに自分が発している“時力”を悟られないように常に淡い光帷を幾重にも張っていた。
自身の痕跡を消すために、立ち寄った瑠珈の住まいの周りにも念入りに同じような仕掛けを施していた。瑠珈の住まいを見つけられるはずはまずない。
だが、不思議なことに鵺たちにはいつもの敵意と自分に向けられる増悪の感情が一切無いことをすぐにウルカは感じた。
彼は抜こうとしてい

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『本日、酉の刻…』

第94話

3月も半ばを過ぎると、この地方の平地の雪は大方解ける。
山々の稜線にはまだ冠雪が残っているが、平地はすでに草木たちの若葉が刻々と芽吹き始めていた。
あれからウルカは、イヌイと共に瀑を追うために何度かしばらく瑠珈の前から気配を消したが、彼女がウルカは今どうしているのだろうと思う頃には、必ず彼女の前にふらりとやってきて、その間に見知ったこと、何をしていたかをゆっくりと話してくれた。
その頃

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『本日、酉の刻…』

第93話

イヌイは、晴景を前にして、ウルカと出会った頃を思い出していた。
才に長け、自らの想像を超える能力に苛まれていた。
イヌイは彼にこの宇宙の成り立ちを語り、星の生き死にを示し、懸命に生きる様々な生きものたちの美しい生態をゆっくりと説いた。
彼は静かに耳を傾け、僅かであるが、徐々に心を解いていった。
強い情熱を内に秘めた、美しく、そして悲しい青年だった。
だが、闇に心を奪われ(むしろ闇がウル

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『本日、酉の刻…』

第92話

イヌイは夕刻より月を眺めていた。
彼はウルカと同じく食事を取らずに何日も生きることができるが、今、月を見上げている目的は、彼の月の軌道上のシャトルから送られてくる波動を受信しているからではなかった。
いつも通り、この時代に渡ってきている瀑たちの生態データを眺めていると、わずかではあるが、いつもと異なる波動の揺らぎを観測したのだ。
これは“時力”の大きな乱れの予兆かもしれなかった。
“何

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『本日、酉の刻…』

第91話

信号が変わり、広い広場を突っ切り二人は東京駅の構内に入った。
大きな吹き抜けの円天井の下を通りながら、相馬は腕時計を見た。
「今回の聴聞の前に特例委員会は既に手を打っていたんだな。本来ならばこの手の発見は必ず宙倫研に連絡が入ってから次にマスコミ報道が順番だ。それが今回はマスコミにすっぱ抜かれた。委員会の連中にこれ以上先を越されないためにも急ぐぞ、何としてもBプロットたちと接触する。」

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『本日、酉の刻…』

第90話

「何ですか?それは一種の…、呪いのようなものですか…。」
委員長は少々呆れたような表情をし、周りの書類を片付け始めた。
「そう、“呪”です。彼らには我々にはどうすることもできない、見えない時空の“呪”が幾重にもかけられている。」
「そのような非科学的な領域はもはや我々の分野ではありませんな。相馬さん、君の口からそんなオカルトじみた言葉をきくとは思ってもいませんでしたよ。さすがの私にも、

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『本日、酉の刻…』

第89話

「この異常な数値がもし自然な気象現象と太陽風から起こる磁気嵐の一種だというのならば、この特別な地域に極端に集中している理由を、まず説明していただきたいものですな。」
正面の巨大なスクリーンを背にして長机の前に座る鋭い風貌の初老の政府の役人が、相馬は何年経っても好きになれなかった。このとある省庁の“特例委員会”の初老の委員長は数名の委員と一緒に数メートル先のデスクの前に座る相馬をじっと見

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『本日、酉の刻…』

第88話

「あななたち、何か用?その“ロック”って何?」
「“ロック”じゃない。ロクだ。末の弟のロクノスケだ。」
そう言ったのは、その中の一番背の高いすらりとした子どもだった。
その子が一人、朋子に向かってとても丁寧に頭を下げた。
「父の命(めい)にて再度この時代に父と共に戻ってきた。もしや我等の弟のロクノスケがこの時代に舞い戻っていないかと。」
「父の命(めい)?」
朋子は顔を少し引きつらせた

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『本日、酉の刻…』

第87話

「大之井君…?」
「近頃、衣が皆緩くなってきたので捨てるという。捨てるのならばと譲り受けた。」
瑠珈は思い出すようにウルカの姿を見上げた。
「そういえば、大之井君、最近随分スマートになった。」
「瑠珈のあの鱗を腰の帯に挟み、持ち歩いていた頃より徐々に体が軽くなるのを感じたという。今は身体を動かすことも苦にならず、平八郎殿の友人の武術道場へ通い始めて以来、衣がみな大き過ぎ、着られぬように

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『本日、酉の刻…』

第86話

これは大変なことになる…と、瑠珈は思った。
ウルカが人前で戦うのを、瑠珈は初めて見た。
以前見たのは、あのお化けガラスの一群、もとい、鵺の一群と、やはり自分を守るために戦ってくれた姿だった。その時は、彼の強さや、刀の使い方にただただ圧倒されていたのだが、あの時はまだ“ヒトでないもの”との戦いだった。だから内心、少しだけホッとしていられたのだが、今回は違う。
よく見ると、彼の足元にはもう

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『本日、酉の刻…』

第85話

「遅くなっちゃった……。」
チケットに記載されている開演時間が迫っていた。
瑠珈はウルカから貰ったストールを抑えながら走っていた。
コンサートホールまでの道のりは、まだ随分とある。
今日は休日なので図書館のバイトはきっかり5時まで。
それから職場を飛び出し、電車に飛び乗り、ホールのある駅へ向かったが、何故か開演時間を30分ほど間違えて記憶していた。
ウルカとの待ち合わせの時刻には完全に

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『本日、酉の刻…』

第84話

ウルカは衣の襟を元に戻しながら静かに語った。
「この空間全体は瀑の鱗より抽出した時極を司る物質も多く施されている。ここは強き特殊な光帷も張られており、時極性が周りの空間から独立している。それ故、屋敷も瑠珈が着ている衣もその下駄も、古くはならぬ。だが、そなたたち別の時極性を持つ者たちとも同期できるよう、回線と波長は常にこの時代に合わせてある。昨夜のように時極酔いを起こすことはない。」

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