『本日、酉の刻…』

第87話

「大之井君…?」
「近頃、衣が皆緩くなってきたので捨てるという。捨てるのならばと譲り受けた。」
瑠珈は思い出すようにウルカの姿を見上げた。
「そういえば、大之井君、最近随分スマートになった。」
「瑠珈のあの鱗を腰の帯に挟み、持ち歩いていた頃より徐々に体が軽くなるのを感じたという。今は身体を動かすことも苦にならず、平八郎殿の友人の武術道場へ通い始めて以来、衣がみな大き過ぎ、着られぬようになったらしい…。」
「それで最近、ズボンを持ち上げていたんですね。」
と、瑠珈はずり落ちてくるズボンを何度も持ち上げていた大之井の挙動を思い出した。
「私にもかなり大きめではあるが…。」
と、ウルカは腰のベルトに手を挟み入れた。
「それ、スーツっていうんです。上下でお揃いになっているんです。その上に着ているのがコート。内側の白い色のはシャツ。首に巻いているのが、ネクタイ。」
瑠珈がそう説明すると、ウルカは先ほどの戦いで付いた埃を掃いながら、自分の身なりを見下ろした。
「形は異なるが、これらは天正の時代にもあった。瑠珈のいう斜津なる衣は、“襯衣(しんい)”という名で呼ばれていた。」
「“シンイ”…?」
「そう、襯衣だ。当時、葡萄牙(ポルトガル)や西班牙(イスパニア)の国の者が身につけていた。」
「そうか、ウルカのいた時代はとっても国際的だったんですよね。海を越えて大勢の海外の方たちがこの国に来ていて…。西洋のお洋服も場所によっては入って来ていたんですね。」
「しかし、今の時代の襯衣は私にはどうも合わぬ。首の周りが少々きつく、息苦しい。この襟帯もこの時代の男たちはよく皆このように、きつく首に巻き縛り…。」
瑠珈はウルカを見ながら小さく微笑んだ。
「ウルカはいつもゆったりとお着物着ているから…。ネクタイ、大之井君から教わったんですか?よく巻けましたね。」
と、瑠珈はウルカの、ネクタイが綺麗に巻かれた襟元を見上げた。
「…違う。一度、ある者の襟帯を解いたことがあった。それを逆に辿った。」
「一度?!一度解いただけで巻き直せるんですか?」
瑠珈が驚くと、ウルカはネクタイを緩めようと自分の襟元に手を当てた。
「我等の一族とはそういうものだ。一度走った道は二度と忘れぬ。一度入った御殿や屋敷や城の縄張も決して忘れぬ。会った者の顔も必ず覚える。」
そう言いながら、ウルカは襟と首の間に手を入れ、ボタンを外そうとした。しかし、歩きながらネクタイの上からではさすがになかなか外せなかった。
彼が少々困っているのを見て、瑠珈が、
「こっちへ…。」
と道の端へウルカの手を引き、立ち止まった。
そして彼女は背伸びをして、彼のネクタイを緩めた。
「ウルカは本当に優秀な方だったんですね。」
「優れてなどはいない。他と多少違っていただけだ。」
「信長様が欲しがっていたものって…、」
瑠珈は緩めたネクタイの形を整えながら言った。
「きっと…ウルカの、そんな優秀な力だったんですね。人の心を意のままにできるその“力”も。」
ウルカが微かに呼吸を止めたのが、瑠珈にも分かった。
「…それで、ウルカは、そんなウルカ自身を信長様に渡さないために、あんな苦しい思いをして、わざと殺されたんですね。ウルカを雇っていたお殿様も、国をかけてウルカを守ろうとして…。もしかしたら、お殿様は信長様が月出の国に進軍してくることを分かってらして、それで援軍を呼びに行かせるという形で、ウルカを毛利のお殿様の所に逃がそうとされたのではないのでしょうか?でも、ウルカは月出の国が心配で戻ってしまって。その途中で捕らえられて…。以前から不思議に思っていたんです。ウルカほどの優秀な人が、どうしてお城に帰る途中にそんなに簡単に捕まってしまったのかって。もしかしたら、ワザとなんじゃないかなって…。他にも理由があったのかもしれないけれど。信長様がウルカをなかなか殺さなかったのも、最後の最後までウルカのその力が欲しかったから……。」
ウルカは自分の襟元を整えてる瑠珈を優しく見つめ、かすかに目を閉じながら小さく頷いた。
そして、立ち止まったその先に見えている、森の向こうの大きなコンサートホールに目を向けた。
「…確かに毛利の大殿は俺を引き止めてくださった。月出の晴景様からも、月出には決して戻るなと命が出されていた。それを破って、俺は月出の国へ帰った。以前も話したが、月出の国が滅んだのは、援軍を呼びに行った俺の知らせが遅れたからだ。あの時、俺には迷いがあった。それに、歴史はもう少し複雑だ。決して一元では捉えられぬ。大概二元三元と深く絡み合っている。見方によっても大きく変わる。……俺には、俺の事情があった。」
「ウルカの、事情…?」
何の迷いもなく、でも、少し心配そうに見つめる瑠珈を見て、ウルカは温かく微笑んだ。
「…だが、今は交響曲だ。」
ウルカはゆっくりと瑠珈の手を引いた。
「やっと本物の交響曲なる調べを聴くことができる。まもなく始まりの刻限であろう。行こう。」
そう言って彼は瑠珈の手を取り、温かな光でライトアップされたコンサートホールに向かって、軽やかに走り出した。


月日が少し進む。
春休みが始まる少し前だった。
朋子は休みに入れるバイトのスケジュールを手帳に書き込みながら、机の脇のサイドテーブルの上に無造作に置かれた数台の子ども用のモバイルと小型の携帯ゲーム機を見つめた。
あの、月出山の麓の“第六天神社”で鵺の大量の時渡りがあった時に拾ったものだった。
拾った状況が状況だっただけに、瑠珈や坂本と相談し、朋子がその後ずっと預かっていたのだ。
だいたい機種が恐ろしく古そうだった。
メーカーもよく分からない。
もちろん、もう電源も入らなければ、充電の仕方もよく分からず、今の充電器では対応できそうもない。
まるで骨董品のようなモバイルとゲーム機ではあったが、錆がついてガタついているわけではなく、よく使いこまれていて、どれも皆、とても綺麗に磨きあげられていた。
いったいこれらは誰のものなのだろう…、早く持ち主を探さないと…と朋子が思った時だった。
マナーモードのバイブ音が、一台急に鳴り響き、すぐに止まったのだ。
朋子はびっくりして小さく悲鳴を上げ、思わず椅子から立ち上がった。
充電は皆、切れているはずだ。
気味が悪くなって、サイドテーブルの引き出しに全部のモバイルとゲーム機を仕舞おうとそれらに手を触れた時だった。
またもや一台のモバイルがブルブルと震えた。
今度はブルブル音が鳴りやまなかった。
朋子は慌ててその古めかしい一台のモバイルを手に取り、あちこちを見回し、二つ折りになったものを開いて画面を見つめた。
すると、ブルブル音がぴたりと止まった。
だが、やはりどう見てもバッテリーも電源も切れている。
どこのボタンやキーを押しても画面は光らない。
真黒のガラス状の画面に朋子の顔がうっすらと反射しているだけだった。
と、その時、画面の奥に一瞬、青黒い文字のような模様のような暗い光が走ったような気がした。
目の錯覚かと思った。
さすがにこれ以上ヘンなことが起きたら、とりあえず瑠珈と坂本には連絡を入れようと朋子が決心した時だった。
今度は突然、玄関のベルが鳴った。
平日の午後である。来客の予定もなかった。
朋子はモバイルを机の上に置くと、点滅しているインターフォンのモニターを見つめた。
だが、モニター画面には玄関のドアの外側が静かに明るく映っているのみで、人の姿はなかった。
また同じマンションの住人の子どもあたりがいたずらで、いわゆる“ピンポンダッシュ”でもして駆けていったのだろうと、朋子はモニターの画像のスイッチを切った。だが、その瞬間、再びベルが鳴った。
モニターはパッと玄関の外を映し出したが、そこにはやはり誰も映っていなかった。
画面に映らない場所に素早く移動したのかもしれなかったが、今度は玄関の扉がコンコンとノックされる音がドアの外側から直接響いたのだった。
朋子はインターフォンの受話器を取り、怒りを込めた声で、
「はいはいはい、どちら様ですかッ?!」
と聞いた。
しばらくインターフォンは無言だったが、やがて小さな声が響いた。
「…“ロク”が、帰ってこない。」
「ロ…、ロク…?」
朋子は訝し気に繰り返した。
「ロクが帰ってこない、ロクを知らないか…?」
「そうだ、ロクが消えたんだ。」
「ロクがいなくなった…。」
複数の子どもの声だった。
やっぱり小学生のいらずらねと朋子は想い、インターフォンの受話器を置くと、玄関に向かい、そのドアを勢いよく開けた。
ドアのすぐ前の廊下には、五人の小学生くらいの子どもたちが立っていた。
皆、真顔でまっすぐ朋子を見上げている。
どうしてドアの横のインターフォンのモニターにこの子達が映らなかったのかしらと廊下のインターフォンのカメラのレンズをプンプンしながら少し擦ったりとんとんと叩いたりしたものの、すぐに朋子は子どもたちを見回して、ちょっと怖い顔をした。

――続く――


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