『本日、酉の刻…』

第31話

研究所の辻越が分厚いデータの束を相馬の部屋に持ってきたのは、例のBプロットを捕獲して9日が過ぎた頃だ。
デスクの上にバサリと何冊ものファイルを置き、辻越は額の汗を拭った。
「仰せの通り用意しました。この間取得できたBプロットのデータです。」
「これで全部か…。」
相馬は研究員の辻越に一切のねぎらいの言葉もかけず、デスクに積まれたファイルを開き、真剣な表情でデータに目を走らせた。
「はい、全部です。」
「つまりは…何も得られなかったってことか…。」
「数値的には…、そういうことになります。あの気密室は、近づいた職員たちが倒れて以来、外部との接触を一切絶っています。外気はおろか、水分や有機物質の出入りもすべて管理しています。Bプロットを捕獲してから、一週間以上経っていますが、データ上あいつは一切の酸素も二酸化炭素も水分さえも排出していないように見えます。…」
「呼吸をしていないのか?」
相馬は胸ポケットからペンを取り出し、データを見ながらペンの頭をカチリと押した。
「しています。しかし、私たちの測定器には反応しないんです。理由はよく分かりませんが、我々人類には捉えきれない、この空間に満ちている様々な未知の物質をエネルギーに変えているのかもしれません。あと、これまた映像の記録には一切残ってないのですが、Bプロットの身体の周りには、何か目に見えない被膜のような一種のバリアがあって、外界とは接触していないようにも感じます。一日数回データの取得のために気圧を変化させて内部の大気を100%入れ替えますよね。その時、気密室内でダクトに向かって風が起きるじゃないですか。でも、あのBプロットの髪は一本も揺れないんです。もちろん、やつの一見柔らかそうに見える、あのこじゃれた衣服も…。」
相馬は初めてデータから顔を上げて辻越に目を向けた。
「データが取れなかったことは相変わらず悔しいが、そこは良い着眼点だ、辻越。他に気がついたことはないか…。」
「そうですね…。」
と、辻越は天井を見上げた。
「…時々、鼻歌を歌っていますよ。夜になると大概…。」
「歌…?」
「多分、歌です。聴いたこともないメロディです。歌詞はまったく分かりませんが…。」
「我々と同じように、音楽を愛する感性も持っているのか…。録音は?」
「記録は一切取れません。何度も言ってますが、すべての機器にデータは残りません。所持品のあの刀と小太刀や短刀、そして笄も写真を撮ろうとしても、絶対に映らないのですから。音に関しても同じようなものです。」
相馬はデータの束を閉じるとペンの頭を再びカチリと押して、ペンをポケットにしまおうとし、その手を止めた。
「スケッチはどうだ…?」
「…スケッチ…、絵ですか?」
「そうだ、一番有効な記録方法だ。辻越、そのBプロットの歌もだな、思い出してお前が歌って録音しておけ…。」
「えぇ~~?俺がですか?こんな音痴でいいんですか?」
辻越はその後小さくあーあーと高低を変えながら発声練習を始めた。
「いくらBプロットでも紙に直接描かれたスケッチを消すことはできないだろう。やつらが消せるのはあくまでもデジタルな電気的な信号に変換されたものだけだ。とにかく精密に描いておけ。もしそれが消えたら、残るは縄文方式だ。」
「縄文方式ってなんですか?」
コホコホと小さく咳ばらいをし、喉の辺りを抑えながら辻越が言った。
「紙や木の板が無かった時代、人類は何に記録を残していた?石でも岩でも何でもいい、刻め。記録が残せそうなものはすべて試せ。」
「相馬さん、本気で言ってるんですか?だいたい持ち運びできる石板なんて手に入れられますかね。石材屋なんか近所にあったかなぁ。」
と辻越はメモを取った。
「あいつが持っていた刀剣はどうした?」
相馬は部屋の窓に近づき、ブラインドを開けた。二重の硬化ガラスで作られているその窓の向こうには宙倫研の美しい広い芝生の庭が広がっていた。
大都会の真ん中にぽっかりと残された空間だった。
元々大きな大名屋敷の跡地をそのまま研究所の敷地にした場所だった。
江戸時代より代々異空可動体の存在を世から伏せ、研究を担ってきたとある大名家の下屋敷だったと言われている。その広い敷地には長い間丹精をこめて作られた美しい広い日本庭園が今もなお、そのままきちんと丁寧に管理され残されていた。
「重量を測ろうとしてもまず計器が動きません。目見当ですが、普通の戦国後期に作られた刀剣よりやや重いといった感じです。これも感覚ですが、かなり硬度は高そうです。ベリリウム純度100%の鉄鋼を簡単に叩き斬ります。サンプルを取ろうと刀身を削ろうとしたんですが、ことごとく削ろうとした刃先の方が削られてしまいました。でも、傷は刀身本体にほんの少しできましたよ。ですがすぐに跡形もなく戻ります。時間にして、えぇと、およそ0.5秒ってとこですね。」
辻越はそこまで言うと、しばらく黙ってしまった。そして相馬の方に振り返った。
「…何でしたっけ?俺、以前すごくよく似た同じような現象を栗原さんや相馬さんから聞いたような気がするな…。」
「俺もだ、辻越……。お前の話を聞いて、たった今思い出した。」
相馬も辻越を見つめた。
「すぐに栗原に連絡を取れ。奈良に動きがないか、確かめさせろ…。」
「奈良…ですか?」
「そうだ。斑鳩だ。急げ…。」
「は、はい。分かりました。」
そう言って、辻越は慌てて宙倫研の広い相馬の部屋から出ていった。


透き通った風がその深い渓流を吹き抜けていた。
川原の岩場の木陰でウルカは一人、目を覚ました。
どのくらい眠っていたのだろうか。日はまだ高かった。
落ち葉が身体の上に何枚も降ってきていた。
その落ち葉を掃い立ち上がると、渓流の近くまでウルカは岩場を降りていった。
遠くに時鳥の声が聞こえる。
その声を聞いて、先日城内で時鳥の声を聞いた城主の若い側室の一人が、気まぐれにあの声の主(ぬし)を獲って参れとウルカに言い困らせたことを思い出し、彼は少し笑った。
この男がこんな穏やかな笑顔を見せることを、おそらくこの国ではこの男の雇い主の月出城の城主、月出晴景以外、誰も知らないだろう。
川蝉がウルカの目の前をすいと飛び、透明な水面へちゃぽんと飛び込んでいった。
ウルカは身をかがめ、冷たく清らかな流れに手を浸し、その澄んだ水をすくい、一口それを飲んだ。
誰にも知られていない深い森の奥だった。だがウルカはここに何度も来たことがある。夏の季節には暑さをしのぐため泳いだこともあった、小さな滝が流れ込む広い渓流の深みである。
と、その時、ごうっと強い風が吹いた。
ウルカは空を見上げ、微かな異変を感じ取った。
素早く後退し、小太刀を鞘から抜こうとしたが、間に合わなかった。
目の前に突然巨大な四翅を広げたヒトの姿が現れ、彼の身を捕らえると、岩場の影に押しつけた。
ウルカは鋭い殺気を発し、帯に忍ばせてあった短刀を抜いた。
だが、現れた男はウルカの手から難なく短刀を払い落とし、抵抗する彼の自由を奪った。
男の翅から青白い光がふわりと広がり、男とウルカの身を覆った。
「おのれっ!」と強く声を発しようとしたウルカの口を塞いだ男は、そのまますっと空を指差した。
そして「そのまま、身を伏せろ、声を出すな、静かに…。」とその男が言った。
ウルカがその男に倒されたまま梢の間から空を見上げた時、上空に虹色に輝く渦が出現した。
その渦の中心から、恐ろしいほどの光の粒が噴き出し、小さな細やかな透明な無数の渦たちがそれに続いて流れ出て、見る間に空の彼方に拡散して消えていった。
そのあとに見たこともない巨大な鈍色の長い生きものがまっすぐこちらに降りてきた。
ウルカは思わず息を止め、その巨大な美しい生きものに見入った。
その生きものの長い全身の周りには、数え切れないほどの光の粒と透明な渦たちが輝いている。
その後方から、ウルカにとっては百鬼夜行と思われる不思議な生き物たちがわらわらと続いて出現し、四方八方に飛んでいった。
中でも数が多かったのは真黒な巨大な鴉にそっくりな生きものたちだ。
彼らは戯れるようにきょろきょろと辺りを見回すと、すぐにふわりふわりと姿を消していった。
そして、矢のようにこちらに向かって真っすぐに降りてきた全身が鈍色に輝く巨大な生きものは、ざぶんと渓流の大きな深みに飛び込んだ。
周りの高い木々を大きく上回るほどの水飛沫が上がり、驚いた鳥たちが一斉に森の梢から飛び立っていった。
「あれは瀑の成体だ…。」と、男が塞いでいたウルカの口からそっと手を離しながら言った。
男の背にあった甲虫の裏翅を思わせる半透明の四翅が音もなく消えると、男とウルカを覆っていた青白い光もすっと消えた。
「まもなく脱皮をする。この星の時の流れでは500年に一度だ。その時が近づいている…。」
その男はそっとウルカから離れ、立ち上がった。ウルカは静かに身を起こし、その巨大な生きものが飛び込んだ渓流の深みを見下ろした。だが、そこには揺らめく大きな波紋が残るだけで、透明度の高い水中にいくら目を凝らしても先ほどの巨大な生きものの姿を捉えることはできなかった。
「あれは…竜か?」ウルカが言った。
「竜…。この星のこの地域ではそのように呼ぶのか…。ならばあれは竜ではない。竜は架空の聖獣だが、今見た通り、あの生きものは生きている。」
「では何なのだ。」
ウルカが男に訊ねると、男は懐から何かを取り出し手のひらを開いた。
そこには見事な輝きを放つ美しい流線型の球体があった。
球体は見る間に蠢き変容し、見事な小柄(こづか)に変化した。
男は静かに答えた。
「遥かいにしえの時代、私と共にこの星に移り住んだ生きものたちだ。」
男の手の上にあった小柄は更に変化した。刀の鍔(つば)になり、文鎮になり、簪(かんざし)になり、しばらく落ち着いたかと思ったが、またふわりと変容し、豪奢な目貫になり、縁頭(ふちがしら)になったかと思えば、またくるりと回転しながら小刀の形状へと変化した。
小刀は更に薄く少々小ぶりな形に変化し、一本の精密な文様を施した美しい笄の姿になり落ち着いた。
男は満足したようにその笄を木立から漏れる陽の光にかざした。
「この月出の国において半年ほど前より、乾の方向に向かう天に昇りし妖しき光があり、その源がこの深い淵よりいづるのを私は突き止めた。お前は以前より、この月出の城下を騒がす天空に昇る光と共に現れし幻怪の妖(あやかし)であるか。」
ウルカがいうと、
「妖か妖でないか…、君がこののち時をかけて、ゆっくりと確かめればいい。」
と、男は答えた。
ウルカはしばらく透明な渓流の深みを見つめながら考え、静かに立ち上がり、拾った短刀を鞘に納めた。
男は陽の光から笄を下げた。
「……知らぬ言葉がひとつあった。先ほど君が言った“乾”とは…、確かこの地で呼ばれている北西を表す方角のことだったかな。」
そう言う男の心の中を、ウルカはいつものように探ろうとした。すると男は陽の光の色にも似た鳶色の瞳をウルカに向け、その眼をゆっくりと閉じそして再び開いた。
「君が昨日、狼から助けた小鹿は無事に母親の鹿に会えた。今は…四つ向こうの山にいる。しかし、その小鹿を仕留められなかった狼は、腹をすかせた子らのために彷徨い、今日も獲物を追っている。情けはかけぬ方が良い、自然の摂理に任せよと君の養父も常々言っていた。そのことに君は今もとても迷っている。」
「お前は何者だ…。我が心の内が読めるのか…?」
ウルカがそう言うと、男はウルカに向かって手に持っていた笄をすっと素早く投げ上げた。ウルカは反射的にその笄をしっかりと掴んだ。
「君と一緒だ。君は私に何が見えたか……?」
ウルカは答えなかった。男の背後の木漏れ日がわずかに眩しく、ウルカの目を差すのだった。その眩しさにウルカは微かに目を細めた。やはりまだ、昼の陽の光には慣れていないのだ…。
――続く――

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