『本日、酉の刻…』

第43話

広い湖に面した風格のある武家屋敷の外廊下に、ウルカは植物の束をそっと置いた。
植生がここ数百年で随分変わったとは思っていたが、この土地の周辺ではこの時代、どれも自生種を見つけることにとても苦労した。
胃腸に良いセンブリは初夏の植物なので、冬の時期のこの土地にはない。
そこではるか南に渡り、季節を遡ってみたが、この列島の島々の端まで煽と共に移動して自生の生葉をやっと手に入れた。
その他、一通り傷寒に効く自生の薬草を揃え、イヌイのいるこの屋敷へたった今戻ってきたところだった。
ウルカは振り返り、庭の一角に植えられている枇杷の木を見上げた。
今年茂った葉を数枚摘み、それを先ほどの植物の束の上に置いた。
屋敷には強い光帷が張られれているため、外界からは決して人の目に触れることはなかった。
敷地の周囲には瀑の鱗より作られた強い光帷の見えない壁が何重にも張り巡らされている上、この星の軌道を巡る多くの情報収集衛星に映らぬよう、例の月の静止軌道上にあるあの“中継装置”が、その屋敷のある場所一体をまるで瀑が水中に隠れるように様々な光学的な反射を施していた。
山深いこの国の国立公園の中にある湖のほとりのその場所は、時折鹿の親子が入ってくる位で外界からは完全に遮断されていた。
その時、ウルカはふと空を仰ぎ、腰に差してあった笄を握りしめた。その途端、彼はにわかに厳しい表情をし、素早く室内に入り、奥の座敷へ向かった。
上座の刀掛けにあった大刀と小太刀を手に取り、そのまま座敷の外へ出ようとすると、廊下からイヌイが現れ、ウルカを静かに制した。
ウルカはイヌイをキッと見据えた。
「“時力”の乱れだ。それも強い。何かが起こっている。瑠珈の住まいに近い。」
とウルカは珍しく荒らげた調子でそう言った。
イヌイは一呼吸おいて言葉を返した。
「分かっている。地下の無為を覚醒させた者がいる。それも量の加減を分かっていない。だが、今君が行けば、もっと凄惨な状況となるだろう。」
「光帷を張らずに実体化した無為が暴れている。無為の暴走を止めなければ…。」
ウルカはイヌイの脇を通り、そのまま外廊下から庭へ降りた。
「瑠珈に…、無為の呼び方を教えたのは、私だ…。」
イヌイがウルカの背に向かって言った。
ウルカは振り向かずに
「何度繰り返せば気が済むんだ…。」
と、小さく言った。
「もう決してこの星の歴史には介入しない筈ではなかったのか。」
そう言葉を続け、ウルカは立ち止まり、しばらく沈黙した。
「俺は、……二度と愛しき者を失いたくない。」
そして彼は二本の刀を持ち、突風と共に空に消えた。


「相馬さん、特定できました。例の会話の主の位置は…、先ほど発生した電磁波の特異点のど真ん中で消えました。」
「やはり、例の民間人か。厄介なことに巻き込まれてないといいんだが…。」相馬は移動中の車の中で、暮れなずむ流れゆく風景に目をやった。
車の後部座席で特殊なタブレットを食い入るように見ていた栗原は、もう一方の手で押さえていたノートPCを開きキーを数回叩いた。
「毎度のことなんですが、電波の状態が最悪です。もうこの周波数を使った通信方法を何とかしないと、俺たちつぶれますよ。所長に何度も進言しているんですが、一向に改善されません。」
栗原は鬼のようにPCとタブレットのキーを叩いた。
「到着予定は…?」
相馬が運転手に訊ねると、
「あと9分ほどです。」
と運転手は答えた。
「栗原、日比野さんは…?」
「何事もなければ、もう現場に到着しています。」
「連絡は……?」
「ありません。」
「…ということは、何かが起こっているって事か。」
車の助手席にいた相馬は、フロントガラスに向かって身を乗り出し、前方の暗い上空を見上げた。
「雲行きが怪しいな。雪が降ってきそうだ…。」
そう言って相馬はネクタイを一気にほどくとポケットの中に仕舞った。
「栗原、所長に至急、不審物発見の報道会見を自治体に申請するように連絡しろ。現場周辺の地域住民を緊急避難させる。封鎖レベルはレベル6。一時間以内に完全封鎖だ。」
栗原はPCとタブレットを両手で抱えながら更にスマホを取り出し、「はい、了解。」といい、所長への緊急連絡ダイヤルのキーを叩いた。


師走の駅前の幅の広い遊歩道に到着した日比野は、血相を変えて逃げてくる群衆の波に逆らうように、指示のあったポイントへ向かった。
人々の群れの向こうでは悲鳴が聞こえ、何か建造物が砕け散る破壊音も響いていた。
人の波をかき分けながらポイントに近づいた日比野は、明らかに人々の流れとは異なる特殊な動きをする男たちがいるのを見逃さなかった。
彼らは闇に溶け込むような暗い衣服に身を包み、自らの気配を消してはいたが、ほんのわずかにただならぬ殺気を宿していた。
日比野は彼らを目で追いながら、襟に着けていた小型マイクに向かってこちらへ向かっている宙倫研の機動部の仲間の全員へ状況を連絡しようとしたが、強い電波の乱れにあって、仲間へは何一つ伝えられなかった。
彼は一番近くにいた機動部の隊員に口頭で状況を伝え、自身はあの暗い服の男たちを追うことにした。
日比野たちは市街に溶け込めるように普段通り、皆、仕事帰りのビジネスマンと同じ背広姿の軽装備だ。
彼らは銃器を持たない。
もし本格的な銃撃戦や戦闘状態になったら、彼らは撤収し、あとは警察や機動隊へ任せることになっている。
あくまでも日比野たちはBプロット(定常異空可動体新亜種)対策に特化した特殊部隊であり、一般の大型犯罪や特殊テロとは一線を画していた。
あの暗い服の者たちがBプロットと関係があるかどうか、見極めなければならない。かといって、この状況に目をつぶり、市民を助けずにそのまま撤収するわけにもいかなかった。
日比野は暗い服の男たちを追った。
彼らは日比野と同じく、パニックになった人々の流れとは逆の方向へ、まるで人と人の間を影法師のようにすり抜けて一本の路地の中に消えていった。
日比野が逆行していた遊歩道は、大方の人々がすでに消えていた。
あとには、先ほどまでの喧騒が嘘のような不気味な静寂が残っていた。
周りを見回すと、壊れた壁と破壊された店舗の破片が煉瓦の石畳に広く散らばっている。
その前におびただしい血溜まりの跡があった。視線を前に進めると、似たような血溜まりが点在し、それは先ほど男たちが消えていった路地の向こうにつながっていた。遊歩道の向こうから逃げ遅れた二人連れが必死の形相でこちらに向かって走ってきた。相馬は二人を呼び止めた。
「いったい何があったんだ?」
大学生位の若者の一人が、真っ青な顔をして震えながら日比野に答えた。
「見なかったんですか?あれはこの世に生きてる生き物なんかじゃない、怪物ですよ、あれは化け物です!」
もう一人の若者も言った。
「あんなものがいるなんて信じられない…。」
「怪物…?」
ちょうどその時、路地の奥からまた何かがドカンと崩れる音が響いた。若者たちは一瞬身を縮めると後ろを振り向きつつ、一目散に駅の方角へ全速力で逃げていった。
日比野は先を急いだ。暗い服の男たちが消えた路地へ入ると、聞いたことのない獣の咆哮が聞こえ、再び何か物が激しく破壊される音が続いた。
日比野は、路地の向こう側を見て息を飲んだ。
「何だ、あれは……?」
その獣はおよそ3メートル、長いたてがみと白銀の体毛を逆立てながら、大きな暗い服の男を一人、ほぼ水平に道の端の壁めがけて吹き飛ばした。耳の脇まで大きく裂けた口には、滴り落ちる血の跡と、真っ赤な舌が蠢き、剣のような大きな牙が青白く輝いていた。白いその巨大な身体の後ろには、長い尾が一本大きな白蛇のようにうねっている。あんな獣はこの世にはいない。まるで夢か幻か、最新の映画を見ているようだと、日比野は思った。しかし、その獣が次の瞬間、鋭い眼差しを周りに向け、大きく叫びながら次なる相手に襲いかかった時、決してこれは幻や夢や映画のワンシーンを見ているのではないと日比野は確信した。
初めて見るが、やはりあいつは異空可動体に間違いない。
その時、獣の太い腕の攻撃から間一髪のところで身をかわした暗い服の男の一人が、日比野の足元近くまで転がり込んできた。
日比野は身を屈め、その男に「大丈夫かっ?怪我はないか?」と声をかけた。
だが、屈強そうなその男の手に銃が握られているのを見ると、相馬はその男の手を強く押さえた。
「止めろっ!銃は使うな…!!」
倒れた男は日比野を睨むと、身体を素早く回転させ、日比野に向かって地面すれすれの位置から足払いをかけてきた。
日比野は反射的に身をかわし、男の足から逃れた。
男のその動きを見て、日比野はかつて彼が戦ったBプロットの事を思い出した。目の前にいる男の動きは、どことなく例のBプロット1574バージョンの戦闘法に似ていたのだ。
暗い服の男は冷たく日比野を見返すと、唇の端にわずかに笑みを宿しながら、音もなく後退し、銃口を獣に向け、有無をも言わずその引き金を引いた。
しかし男が狙ったのは、その獣ではなく、獣の向こう側にいた瑠珈だった。
瑠珈は悲鳴を上げたが、銃弾はわずかに彼女から逸れ、後ろの店のショーウィンドウのガラスを突き破った。
「月乃畝、女は生け捕りにせねば…!」と男の近くにいた別の男が叫んだ。
「ふん、こうなったら生きていようがいまいが関係ない。捕獲せねば結果は変わらぬ!」
とその月乃畝と呼ばれた男がそう言った時だった。
白い獣は軽々と身を翻し、銃を撃った月乃畝に向かって飛びかかっていった。
月乃畝は瞬時にその場から飛び退いた。
獣は月乃畝に逃げられたと分かると、すぐ横にいた仲間の男に襲いかかり、日比野の目の前でその男を太い前足で押さえつけ、男の喉笛にサーベルのような鋭い牙を突き刺した。
男の首から、真っ赤な鮮血がほとばしった。
日比野は全速でその獣の側面へ回り込み、脇腹目がけて持てる力のすべてを使って蹴りを入れた。
獣の身体がそのまま反対側へ回転しながら倒れ込んだ。
獣は大きく吼え、日比野をギロリと見据えた。
だが、自分の背後から響いた銃声を聞くと、獣はくるりと向きを変え、銃を撃った別の男目がけて恐ろしい勢いで走っていった。
「止めろっ!!撃つなっ!」
再び日比野は叫んだが、銃声は鳴り止まなかった。
銃弾は獣の身体に当たっていたが、獣はまったく怯む様子を見せない。
それどころか、銃弾が当たる度に、獣の身体が一回り、二回りと大きくなっていくように見えた。
ちょうど攻撃していた男の銃弾が切れた時、今や4メートル近くに膨れ上がった獣がその男の眼の前まで迫り、前足でブンと軽く男を払い除けた。男の身体は砕けるように地面に叩きつけられた。
獣は次なる獲物を探すように赤い舌をチラチラと蠢かしながら、日比野に目を向けた。
いつでも戦えるよう臨戦態勢を取っている日比野の姿を見つけると、巨大な獣はゆっくりと助走をつけ、まっすぐに彼に向かって走り込んできた。
と、その時だった。
小さなバックと紙袋を抱えた瑠珈が獣の前に走り込んできた。
そして大きな声で、
「やめてっ!このヒトは敵じゃない!!」
と大声で叫んだ。
だが、獣は瑠珈の声にピクリとも耳を貸さず、瑠珈の身を邪魔だとばかり、大きな太い前足で強く振り払った。転がるように倒れた瑠珈を獣は前足で押さえつけ、その首を先ほどの男たち同様、長い大きな白い牙でかみ砕こうとした。
日比野はキッと鋭く獣を見ると、その獣と瑠珈の間に飛び込み、獣の身を掴み全身の力を込めて獣を押し倒そうとした。
だが獣は大型の肉食獣を思わせる俊敏な動きで軽々と日比野の攻撃をかわし体勢を整え、再び倒れている瑠珈に襲いかかった。

――続く――

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