『本日、酉の刻…』

第63話
はっと気がついた時には、瑠珈はその小さな社の前に立っていた。
辺りは夕暮れだったが、先ほど大学の構内にいた時といくらも経っていないようだ。
確か大きな鵺と会う前はこの社の中に入ったような気がしたが、今立っている場所は社の正面の扉の前だった。
何が起こったのか、しばらく瑠珈は理解できなかった。
ゆっくりと色々思い出した。瀑の鱗の欠片がきっと、この社の境内のその外側のどこかにあるはずだ。
周りを見回し、一瞬探そうかと思ったが、欠片の大きさも場所も分からない。
それより急いで確認しなければならないことがいくつかあった。
瑠珈は慌てて社に向かって深く二礼し、パンパンと大きく柏手を叩いて再び頭を下げた。
振り返ると、古い石の鳥居の下の階段のところに、いつものように小学生の男の子たちが数人固まっている。
瑠珈は雪の階段を滑らないようにゆっくりと降り、小学生たちの前を通り過ぎた。
「ごめんね、ちょっと聞いてもいい…?」
瑠珈は小学生たちに話しかけた。
小学生たちは2人くらいが顔を上げたが、残りの4人は手に持ったスマホやゲーム機から顔を上げなかった。
「変なことを聞くかもしれないけれど…、あたし、いつ頃ここに来たかな?」
「今来たよ。」
男の子がひとり、すぐに答えた。
「そ、そうだよね…!ありがとう。」
そう言って瑠珈は男の子に向かってにっこりと笑い、階段を降りた。
下まで降りた時、彼女は思い立って小学生たちに再び尋ねた。
「ね、…ここの神社の名前って、…知ってる?」
「うん、第六天神社だよ。」
ゲーム機を持った小学生が、顔も上げずに答えた。
「そっか、第六天…。ありがとね。」
そう言って瑠珈は小さく頷きながら、神社を後にした。

「1420年前の885年後、1420年前の885年後…、えぇと、それから、第六天…神社。」
と、瑠珈は忘れないように大学の講義用のノートを取り出し、その上の隅の方に書きつけた。
まだ少し心臓がドキドキしている。
あれはやはり鵺が見せた幻術だったのだろうか?
ウルカに会いたい。
ウルカに会って今あった出来事を報告したいし、このことを相談したかった。
でも、彼の気配は一切ない。
立ち止まって空を眺めてみる。
夕闇が迫っていた。
振り返り、月出城のあったあの裏山の頂上を見上げた。
鵺も姿を消したのだろう。カラスの鳴き声も聞こえなかった。
もちろん、ウルカの姿はそこにはない。
とりあえず瀑の鱗だと思い、瑠珈は大学前の通りに戻り、駅へ向かうバス停までやってくると足を止め、バスを待ちながらスマホを取り出した。
「…もしもし、大之井君?今、大丈夫?…あのね…」
と、彼女は大之井に今あった出来事を説明し、学校に例の瀑の鱗を持って来てくれるようにお願いした。
《…良かった。葛城さんが無事で何より。でも、これからは気をつけなくちゃね。うん、このプレートは、いいよ。明日持っていくよ。だって元々、これは葛城さんのだしね…。何で僕が持っているんだろっていつも思っていたし…。いい機会だから、これ、返すよ…。》
スマホの中の大之井はそう言った。
瑠珈はちょっと驚いた。
「…そうだっけ?」
《そうだよ。君が第四棟の屋上でこれを拾ったんだよ…。》
「…そうだった。ごめんね、ずっと大之井君に預けたままだった。」
《謝ることはないよ。おかげでいいことが沢山あったよ。》
「そう、ありがとう。じゃあ、明日学校で。お昼休みか、3限が終わった後に。じゃ…。」
と、瑠珈は通話を切り、スマホを耳から離した。
ちょうどバスがやってきた。
駅行きのバスに乗った瑠珈は、もうひとつ、大之井に聞きたいことを思い出した。
彼女はSNSのアプリでメッセージを送った。
『大之井君、第六天神社って、分かる?』
すぐに返信が来た。
『第六天神社は西日本ではまったく見かけない。それは、関東の方にある神社。』
『ココの近くにはないの?』
『知っている限りでは、西日本には一つもない。記録にないものもあるかもしれないけれど。』
——西日本には、ひとつもない?——
瑠珈は少し考えた。
『お祀りされている主なご神体とかは、何か分かる?』
既読のサインが付いたあと、しばらく沈黙が続いた。
『色々合体したり、分離したりして神様が沢山いるみたいだけれど、主なものは三神。ひとつは第六天魔王。これは仏教を守る神様。二つめの系統は古事記に書かれているような古来の神様たち。三つめは少しだけど、天狗を祀っている所もあるみたいだよ…、古くから天狗は山や村や集落の守り神だから』
——…天狗…?——
と、瑠珈は思わず心の中で繰り返した。
バスが赤信号で止まった。
信号機の上にカラスが二羽とまっている。
あの“子”たちはまだねぐらに帰らないのだろうか。
瑠珈は少し髪をくしゃくしゃとかき上げた。
バスが走り出した。
『それが何か?』と、大之井の返信が続いた。
『裏山のふもとの神社のところにいた近所の小学生が神社の名前を教えてくれたの。でも、何かの間違いかもしれないね。ありがとう!じゃ、明日!』
『了解。』
大之井の了解のあとには、どこから手に入れたのか、土偶のスタンプが押されていた。
冬寒のバスの外の景色を眺めながら、瑠珈はスマホをバックにしまった。
何か心に小さく引っかかるものを感じながら、それが何だか分からなかった。
そうして、瑠珈は暮れなずむ夕空をまた眺めたのだった。


「日没だ、戻ろう…。」
イヌイが、沢の先を目指そうとしていたウルカの背に向かって言った。
ウルカはまだ名残り惜しいように沢の先に目を向けていた。
「この沢もヒトの作った人工物が多すぎる。瀑の住める環境ではない。」
イヌイは下流を見下ろした。
岩の間を流れ落ちるこの沢の下流には、水量調整のための小規模な堰が作られていた。
「ヒトが多く住む地では治水は避けられない行為だ。この時代より先1800年は、この状況は変わらない。」
イヌイは言葉を続けた。
「この国でこの時代に治水なき川を探すことは不可能だ。」
ウルカは跪き、氷のような沢の水にそっと手を浸した。
指の間を切るように冷たい清水が流れてゆく。
その水を手のひらで掬い、一口口に含んだ。
滴る水をつと手で拭いながら、イヌイに向かって彼は振り返った。
「水は甘く澄んでいる。水質は申し分ない。だが、ここも住めぬとあらば、この時代において瀑の生きられる場は皆無に等しい。ここより清い水系は、あと幾本もない。国を変えるか、時代を変える他はない。瀑が、時代を違えたのだろうか…?」
イヌイも静かに沢に下り、水を手に掬い、見つめた。
彼の鳶色の瞳に、微かなパルスが走った。
「重水の比率も時極性も申し分ない。だが、環境が適してない。瀑の住めるべき領域がない。なのに何故、まもなく脱皮を迎えるあの巨大な瀑はこの時代にやってきたのか…。一体ならず、あの赤ん坊の瀑まで。」
「一刻も早く、清き川を探さなくては…。」
と、ウルカが言った。
「見つけたとしても、その川に憑くかどうかは分からない。瀑を促すことはできても憑くは憑かぬかは、瀑が決めることだ。」
イヌイはそう言い、立ち上がった。
「せめて、あの赤子だけでも、良き川に憑かせたい。」
ウルカも岸より岩場へ身軽に駆け上がった。
そんなウルカの後ろ姿をイヌイは見上げた。
「あれは、君たちの初仕事だ。うまくいくといいな…。」
「君たち…?」
と、ウルカは少し不思議そうな顔をした。
「少々ヒトに懐きすぎてはいるが、うまくいくだろう。角も取れた。順調だ。」
「あとは清き水の湧き出でる源流だ。」
ウルカは静かに空を仰いだ。
「時にウルカ…、あの子の様子はどうだ。」
イヌイが手に笄の一本を持ち、その背を撫ぜた。するとイヌイの笄は紫雲のような美しい淡い光を放ち、彼の手をゆっくりと覆った。
イヌイも天空をそっと見上げ、月の位置を確認し、その方向を見つめた。
多少樹木の木立に遮られていたが、通信機能は木立ぐらいでは何の支障も起きない。
月の軌道上にある彼のシャトルから、ここ5000年分ほどの時極フィラメントの変化の数値をダウンロードした。瀑が時極フィラメントの波状に乗り、時渡りを行なうという昔ながらの説も、いまだ有力だ。
瞬時にイヌイの脳内に様々な時代の時極フィラメントのデータが転送されてきた。
彼は暫し沈黙し、データを吟味した。フィラメントの波形と瀑の行動係数の波形は不一致だった。
何度確かめても、瀑たちは数体、この時代のこの国に留まっている。
「…もう幾日も、会ってはおらぬ……。」
しばらくして、努めて感情を殺した声でウルカは答えた。
「何故だ。会えばよいものを…。」
「会えば会うほど、瑠珈の俺への思いが強くなる…。危険にも多くさらすことになる。しばらく、会わぬ方が良い。」
イヌイが少し不思議そうな顔をした。
「君にしては、珍しいな。言っていることと思っていることがくい違っている。」
「最近、調子が悪い…。」
「奇妙なこともあるものだ。」
と、イヌイは言い、少し笑った。
「君は今もこの星の人間だ。おのれの感情にもっと従い、恋をすればいい。」
「恋…?恋とは、恋慕のことか…?」
「そうか…、その言葉は君の生きた時代にはなかったか。例の共鳴や記憶の刷り込みは、君の恋の現われかもしれない。君の能力が知らずして、他者と共有したい思いや感情を、他者の心に移植してしまうんだ。」
「分かっている、……瑠珈の思いは、瑠珈自身の感情がすべてではないことくらい。俺が都合の良いように、瑠珈の心を、統御してしまっているんだ…。だから、だから困っている。」
ウルカは意識を集中し、ぐわりと大きく、その透明に輝く四翅を出現させた。
天を仰ぎ、だっと地を強く蹴ると、ふわりと彼の身体が宙に浮いた。
地上の枯れ草や木々の枝葉が、風圧で上空に一気に舞い上がった。

——続く——


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