『本日、酉の刻…』

第84話

ウルカは衣の襟を元に戻しながら静かに語った。
「この空間全体は瀑の鱗より抽出した時極を司る物質も多く施されている。ここは強き特殊な光帷も張られており、時極性が周りの空間から独立している。それ故、屋敷も瑠珈が着ている衣もその下駄も、古くはならぬ。だが、そなたたち別の時極性を持つ者たちとも同期できるよう、回線と波長は常にこの時代に合わせてある。昨夜のように時極酔いを起こすことはない。」
瑠珈も冬の午後の青空を見上げ、辺りを見回した。
風は止み、雲の隙間から、柔らかく陽の光が刺している。
穏やかな冬の午後の空がそこには広がっていた。
「すると、時の流れはここの時代と一緒ってことなんですね!良かった!元の街に戻ったら、急にうんと歳を取ったりしないで…。浦島太郎みたいになったら、どうしようかと思った…。」
瑠珈がそう言うと、ウルカは岸に上がって瑠珈と同じ空を見上げた。
「イヌイの語るところによれば…、あれは一種の事故だったらしい。」
「事故…?」
「浦島の話だ。かつてあの者も、遠い時空の果てに心から愛する想い人がいた。ある時、どうしても元いた時空に帰還せねばならぬ事情ができた。あの者は我等と同じく、この星の住人であったため、非常に古い技とからくり…、そなたたちの言う“機械”なるものを用いて時空を移動した。“渡り”は辛うじて成功しこの星へ戻れたが、使用したからくりが故障し、火を噴き白煙が上がった。“時”が一気に暴走し、あの者に流れ込んだ。何とか命(いのち)は取りとめたが、再び想い人のいる時空の星へ戻ることは叶わなかった。想い人の星の者たちが、この星の人々の記憶を消し、本来の事故は歴史の流れに残ることはなかったが、浦島の想いはこの星に生きる者たちに強い残像を与えた。心の底に沈み込んだそれらの残像が、世代を超え、国を越え、ある時ふと人々の心の中に断片として甦る。そうして語り継がれた物語が、瑠珈が幼き時に聞いた浦島伝説だ。」
瑠珈はウルカを見つめ、目を輝かせた。
「何だかすごいですね!浦島太郎の昔話にそんな意味があったなんて…!」
明るい表情の瑠珈を見て、ウルカも少し笑った。
「……この話を聞き、何も疑わず、心の底より信ずる者も珍しい。イヌイにこの話を初めて聞いた時は、俺は作り話かと思ったものだ。」
瑠珈はびっくりして額の汗を拭った。
「…で、でも、ウルカは決して偽りは言わないって……、だから、あたし。」
慌てる瑠珈を見て、ウルカは優しく答えた。
「そなたの心の内はよく分かっている。俺は瑠珈には決して嘘はつかぬ。すべて、これは真実だ。」
ウルカは目を空に戻した。上空に飛ぶカラスを目で追いながら、彼は静かに語った。
「ヒトが語り継いできた物語の中には、時の流れにおいて真実であったが、真実として語ることのできなかった様々な出来事が潜んでいる。表向きには決して語れないが、物語としてなら語り得る、人々の想いの丈が込められている。深く人々の心の中に残り、何としても伝えたいという怨念が物語の深き底に澱んでいる。真(まこと)の核心だけが残り、あるいは輪郭だけが残り…、脚色され、誇大化され、また時に矮小化され、果ては逆転も起こる。悪として語られているものが正義の場合もあり、正義と語られているものが征服者である時もある。しかしそこには深き真(まこと)の想いを何とかして伝えたいと願う、人の願いの執念が凝縮されている。取り憑かれたように、まるで本能に突き動かされるように、人は物語を紡ぎ出す。物語を紡ぎ出さずにはいられない生きもののようだ…。」
瑠珈は、川の縁に立ち、空を見るウルカを見つめながら、心が燃えるように熱くなるのを感じた。
川面は美しく陽の光を反射し、その光を背に、ウルカは瑠珈を振り仰ぎ、微かに笑った。
「我等の物語も、いつの日か、時空を越え、形を変え、多くの人々に語り継がれる時が来るやもしれぬな…。」
そう言いながら、ウルカはまっすぐに瑠珈を見つめるのだった。
そんなウルカを見て、瑠珈は何だか涙が出て、慌ててそれを拭いながら、ウルカに背を向け屋敷の方へ振り返った。
「そ、そうですね!いずれにしても、浦島さんはちょっと可哀想でしたね。大好きな人と離れ離れになってしまって。そ、それより、早く帰らないと!ウルカさんの身体、本当に冷えちゃいますよ。浦島太郎の話をさせてウルカが風邪を引いたとなったら、それこそイヌイさんに、あたし、叱られちゃう。」
「俺は“風邪(ふうじゃ)”にはかからぬ。かかったとしても自力で治す。それに、今も熱くてたまらぬ…。」
ウルカは一度大きく肩で息をした。彼はすたすたと岸に上がり、帯に差していた小太刀を少し差し直すと、そのまま瑠珈を追い越し、屋敷へと向かった。
「言ったろう。そなたの体温が上がると、俺の体温も上がると…。イヌイが冷却装置を冬の為に高めに設定したのか、身体を動かし、気を紛らわせても、時に炎の中にいるように熱くなる。おまけにその熱が下がらぬ。以前にも増し、ますますひどくなっている。」
「待って…!それって“風邪(かぜ)”を引いているってことじゃないんですか?体温が上がるっていうのは、それこそ熱があるってことですよ…!」
「その熱とは違う…。俺の熱は…。」
と言うウルカに瑠珈がやっと追いついた時だった。慣れない下駄に足がもつれ、よろけた彼女をウルカは反射的に抱き止めた。瑠珈は小さくありがとうございますと言い、そのまま立ち上がろうとしたが、ウルカは彼女を抱きしめたままで腕を緩めることはなかった。
その時、瑠珈の心の中に、激しいパルスが走った。
だが、今回は今までの物と大きく異なっていた。これはウルカの記憶ではない。
もっと別の作用をもたらす、光の洪水だ。
それが、瑠珈の全身を駆け抜けた。光が、瑠珈の心の芯を深く覆いつくした。おのれというものが限りなく希薄になり、ウルカの魂のパルスに一瞬にして飲み込まれた。
抗おうとしたが、無理だった。
これはいったい何なのか。
すべての感情も、記憶も、意思さえも消え入るような、狂おしいほどの陶酔感が瑠珈の全身を包み込んだ。
彼がそれをどんな方法で瑠珈の心にもたらしているのかまったく分からなかった。波動のように無限に覆うその温かな大きなウルカという存在に、絡め捕られ、瑠珈はもうどうすることもできなかった。
すると、ふいに首筋のあたりに冷たいものを感じ、彼女は目を開いた。
ウルカの濡れた髪が、瑠珈の首筋に触れていた。
彼女を強く抱きしめていたままのウルカの身体は本当に熱かった。
――続けるか。これが俺の熱の正体だ。瑠珈を思うたびに、この波が俺の身体を駆け巡る。そして波は俺を覆いつくす。抗うことができぬ。――
と、この上なく透き通ったウルカの“声”が、瑠珈の心の中に優しく響いた。
――瑠珈が望むのならば、この先に進む。だが、そうなれば俺はもう後戻りはできぬ。――
瑠珈はウルカの逞しい腕の中で目を閉じ、彼の濡れた冷たい髪に頬をそっと押しつけた。

ウルカは瑠珈を横抱きにしたまま屋敷へ戻った。
踏み石に瑠珈の下駄と自分の履物を置き、庭から外廊下へ上がったウルカは、濡れた衣を廊下に置くと瑠珈を抱いたまま先ほど彼女が眠っていた部屋に入り、障子を閉めた。
「俺の部屋だ…。」
とウルカは言い、瑠珈を床の上にそっと下した。そう言われて、瑠珈は部屋の中を見回した。やはりここはウルカの部屋だったのだ。ウルカは上座にあった刀置きに小太刀と短刀を置き、懐から取り出した笄も、明り取り用の窓の傍の書院の上の朱塗りの文箱の横にそっと置いた。瑠珈は小太刀の下の空の刀置きに目をやった。
「あの刀、鵺にあげちゃったんですね。」
瑠珈が言うと、ウルカは背を向けたまま答えた。
「……代わりに、瑠珈がやってきた。」
彼は文箱の中から何かを取り出し、そのまま瑠珈の前にやって来てゆっくりと座った。
「…少々迷ったが、瑠珈の好みが分からぬ故、イヌイより無為の構造式を借りて応用した。」
ウルカの開いた手のひらの上には、鈍色に輝く一対の瀑の子の小さな角があった。
角の付け根には穴があり、そこに深い藍色をした細い糸を織り合わせたような紐が通っていた。
「わぁ、これ、瀑の子ちゃんの角ですね!えぇと、これって……。」
「根付だ。」
「…根付?」
「紐も瀑の子より抜けた髭を撚り、藍で染め上げた。決して切れぬ。瀑の子の角をそなたに貰ってからすぐに作り始めた。」
ウルカはその瀑の子の角の根付の一つを手の中に入れ、そっと握りしめ、次にその手を開き、瑠珈の目の前に差し出した。開いた手のひらの上には恐ろしく緻密な、一頭の馬の形に変化した鈍色の根付があった。
「…あ、朧丸…!」
瑠珈は目を輝かせた。
「持ち主の想いにより形が変化(へんげ)する。よいか、心の中で強く思う。さすれば思ったままの形に変わる。これは無為を扱う訓練にもなる。慣れれば…。」
と、ウルカは再び手のひらを握り、目を閉じた。次に再び手のひらを開くと、馬の形に変化していた根付は、朧丸とまったく同じ灰色に白い細かい雪のような斑の入った色に変わっていた。
「このように色彩が加わる。」
ウルカは瑠珈の手を取ると、その手のひらに小さな朧丸に変化した根付を静かに置いた。
「綺麗…。」
瑠珈は手のひらに乗せた根付を目の高さまで持ち上げ、うっとりと見つめた。
「本物みたい。すごくリアル。」
「一つは瑠珈のものだ。…対の一つは俺が持つ。」
ウルカはもう一つの瀑の子の角の根付をそっと握りしめた。
開いた手のひらの上には、例の五色の鬣(たてがみ)を持った、戦闘モードの朧丸があった。長い五色の鬣は燃えるようにめらめらとうごめき、鋭い一本の角はまるで本物の刀のようにギラリと輝いていた。小さいながら、五色の鱗状の輝く身体も、蹄の後ろの何本もの鋭い鍵爪も本物そっくりだった。
「これに…、朋子殿に叱られたので、大切な機能を先ほど追加した。」
「朋子?」
瑠珈が不思議そうな顔をすると、ウルカは彼女をまっすぐに見つめた。
「これを身につけていれば、互いにどんなに遠く離れていても想いが通じる。たとえ時を越えても、どの時代にいても、お互いの場所が、分かる。」
「すごい…。まるで、ウルカの持っているあの笄みたい。」
「そうだ、あれはイヌイと共に交わしたものだ。成分と機能はほぼ一緒だ。だが、これは根付だ。身につけるものだ。空は飛ばぬ故、決して投げるな。」
「笄だって、本来空は飛びません。」
と言って、瑠迦はくすりと笑った。
「イヌイが色々と付け加えた。」
「あ、つまり、“オプション”ですね。」
「御付紫苑…?」
「あ、いえ、えぇと、新たに付け加えられた特徴、構造上の幅を広くさせるための新しい機能…かな。」
瑠珈はちょっと笑いながら、手のひらの上にある小さな朧丸の根付を優しく見つめた。
「…いただいていいんですか。」
「瑠珈のために作った。しかし、この根付はまだ起動はしていない。」
「起動?…えぇと、セットアップのことですか?」
すると、ウルカはそんな瑠珈の頬にそっと手を触れた。そして瑠珈の髪をかき上げ、顔を近づけ、その首筋に優しく唇を這わせた。
瑠珈は不意を突かれて電流が走ったようにびくりと身を震わせた。
「起動の前に……、先ほどの続きが、まず先だ…。」
彼は瑠珈の手を取り、抱きかかえ、床にゆっくりと倒した。
ウルカの手と瑠珈の手が重なった。
その間から二つの根付が絹地の暖かい床の上にころんと落ちた。瑠珈は震えながら瞳を閉じた。
そのあと、ウルカが言った。
「…震えているな。寒いか…、それとも、やはり、怖いか…。」
「いえ、あの…。」
ウルカは、瑠珈を抱きしめていた力をそっと緩め、唇を浴衣の襟の内側の瑠珈の鎖骨のあたりの肌から離し、片肘を立て身を起こすと優しく囁いた。
「後戻りはできぬが…、無理強いはせぬ。俺はそなたの気持ちが手に取るように分かる。無理はするな。怖いのならば、怖れが無くなるまで、俺は待つ。そうだな…、まずは山女魚でも獲りにゆくか…。」
「え…?」
ウルカは笑うと、瑠珈の髪を優しく撫ぜ、鼻の頭にちょっと口づけをして、ゆっくりと立ち上がった。
「冬山に入る。瑠珈には“かんじき”が必要だな。裏にあったが、あれでは瑠珈には大き過ぎるだろうな…。」
「え、えぇ~?ふ、冬山、今からですか。」
「案ずるな。現地までは俺が光帷を張り、飛んで連れてゆく。一瞬だ。鹿毛の上着なら山ほどある。完全防備をせねばな、さ、時がない。さもなくば山女魚が夕餉に間に合わぬぞ。」
そう言ってウルカは根付を手に取り、嬉しそうに瑠珈の身を起こし、立ち上がらせた。
そしてその手に朧丸の根付を握らせると、次の間に向かい、瑠珈と自分の冬山の着替えを用意し始めたのだった。

――続く――


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