『本日、酉の刻…』

第45話

「440年前のこの国の歴史の中に……。」
瑠珈はひとり、日比野のことばを口の中で小さく繰り返した。
「ルカさん…、俺から決して離れるな。もうすぐ俺の仲間もやってくる…。」
と日比野が言ったと同時に、暗い服の男たちがわらわらと日比野に向かってきた。
彼は身を低くし、小さく数回呼吸をするとふと息を吐き切った。
男二人が日比野に襲いかかった。日比野は驚くほどの俊敏さで二人の男の第一撃をかわし、一人目の男の背後から、その男の首に強く手刀を入れて倒した。
もう一人は見たことのない戦闘法で日比野に挑んできた。
だが、日比野はまるで怯まなかった。
やはりあの男、1574バージョンの闘い方に似ている、と日比野は感じた。重力を利用し、全身をバネのように使って攻撃してくる。まるでしなう鞭のようだ。そして相手の動きの先を読み、こちらの動作のほんの一歩前に必ず姿勢を配置する。それは0.1秒後に合わせて無意識に攻撃を構築しているかのようだった。だが、目の前の男たちの動きは、あの1574バージョンに比べるとやはり劣化版だ。日比野には、こちらは本気でオリジナルと戦ったんだという自負があった。
それでもこの二人目の相手は少々手こずった。
男の鋭い拳が日比野の頬を何度か掠めた。日比野は次の攻撃が右脇からくるのを予測し、瞬時に繰り出された敵のその蹴りを右足で払い、背後に滑り込むと後方から相手の首を取り、敵の肘の攻撃を防ぐため地面に引き倒し強く相手を押さえ込んだ。
手強かったその二人目の鳩尾にやっと重い拳が決まり、その男がぐうと声にならないうめき声を上げ地面にひっくり返ったのを見届けると、日比野は大きく深呼吸をし、腕時計を見た。
三人目の相手が、立ち上がった日比野に低い位置から回し蹴りを仕掛けてきた。
日比野はひらりと身を捻り、相手の背後を高い位置から素早く押さえ、重心を崩した男を地面に押さえ込んだところで、彼は瑠珈に声をかけた。
「そろそろ仲間が駅前の対策本部に到着している頃だ。駅へ向かおう。」
日比野は暴れる男を押さえながら、他に敵が潜んでいないか辺りを覗った。
「でも、あたし…。」
と、瑠珈は迷うように目の前で日比野に押さえつけられている男を見つめた。
「あいつの、ウルカの言葉を信じないのか?まだこいつらの仲間がどこかに少なくとも三人はいる。ここにいるより俺と一緒に対策本部へ行く方が安全だ。」
「……やっぱり、あたし、…ごめんなさい。ちょっとさっきの人たちが心配で…。」
そう言って瑠珈は、日比野が指し示した駅前の方向とは反対側へ走り出した。
「おい、待て!そっちじゃない!…こ、こら、暴れるな!」
日比野は再び男と格闘しつつ、消えゆく瑠珈の後ろ姿を目で追い、先ほど、瑠珈の身に何かあったらただじゃおかないと自分を睨みつけて去っていった1574バージョンの姿を思い出した。
(おいおいおい、俺は“あいつ”に半殺しにされたかないぜ…)と心の内で日比野は唸り、暴れる敵に崩袈裟固(くずれけさがため)をかけながら瑠珈の消えた暗い道に目をこらした。


二匹の獣は、お互いの存在を抹殺すべく楼閣(ビル)の屋上を次々と蹴り、夜の街の上空を舞うように飛び交っていた。
時々上げる獣たちの咆哮は、突然聞こえてくる遠い雲の上から響く雷鳴にも聞こえた。
ウルカはそんな二匹の巨大な獣を追いながら、頭上に広がる重い夜の雲を見上げた。
冷たい氷の雲だった。
上空には超一級の寒気が入り込んでいるようだ。そこには白い白い大勢の雪たちが、自分たちの出番を今か今かと待っているのだろう。
急がなければ、あやつが来る…、とウルカは獣たちを追いたてる速度を上げた。
直したばかりの翅の付け根も次第に痛みが増してきていた。元々自力飛行に適した翅ではない。
この星に於いては煽という生きものがいて、始めて成立する飛行方法なのだ。本来浮力は煽が作ってくれる。
冷たいものがウルカの頬に当たった。
雪が降ってきた。
早く“時渡り”をさせなければ…、とウルカは弾丸のように獣たちの前に回り込んだ。
どの時代に帰するか。無為は時渡りはできるが、何かきっかけがなければ別の時代へ自力で移空することはほとんどない。今回は無為たちだけで渡らせることは不可能だ。また以前のように養父に痕跡を辿られ、堕射がたびたび出現しても困る。
――朧丸!空へっ!!――
と、彼は強く、無為が変容している朧丸へ伝えた。
厚い雲を突き破り、その上空で時渡りをさせようとウルカは考えたが、瑠珈が“造った”あの獣には翼がない。
瑠珈の獣は軽い飛躍はできても空を自由に飛行できる形態ではなさそうだ。
朧丸はウルカの命に従い、一気に夜空へ翔け昇った。
地上で時渡りをさせても良いが、程よい空間が見つからない。ウルカは迷った。前方を見ると市街地のはずれに流れる広い川が見えた。あの河原なら、何とか時渡りができるやもしれぬ…と、ウルカが思った時だった。
――私が時渡りをさせよう。――
振り返ると、ウルカの後方に大きな翅を広げたイヌイがふわりと現れた。
「イヌイ…。」
ウルカは彼の友人を振り仰いだ。イヌイはそのまま近くの高い楼閣(ビル)の屋上へ向かうようにウルカに合図をした。二人は音もなく、その楼閣の上に立った。
ウルカは同時に翅を消すと、そのまま身軽に屋上の給水塔の上へ飛び上がり、下方を見下ろし、獣たちの様子を見つめた。
「急がねば…。彼らの姿をこの時代の者たちが、もう随分と目に留めている。」
「…君はここに残れ。私が彼らを別の時代へ導こう。」
給水塔のすぐ下にイヌイは立ち、獣たちの様子をゆったりと見つめていた。
「今、君が時渡りをするのは危険だ。時渡りの途中、例の堕射使いが君に何をするか分からない。堕射を見縊ってはいけない。絡め捕られたら命とりだ。」
「分かっている。」
「もうしばらく身体も休めた方がいい。充分治ってから時渡りをすべきだ。」
そう言ってイヌイは振り返り、ウルカを見上げて笑った。
「心配はするな。あの大通りで彼らを見た者たちの記憶は私が先ほどすべて消去した。早くあの子の所へ戻ってやれ。」
そう言ったイヌイの翅を、青白い光がぐわりと覆った。それが全身に広がったかと思うと、彼はそのまま楼閣の上からふわりと飛び降りた。
ウルカはたんと給水塔の上から屋上へ降り、イヌイの飛跡を目で追った。
――戻ったら、以前君が教えてくれた奥飛騨の温泉へ行こう。あそこは本当に良い場所だ。――
と、イヌイの声がウルカの心に響いた。
同時に、前方の河原に虹色の光線が鋭く走った。
まるで地上に巨大な虹の輪が現れたかのようだった。
咆哮を上げながら闘い合っていた二匹の巨大な獣たちは、吸い込まれるようにその虹色に輝く渦の中へ、降ってくる周りの雪と共に飛び込んでいった。
雪は激しく回転しながら、尾を引くように渦の中へ飲み込まれてゆく。虹色の渦は見る間に小さくなっていき、そして最後に雪が造る小さな竜巻を残して消えていった。
あとには真っ暗な川の流れと、その河原の堤防の上の歩道を照らす街燈の一直線に並んでいる光のドットの帯に、サラサラと降る雪の影が見えるだけだった。
ウルカがスッと片手を上げた。
その手に、輝く光を纏いながら、笄の一本が静かに戻ってきた。


確かこの路地を曲がったところだった…、と瑠珈は息を切らしながら元来た道を戻ってきた。
あの巨大な獣が倒した暗い服の人たち、早く手当をしなければ…と瑠珈は走った。
雪が降っている。
最初は粉のように細かいものだったが、だんだんと雪の粒が大きくなってきた。
通りには誰もいない。
雪の降り積もった無人の街路には、街の灯りと道路を照らす街燈が静かに輝いていた。
――そう、ここにさっきあの獣が傷つけたヒトが倒れていたはず…――
瑠珈はその場所に戻ってきたが、そこには雪の道路の上に大きな血溜まりのような黒い影があるだけで、肝心のヒトの姿はなかった。その次に暗い服の男が倒れた場所にも行ったが、そこにも血溜まりの黒い影があるだけだった。
瑠珈は急いで他の場所も廻ったが、倒れているヒトの姿はなかった。
最後に、獣がヒトを倒した場所に向かった。
すると、深々と降る雪の中に、街燈に照らされた月乃畝がぼうっと立っていた。
足元には今しがたの惨劇を物語るような大きな黒い血溜まりが見えた。
「おや、やはり帰ってきたか…。これもまた、先祖の言い伝え通りだ。」
月乃畝は冷ややかに笑いながら瑠珈に言葉をかけた。
そして、自分の足元に広がる血溜まりに目をやった。
「これは今しがたお前の作ったあの獣に襲われた私の可愛い手下のなれの果てだ。」
月乃畝は恨めしそうに瑠珈を見遣った。
「可哀想に、この者は痛みも感じず、死の自覚もなく、あの世に行ったことだろう。お前と仲の良いあの男も、かつて生きていた戦国の世では大層な殺人鬼だったらしいが、なるほど、こんなに時代が下っても、憑いた相手は自分と同じような好みの者とはな。」
「あ、あたしは、何も……。」
「自分が何をしたのか自覚のない者ほど、腹の立つことはない。お前が助けたあのおぞましき四枚翅が、およそ440年前に何をしてきたのか、お前は知らないのか?そんな化けものをまんまと覚醒させおって、あのまま弱らせておけば容易く倒せたものを。」
「ウルカの事ですか…?」
瑠珈が震えながら訊ねると、月乃畝はくくっとまた不気味に小さく笑いながら頷いた。
「そうだ、ウルカのことだ。知らぬのなら教えてやろう。あやつは我らの先祖の一族の中でも、もっとも残酷で邪悪な存在だった。人の心を操る妖力に長け、人を惑わし、恐るべき身体能力で諸国の武将や侍の首を冷酷に斬り、それを雇われていた武将の手柄にすべく献上するのがあやつの生業だった。あやつをヒトと思ったら大間違いだ。よいか、あやつは、殺してきた何百ものヒトの血を浴びながら、何百年も死なずに生きている化けものだぞ。」
月乃畝はそう言い捨てた。
「そんなの、嘘よ…。」
瑠珈はあとさずりをしながら小さく、だが力強くそう言った。
「…440年前の出来事なんて、本当にあったことなのかどうかなんて、分からない。その時代その時代に生きている人たちの解釈によっていくらでも判断が変わるもの…。ましてウルカの事なんて、どこの本を読んでも一行だって書かれていない。ウルカの記憶も記録も、そうやってきっと書き替えられたのかもしれないし、消されてしまったのかもしれない。…真実の歴史なんて誰一人分からないもの。」
「時代のはざまを縫うように生きてきた我が一族の現代の頭領の私にそこまで言い切るのは、いい度胸だ…。」
月乃畝はくくくとまた不気味な笑い声を喉の奥で鳴らした。
そして足元にあった血溜まりにそっと手を触れ、瑠珈に近づいてきた。
「しかし、手塩にかけて育ててきた私の手下たちをよくぞここまで無残な姿にしてくれたものだ。お前はやはりあのウルカ同様、命を奪うことに何の迷いもなく、残酷で冷徹極まりない。うっとりするくらいだ。」
瑠珈の顔色が青ざめた。今になって足がぶるぶる震えてきた。
「何人殺めたと思っているんだ。私の自慢の精鋭だった。涼し気な顔をしているが、お前はあのウルカという化けものに会った時から、とっくに我らと同じこちら側の住人だ。」
そして月乃畝は自分の手に付いた黒い血を瑠珈の頬にそっと塗った。
「よいか、それが我ら死びとを喰らう者の薫香だ。よく覚えておくがいい。」
月乃畝が冷ややかな笑みを浮かべ、瑠珈の手を取ろうとした。瑠珈は反射的にその手を強く振り払った。
「我が先祖に礼を述べなければな…。私はこの年になるまでこんな心躍る相手に出会ったことはなかった。よくわかったぞ、ウルカという化けものも、もう一体のイヌイというあの亡霊も、この時代へこぞってやってきた理由がな…。」

――続く――

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