『本日、酉の刻…』

第94話

3月も半ばを過ぎると、この地方の平地の雪は大方解ける。
山々の稜線にはまだ冠雪が残っているが、平地はすでに草木たちの若葉が刻々と芽吹き始めていた。
あれからウルカは、イヌイと共に瀑を追うために何度かしばらく瑠珈の前から気配を消したが、彼女がウルカは今どうしているのだろうと思う頃には、必ず彼女の前にふらりとやってきて、その間に見知ったこと、何をしていたかをゆっくりと話してくれた。
その頃のウルカは、大之井から既に何着も現代の衣服を譲り受けていて、その衣服を違和感なく着こなし、時に“光帷”を張らずに瑠珈の前に現れた。
それは大学の昼休みの学生食堂であったり、朝の通学途中であったり、バイト前に大学から出てくる瑠珈を正門前で待っていて、小さく驚かせたりしていた。
だが、やはり、誰もいない時や、煽を連れて夜中に瑠珈の部屋のベランダにやってくる時などは、小太刀を携え、例の灰墨色の、草木の精巧な刺繍の入ったあの衣を着てきた。
それを着てくる時のウルカは、やはりどこか自由で、動きやすく、美しく見えた。

ウルカからもらった根付は、お互いの想いや居場所が分かるものだとウルカは言ったが、瑠珈の感受性の問題なのか、瑠珈にはまだ上手く、それが働いたことはなかった。
根付の機能が発動するには、実は相性といくらかの経験と訓練が必要らしい。
彼がすでに持っている笄は、ウルカの身体を作った瀑の鱗と同じパーツを利用している。
いわばウルカの身の一部であり、これほど相性のいいものはまずない。
ところが、ウルカや瑠珈とまだ多くの結びつきを持っていない瀑の子の角から作った根付と信頼関係を築くには、多少の時間と経験が必要だというのだ。当然マニュアルは一切ない。
あの笄もそうだが、ウルカやイヌイたちは、まるで個性や人格を持った生きもののように道具を扱う。だが、そのように扱うことが、笄や根付との関係性をより深めるらしいのだ。
彼は瑠珈の目の前で、自身の根付を様々な生きものや形状に変容させては彼女を大いにびっくりさせていた。
それに比べて、瑠珈といえば、うんうんと力を込めて試みたものの、やはりうまく命(めい)が伝わらず、ぐにゃぐにゃとしたミミズに似た物体にさせたり、例のあの瑠珈の“不気味な馬”の形に変容させてウルカを何度も大笑いさせたのだった。
こんな風に明るく楽しげに心の底から笑うウルカの姿を見て、瑠珈もまたとても幸せな気持ちになった。

ウルカの話では、彼らが追っている瀑の成体が今はとても活発に活動していて、そのうちの大型の一体はどうやらまもなく脱皮を迎えるという。
「その大型の個体が、あの瀑の子の親に違いない。」
そうウルカが瑠珈に告げたのが春の始めの頃だった。
「この星のこの時代にこれほど多くの瀑が集まっているのはとても稀なことなんだ。イヌイは何かの予兆ではないかと言っている。」
暖かさを含んだ風がやっと吹き始めた、心地よい春の夕暮れだった。
「……それとも、瀑たちは、何かを見とどけようとしているのか……。」
と、ウルカは言葉を続けた。
瑠珈が“不気味な馬”を元の美しい朧丸の姿に戻してもらおうと根付をウルカに手渡した後、ウルカが思い出したように笑顔を止めてそう話してくれたのだった。
「脱皮前の瀑は、むやみに時渡りは行わない。それがこの時代にやってきている。あの500歳の小さな瀑でさえ、最初の時渡りの候補としてこの時代を選んだ。瀑の生態からは親を追って渡ってきたとはとても思えない。」
「そうなんですね。あたしはてっきりあの大きな瀑に会いにきたんだと思っていました。」
「瀑は基本子育てはしない。この星の、海亀といっしょだ。」
「…いったい、この先に何が起こるのでしょうか…?」
不安そうに言う瑠珈に向かって、ウルカは彼女の根付を軽く手のひらに包み、それを開いた。そこにはあの灰色に白の斑模様の入った、小さな朧丸の姿があった。
ウルカは穏やかに微笑みながら、それを瑠珈に返し、
「案ずるな…、何が起きようと私は必ず、瑠珈の元へ帰ってくる。」
そういうと、ウルカは彼女の髪をそっと撫ぜた。

そんな風に、時折訪れるウルカと一緒に、例えば無為の足跡である光の粒々を、野山や町や都会の路地裏でコツコツと二人で集めたり、春が来ている地域にウルカと共に飛び、芽吹き出した蕗の薹(フキノトウ)の“コピー”を取ってそれをウルカの屋敷で天ぷらにして、イヌイと一緒に食べたりした。
また、春が深まり、このままだとジャングルになってしまいそうな瑠珈の大学のラグビー部のグランドの端の萩の茂みをこっそり刈り込んで、その枝の何本かを、ウルカの屋敷の庭に挿し木にして植えてみたりもした。
まだ雪の沢山残る人里離れた山奥へ、氷のような冷たさの雪解け水が美しく流れる清流を見に行ったり、瑠珈のバイト先の図書館で、休憩中の瑠珈と一緒に司書の竹田に見つからないよう気をつけながら、ヨーロッパの17世紀バロック美術の大きな画集を二人で眺めたりした。
それでもやっぱり職員の須藤にはみつかってしまい、また“デート”かと冷やかされ、相変わらずウルカのことをとてもイケメンだとほめちぎる須藤を二人で苦笑いをしながらやり過ごしたりした。

春分の日に近い夜、瑠珈は自宅のあるマンションの屋上に、持ってきた対空双眼鏡を夕日が落ちて群青色が一段と濃くなった夜空に輝くその大きな星に方向を定めた。
その星、木星は、この夜四つの衛星の姿もはっきりと確認できた。
春霞の上、風も強かったのでもっと像がぼやけるかと思ったが、驚くほど鮮明に木星は見えた。
瑠珈の住むマンションの屋上は周りの建物より一段高かったため、周囲の光にあまり邪魔されることはない。
東の空には月も昇っている。
その月齢の若い美しい舟形の月を、ウルカはずっと見つめていた。
夕暮れの明るい時分から、もう2時間ほどになる。
草木が芽吹いているとはいえ宵のうち(18時~21時頃)で、すでに風は冷たい。
瑠珈はちゃんと厚手の上着を羽織っていたが、ウルカは相変わらずの薄着だ。
いつもの灰墨色の衣の下に淡い紺地の単衣と白の単衣を緩やかに重ねていた。
腰には小太刀と短刀が差してあり、短刀の脇には彩色された戦闘モードの精密な朧丸の根付が、時折、風に吹かれて揺れていた。
こんなに木星が綺麗に見えるのならば、朋子から自動追尾機能付きの天体望遠鏡を借りてくれば良かった…と思った。ただ、風が強く寒いので、木星が天頂に近づく夜半まで粘ることはちょっと無理かも…と思った。
ウルカは月を見つめながら、「煽を遠ざけるか…。」と言った。
ちょうど、木星に雲がかかってきたので、瑠珈は対空双眼鏡の接眼レンズから目を離し、上空を見つめた。
「煽…。そうか、どおりで地上の風だけが強いと思った。」
そう言って、彼女は上空にいるはずの透明な煽に向かって笑いかけ、大きく手を振った。するとあれほど吹いていた風が止み、その直後、また大きな風がぐわりと吹いた。風はマンションの屋上の上空で渦を巻き、その風音がひときわ大きくなった。瑠珈はもうすっかり暗くなった夜の空に目を凝らした。そこには大気の濃淡の揺らぎが微かに感じられ、その輪郭はまるで大きなバッファローのような姿をしていた。煽は支えていないと対空双眼鏡が倒れてしまいそうな強い突風を一回だけ起こした。
――煽さん、望遠鏡の研究は進んでいる?!――
瑠珈が心の中でそう訊ねると、煽は答えの代わりに、木星の方向に流れてきた層雲めがけて明るく突進し、その雲の下方から少し強めの下降気流を起こし、真ん中に大きく穴を開けた。すると雲は見る間にちりぢりになり、跡形もなく消えてしまった。
「煽が雲をひとつ消しちゃった!大丈夫なんですか…?!」
――おかげで木星はとても見やすくなったけれど…。――
と心の中で思いながら、瑠珈はウルカのそばまでやってきて消えた雲を見上げた。
するとウルカは月からやっと視線を外し、瑠珈を見下ろした。
チャージが終わったようだった。ウルカは久々にフルチャージをしたらしい。最近では食事からのエネルギー摂取も昔と変わらないくらいに戻っていたが、やはり時々は“シャトル”から届く、波動は欠かせなかった。身体を少し動かしたのち、ウルカは深呼吸をし、夜空を大きく仰いだ。
「煽がひとつ雲を消したくらいでは、ここより視界に入る夜空のすべての気象にはほとんど影響はない。大気に雲が必要ならば、すぐに気流が生じ、新たな雲がそこに生まれるだけだ。」
そういって彼は、瑠珈が離れた対空双眼鏡に近づき、
「さて、今夜も歳星(木星)は美しいか…。」
と言い、慣れたように木星へ向いているレンズの方向を経緯台のハンドルを動かし、微調整した。
「やっぱり自動追尾が備わった天体望遠鏡でないと不便ですよね。地球の自転って結構早いから。すぐにレンズの外に惑星が逃げちゃって…。」
瑠珈もそう言いながらウルカのそばへ行った。
「いや、このひと手間が楽しい。自身の技能を常に試されるというのは、喜びだ。」
「そうですか?あたしなんて、レンズの中央に惑星を持ってくるのに手こずって、まだまだ何分もかかって喜びに辿りつけません~。」
「我らが生きるこの星の自転は思いのほか、早い…。」
「日本のこのあたりだと…、自転の速度は時速約1400キロ。えぇと、半刻(約1時間)で約三百五十里…。あたし、それを思うといつも頭がくらっとなります。どうして空気もあたしたちも机の上に置かれたミカンも、地球の外側にすっ飛んでいってしまわないのかって。」
「重力と摩擦だ。重力は…、俺もこれが不思議でならぬ。何ゆえ物と物は引かれ合うのか、素粒子や電子と呼ばれる雲のひとかたまり同士が空間を隔て、力を及ぼし合い、繋がり合っている。遠くの宇宙の果てまで、すべての空間の中でそれぞれの力が及ぼし合っているんだ。その力は俺の身体を貫き、瑠珈の身体も貫いている。目には見えぬ網の目のように。星が自転し、恒星の周りを回転し、銀河の流れに乗り、その銀河も恐ろしい速さで移動していても、この星と共に大気は深く結びつき、けして星から離れない。それはすべて宇宙に満ちる引かれ合う力によって支えられている。俺はこの星の空を飛べるが…、それはその重力の結びつきを僅かに解いて増幅させているからだ。重力がなければ、俺は空を飛べぬ。煽の力も借りてはいるが…。」
そうウルカは言い、対空双眼鏡から身体を起こし、瑠珈を手招きした。
瑠珈は髪を抑えながら、レンズに目を近づけた。
レンズの中には宝石のような美しい縞模様の木星が4つの衛星を伴ってぽつりと輝いていた。
「何度見ても本当に綺麗…。4つの衛星も。イオ、エウロパ、ガニメデ、それからカリスト…。」
「イヌイの故郷からの帰り道、歳星の“月”のうちの一つに立ち寄った。」
瑠珈は驚いて顔を上げた。
「ガリレオ衛星のうちのひとつに…!」
瑠珈が明るく驚くとウルカも懐かしい表情をした。
「外気は計り知れぬほどの寒さ故、“船”から降りることは叶わなかったが、火山性の間欠泉があった。水蒸気の噴煙が上空に高く高く昇り、巨大な歳星が“月”の地平より浮かび上がり、絶景だった。」
「わぁ、どこだろう?火山があるなら…、やはり“イオ”かしら?」
「“伊予”…?」
と、ウルカは少し笑い、思い出すように言葉を続けた。
「いや、イヌイはその歳星の“月”を“伊予”とは呼んでいなかった。確か……」
と、そこまでウルカが言った時だった。
夜だというのに遠く何羽ものカラスの鳴き声が聞こえ、そして風の流れがふわりと途切れた。
ウルカの表情が変わった。
瑠珈も、そのただならぬ気配を感じ、鋭い表情のウルカを見上げた。
ウルカは屋上の東の端へ歩み寄り、遠くの夜の空を見つめた。
「何かが、来ますか…?」
瑠珈が言うと、ウルカは視線をやや上空へ向け、後方に退き、瑠珈をかばうように彼女の前に立ち、腰に差してあった小太刀の柄に手を置いた。
「いや、もうそこに来ている…。」
「え…?」
瑠珈はウルカの視線の先に目を向けた。
するとその方向の上空に大きな大きな翼を広げた黒々とした生きものが暗い空の中、まるで砂嵐の中から浮かび上がるように突然出現した。
ひとつ、二つ、三つ、全部で四つ、それらが音もなく瑠珈たちのいるマンションの屋上に向かって凄まじい勢いで迫ってきた。

――続く――


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