『本日、酉の刻…』

第47話

「遅くなった。無為はすべて1500年ほど前に無事に渡らせた。こちらへ帰った直後に、ここへ向かう烈氷に会った。」
白い大きな美しい獣の背からすらりと降りたイヌイがウルカに言った。
イヌイと獣の周りには、氷のかけらのような雪とも雹とも霰とも見える無数の白い氷の粒が渦巻き、それがその白い獣の周りの地表に今もぱらぱらと降り積もっている。
それは先ほど瑠珈が出現させたあの巨大な獣とまったく同じ姿をしていた。その少し離れた所に、真っ白な氷の山に埋もれた月乃畝が倒れていた。
ウルカは盾としていた四翅を消すと、意識を失っている瑠珈を優しく抱きかかえ、その身に降りかかっている雪と氷の粒を掃った。
「瑠珈は、無事か…。」
イヌイも少し心配そうにウルカが横抱きにしている瑠珈を見下ろした。
「怪我はない。ただ、ひどく疲れている。この短い時の間に、様々な出来事が生じた。」
道の端で身を伏せていた日比野は立ち上がり、倒れている月乃畝に近づき、彼の身を氷の山から引き出した。そして月乃畝の様子を確かめ、
「殺したのか…?」
と、日比野は冷たくなった月乃畝の首にそっと手を当てた。
「いや…。」
イヌイは小さく首を振り、彼の脇に静かに佇んでいる大きな獣の身体にそっと手を触れながら言った。
「その男は、烈氷が作った強い冷気と急激な寒さのためショック状態を起こしている。身体を温めれば意識は回復するだろう。だが、できるだけ早い方がいい。手遅れにならないうちに…。」
日比野はキッとイヌイを睨んだ。
「この騒ぎはいったい何だ?!怪我人が出なかったから良かったが、一歩間違えれば大参事だ。」
「…その通りだ。もし、その男が瑠珈に少しでも手をかけたならば、この地の広い範囲でおびただしい数の寒波による犠牲者が出ただろう。その男をはじめ、多くの者が命を落とした。そうならずに、本当に良かった。」
吹雪を巻き起こしている獣の長い美しい毛を、イヌイは静かに撫ぜた。
「早急に烈氷をこの地より極地へ導こう。さもないと超一級の寒波がこの地に居座ってしまう。」
そしてウルカに小さく目で合図し、自身はひらりとその獣の背に乗った。
渦巻く雪を更に激しく発生させているその獣を小気味よく駆り、イヌイはタンと大通りの建物の側面をまるで強い傾斜の崖を雲霧が風と共に駆け上るように、獣を軽やかに飛翔させた。
イヌイを乗せた獣は、あっという間に高く飛躍し、暗い白い雪の夜の空へ消えていった。


「あの獣を呼んだのは、その子なのか…。」
日比野は瑠珈をそっと横抱きにしているウルカに向かって言った。
「この者が作り上げた幻の影に、本物が反応し、極地よりやってきた。だがここへ来る途中、イヌイがうまく烈氷をなだめてくれた。荒れ狂う烈氷は手に負えぬ。瑠珈が造った無為の烈氷は、誠に本物によく似ている。」
「暗い服の連中を傷つけたのは、幻なのか…。」
「…幻とは言うが、実体を伴ったものだ。本物の性質や特徴を限りなく忠実に再現する。烈氷は幻影を見せる力に長けている。その力を無為が正しく発動しただけだ、瑠珈を守るために。それが無為という生きものだ。」
「無為…、それもお前たちの仲間なのか?」
日比野は、最初にこの駅前通りにやってきた時、初めて見た巨大な獣の印象を思い出していた。
その時、おもむろにウルカが強い吹雪の中、音もなく半透明の四翅を出現させふわりと広げた。
日比野はハッとしてウルカに迫った。
「待て!その子は置いていけ!その子はお前たちとは何の関係もない一般人だ!これ以上その子を巻き込むのは止めろっ!!」
すると、ウルカの瞳がギラリと光った。
それは日比野が初めて見る、ぞっとするほどの冷たい眼差しだった。
この男の持つ本来の暗い血の、ふつふつと沸き立つ音が聞こえてくるような、殺気に満ちた目だ。
見えない気迫が一気に迫るのを感じ、日比野は反射的に身構えた。
「……もう二度と、奪われるのは御免だ…。」
ウルカは小さく呟き、手を上げ上空に待つ煽に合図を送った。
強い風がごうっと吹いた。
ウルカの周りをその風に煽られた雪が鋭く舞った。
「よいか、このむすめに近づき手を出す者あらば、次は誰であろうと何人犠牲者が出ようと、俺は容赦しない。」
「我々はお前からその子を奪うつもりはない!あの襲ってきた連中から合法的にきちんと守りたいだけだ!」
――それでこの有様か。日比野、お前は瑠珈を守れなかったではないか。――
冷たく低い声が、日比野の脳裏に響いた。
「待てっ!どこへ連れてゆく?!」
日比野は叫んだが、その声は吹きつける雪とウルカの周辺に逆巻く強い風にかき消された。
ウルカの身に青白い光が発生し、ふわりと彼の身を覆ったかと思うと、瑠珈を横抱きにしたウルカの姿はその場から瞬時に消えたのだった。


身体に当たる冷気の感覚に、瑠珈は目を覚ました。
目を開けると、真っ暗な夜空に激しく雪が吹雪いている。
ウルカはそんな夜空を瑠珈を抱きかかえ、大きな四枚翅を広げ音もなく飛行していた。
身体に冷たい雪が当たらないのは、ウルカが光帷を張ってくれているからなのだろう。
その光帷の隙間から入ってくるのか、わずかばかりの雪のひとひらふたひらが、時折瑠珈の頬に当たった。
最初いったい何が起こっているのか理解できずに、瑠珈は反射的にウルカの首に両手を回ししがみついたが、さすがに前回のようにパニックにはならなかった。
何故なら裏山から滑空した時に比べ、ウルカの飛行がとても安定していたからだった。
だが、今回はそれよりもはるかに高い上空を飛行していることに気づき、瑠珈は恐る恐る下界を見下ろした。
「…気がついたか…。」
ウルカは瑠珈をそっと見ながら言った。
「今回は、お、落ちないんですね…。」
と、瑠珈は苦笑いをしながらウルカを見上げた。
ウルカは視線をすぐ下に移した。
そこには見たこともない大きな雪の渦が、ウルカの下方に平行して夜空を翔けていた。
雪にかき消されて今は見えないが、その場には何か大きな空気の塊があると瑠珈は感じていた。
「あ、煽が来ているんですね。」
「煽がいれば、多少重い“荷物”があっても飛行できる。」
「…あたし、やっぱり重いですか…?」
「重い…。」
と言いながら、ウルカは小さく笑い、彼女が落下しないよう抱きしめる腕に力を入れた。
瑠珈も少し笑ったが、眼下に広がる夜の雪の街明かりを見て、先ほどの状況を思い出した。
「ウルカ、確か銃で撃たれて…。」
彼女は慌ててウルカの銃弾の当たった胸の辺りを確かめた。
ウルカの衣服は数か所破れたままだったが、傷は身体のどこにもなかった。
「私は、不死身だ…。」
「本当に…、本当に不死身なんですか…?冗談かと思ってた。」
「…見ての通りだ。私は、死なぬ。」
瑠珈は思わずその破れた灰墨色の衣服の上から、ウルカの傷の消えた胸をそっと手で押さえた。
彼は少し驚いて、視線を瑠珈に向けたが、彼女の心の内を無意識に感じたのか、慌てて前方へ戻した。
「本当に大丈夫ですか。身体に傷は見えなくても、きっと心はいっぱい痛くて辛かったでしょうね…。」
何故かその時ウルカが大きく呼吸したのが、瑠珈にも分かった。
「……そんなことを言われたのは……、初めてだ。」
「ごめんなさい。あたし、何か余計なこと言ったでしょうか?」
「……いや、そうではない。」
そう言って、ウルカはしばらくの間、黙ってしまった。
瑠珈は先ほどまでの地上の喧騒から離れて安心したせいか、途端に外気の寒さに身体が震えた。
「寒いか…。」
「少し。でも、ウルカがあったかいから、平気です。」
瑠珈がぶるっと震えると、ウルカは心配そうに彼女を見つめた。
「そなたの傷寒がぶり返しては元も子もない。…雲を抜け、上空へ参る。雪粒が目に入るやもしれぬ。しばらくの間、目を閉じていろ。」
そうウルカが言った途端、彼は急上昇した。
瑠珈は慌てて目をしっかりと閉じた。
加速度が一気に3倍くらいになり、瑠珈は息をすることもままならなかった。
光帷は張られていたが、身体に当たる大気の感覚が恐ろしく重く、痛いくらいだった。
ウルカは瑠珈に風圧が直接当たらないように、飛行の角度を巧みに変えながら更に加速した。
にわかに大気の重圧が解けたかと思うと、今度は上に飛んでいるのか、下に落下しているのか、分からない無重力の状態が数秒続いた。
ウルカが減速したのだ。


「雲を抜けた…。」
と、ウルカが小さく言った。
瑠珈がおそるおそる目を開けると、そこには月齢の浅い三日月の月に照らされた広大な雲海が広がっていた。
雲雲の峰がまるでなだらかな山脈のように幾重にも重なり、それぞれの山脈の稜線が、月の逆光に照らされて白銀色に輝いている。
「……なんて綺麗……。」
瑠珈は思わず声を上げた。
天空にはキンと凍った星空が広がり、上空の強いジェット気流が巨大な大気の大河のように流れ、その大気のゆらめきで、星々は鋭く妖しくまたたいている。
まるでどこからか、透明な音楽が聞こえてくるような、生まれて初めて見る幻想的な風景に、瑠珈は凍えるような寒さも忘れ、目を見開いて見つめていた。
ウルカがそっと上空を指差した。その先に目を向けた瑠珈は、
「あ、渡り鳥…。」
と、小さく声を上げた。
見ると、高い高い夜空をカギの字の隊列を描いて飛んで行く、何百羽もの鳥たちが音もなく飛んでいた。
「雁(かり)だ…。」
ウルカは静かに囁いた。
「彼らは言葉を交わさずとも、時の流れに従い、彼らの血の中の声に導かれ、行くべき土地へ決して迷わず、必ず毎年辿り着く…。」
その美しい風景に、瑠珈はなんだか感動で涙が出そうになった。
ウルカとずっとこうして空を飛んでいられたらよいのにと、ヴェルヴェットの風の中を泳いでいるような、そんな不思議な、なめらかな高揚感に彼女がうっとりと身を委ねようとしたその時だった。
「…そのすぐ先に、雲の切れ間がある。あのような場所はその下方にも雪が降っていない。ちょうど瑠珈の住まいの近くだ。」
ウルカはそう言い、ふわりと翅を閉じると、重力の落下速度に従って、猛烈な勢いで突然降下し始めた。
煽が慌ててウルカの後に続いた。
瑠珈はジェットコースターが急降下するような、その恐ろしい猛スピードに悲鳴を上げ、ウルカにしがみついた。
「やっぱり、こうなるんですねっ!!」
「何のために無理をして、重いそなたを持ちながら上空へ昇ったと思っている。そなたの住まいに一番近き雲の切れ間を見つけるためであろう…!」
「…でも、お月様がぁ……。」
瑠珈は泣きそうになりながら、急激に遠ざかるかすみゆく美しい三日月に目をやった。
「月…?月がなんだ?月は腹がいっぱいになるだけだ…。さぁ、ゆくぞ!」
そう言って、ウルカは更に速度をあげた。
瑠珈は恐ろしさとスピードのせいでくらりとわずかに目眩を感じた。
相手の隠し立てのない心の声はストレートに聞くことができるのに、ウルカは基本、女心をまったく理解していないと、彼の身にしがみつき悲鳴を上げながら、瑠珈はその時、はっきりと確信したのだった。

――続く――

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