『本日、酉の刻…』

第28話

憂流迦が死んで二年が過ぎていた。
あまりにも小さな任務でその宝のような命を失ってしまった。
古き呪禁(じゅごん)の奥儀を継承する呪禁師の長、月乃禰(つきのね)は、一族の知りうるすべての呪禁の術、薬学、妖術、幻術、格闘術、剣術に馬術、そして当時最新鋭の砲術に至るまで、あらゆる知識と技術を彼に伝授していた。憂流迦はそれらの知識と技術と体術をすべて身につけ、幼い頃より月乃禰と共にずっと歩んできた。

月乃禰は彼に、夜空を翔ける彗星の古い呼び名をつけ、大切に育てた。
月乃禰を長とする一族は、血族としての繋がりのない、孤立無援の謎多き集団だった。結束力は強かったが、決して群れることはなく、基本、単独で行動していた。彼らは一切の記録を残さず、すべての技と知識は口伝されていた。
時の戦国武将たちに重用されたその名も無き特殊集団は、一定の土地を持たず、社会の表舞台に立つことは決してなかった。なので、多くの人々はその存在すら知ることはなかった。

その憂流迦が、およそ考えられないほど、あっけなくこの世を去った。
憂流迦が織田軍の兵に捕縛されたという第一報が届いた時も、単純なその知らせに月乃禰は憂流迦の、自分に対するちょっとしたいたずらなのではないかとおよそその報告を信じることができなかった。
何かの誤報であるに違いないと月乃禰は報告を受けた最初の丸一日、屋敷から動くことはなかった。
続報も、その次の第二報も憂流迦捕縛のままで、変化はなかった。
最後に“憂流迦死す”のあり得るはずのない報告を聞いた時も、まだ月乃禰は、慌てて行動を起こす自分を隠れながら見て笑う憂流迦の姿を想像して、その配下の者の報告をにわかに信じることができなかった。
だが、悪い予感は確かにあった。しばらく憂流迦からの“声”が一切届かなくなっていた。そして彼が発する、言葉にできない、何か透明な美しい気配もまた、同じように途絶えて久しかったのだ。気配が消えた。だが、この任務についてからというもの、憂流迦が気配を消すことが頻繁に起こっていた。今回もまたそんな彼の気まぐれのような遊戯であると信じたかった。

この悪い予感が間違いであってほしいと心から願いながら、憂流迦が雇われていたその小さな小国の城下へ月乃禰が向かった時には、そこはすでに火の海だった。

それでも月乃禰は憂流迦の死をこの時まだ信じてはいなかった。過去に何度もこのような戦場を彼は難なく潜り抜けていたのだ。彼の死はあり得ない、だが、もし報告が真実であるならば、一刻も早く動かねばならなかった。死んだ直後であれば、月乃禰の一族に伝わる古き呪禁の中でも奥義中の奥儀、“魂替えの術”をもって、死する者の命を移し替えることができた。しかし、戦乱の夜の城の中から、殺された憂流迦の亡骸を探し出すのは不可能に等しい。

月乃禰は諦めなかった。
燃え盛る炎の城下の真っ只中へ入り、配下の者と共にその亡骸を全力で探した。あるいは、任務を果たし、瞳を輝かせ、風のように帰還する憂流迦が、今回もまた燃え盛る炎の中から自分の元へふいに現れるのではないかと、月乃禰は崩れゆく御殿や燃える櫓の中に何度も踏み込んだ。
そして、累々たる遺体の中から、血にまみれた、以前自分が憂流迦に贈った守り刀を握り持つ、別の遺体を発見したのだった。
これがここにあるということは、憂流迦がもうこの世にはいないということを意味していた。この守り刀を捨てることは、憂流迦にはあり得ない。これは死した憂流迦の身から、何者かが守り刀を奪ったに違いない。奪った者も別の誰かに殺され、その遺体がここにたまたまあったのだ。月乃禰は血に染まった守り刀を握りしめ、この信じられない現実に愕然とした。
そして、心の中で、自分の愛弟子の名を強く呼んだ。

――憂流迦、返事をせよっ!!――

だが、いくら待っても返事はなかった。
月乃禰は迫り来る敵を怒りに任せ、次々に瞬殺しながらも足元に転がる、もはや敵とも味方とも分からない遺体の中から、憂流迦の亡骸を探し回った。
もうもうと火柱を上げる城の中にも入り、飛び散る火の粉を避けることもなく、焼け焦げた遺体の面(おもて)を何体も返し、確かめた。だが、そこにも憂流迦の亡骸はなかった。
そこへ配下の者が、城の西側の虎口の外側、堀向こうの馬出にも遺体の山があることを告げに参った。
月乃禰は飛ぶように走り、西側の馬出へ向かった。目の前に現れる敵を何人も切り倒し、地に転がる遺体を踏み分け、死臭がこもる内堀をかき渡り、馬出に辿り着いた月乃禰がそこで見たものは、屍の山に身を屈め、今まさにその中から一体の血まみれの亡骸を引き出し、それを軽々と抱え上げた大きな男の姿だった。

――おのれっ!!!――

月乃禰は全力で走り、ギラギラと目を光らせて、手に持っていた憂流迦の守り刀をその男の心臓目がけて鋭く投げ打った。
だが、守り刀は憂流迦の亡骸を抱えるその男に接する直前に、青白い透明な光の壁に弾かれカンと反射し、音もなく地面に落ちた。
月乃禰は大刀を抜き、持ちうる最大の力を発揮し、その男の喉笛を斬り裂こうと男目がけて走り寄ったが、またしても大刀が見えない光の壁に弾かれ、その行く手が阻まれた。

月乃禰は大声で叫んだ。
「その者から、手を離せっ!!」
大きな男はその青白い透明な光の壁の向こうから、涼しげな鳶色の瞳を月乃禰に向けた。

男の髪も衣も、得体の知れない風に煽られ、メラメラと逆巻いていた。

――もう、手遅れだ。この者は、死んでいる。――

男の“声”が、直接月乃禰の心の中に響いた。
だが、月乃禰は驚く気配を見せなかった。
月乃禰は当代きっての“妖術”使いでもあった。
この程度の“妖術”ならば、以前より憂流迦との連絡の際に何度も使っていた。
月乃禰は不敵に笑みを浮かべながら、意識を集中させた。

――ならば、なおのこと。その者から手を離せ。そして、今すぐここを立ち去れ…。
ここは我らの世。お前などの幻怪の者の来るところではない。――

そんな月乃禰の、心の中に響く“声”を聞いた男は、鳶色の瞳を明るく輝かせた。

――この時代に、ウルカの他にこのように“ことば”を心で伝え合える者がいるとは……。
だが、残念だが…、ウルカは君の術では甦えらせることはできない…――

“憂流迦”という、自分の愛弟子の名を知っているこの男に、よほど親しい相手でない限り、名はけして伝えないことになっている一族の約束事を憂流迦が軽く破っていたことに月乃禰は強く驚いた。
いや、憂流迦自身が教えたとは決して思えない。幻怪の技を使い、この男が憂流迦の名を勝手に知り得たに過ぎないのだと自分を無理矢理納得させた月乃禰は、再び鳶色の瞳の男を怒りを込めて見つめた。
そんな月乃禰の怒りを知るそぶりも見せず、男は更に月乃禰に向かって言葉を続けた。

――既にウルカが息絶えてふた刻(とき)以上は過ぎている。君の持つその術は、死んで四半刻未満の者に限る。それも万に一より低い成功率だ。
諦めろ……。――

――私から、憂流迦の命だけでなく、亡骸までも奪うつもりかっ!!――

――死後もその者を所有する気なのか……。――

それを聞いた月乃禰はギリリと歯ぎしりをした。

「黙れっ!!!」
月乃禰の髪がぐわりと逆立った。

大刀を抜き放ち水平に構えると、眼を閉じ、何事か口の中で唱えながら、月乃禰は、低い位置から凄まじい勢いで鳶色の瞳の男が発する青白い大気の壁を斬り裂いた。
鳶色の瞳の男は瞬時に身構え、腰の小太刀を抜き、憂流迦の身が双方の刀に当たらぬよう半身をひるがえし、月乃禰の大刀を受けた。

二人の刀から火花が散った。


体勢を整えるため、月乃禰が一瞬憂流迦を抱える男から身を離した時だった。
恐ろしいほどの風が両者の間に吹き乱れ、月乃禰は思わず目を覆った。

そのほんのわずかな時に再び強い透明な大気の壁が生じ、二人を分けた。
鳶色の瞳の男は、しばらく月乃禰をじっと見つめたのち、身をゆっくりと屈め、そっと憂流迦の身体を地面に横たえた。
そして、着ていた衣の上着を一枚脱ぐと、それを憂流迦の身体の上にふわりとかけた。
その姿を見た月乃禰は、説明の出来ない強い怒りがふつふつと胸の奥より湧き上がってくるのを止めることができなかった。
落ち着くのだ、冷静になれ…と自らに言い聞かせても、鼓動は早まり、握った拳がぶるぶると震えた。

――君の怒りは、もっともだ……。――

鳶色の瞳の男の“声”が月乃禰の心の中に響いた。
何もかも見透かしているようなそんな男の口調に、月乃禰は激昂した。
月乃禰は持ちうる自身の力を全力で発揮し、再び青白い透明な大気の壁に刀を叩きつけた。
しかし、何度も何度も斬ろうとしても、その壁を二度と破ることはできなかった。
そうしているうちに、鳶色の瞳の男と憂流迦の身が、霧の中に消えてゆくように薄らいでいった。

「止めろっ!!連れてゆくなっ!!!」

月乃禰は叫んだ。
青白い透明な大気の壁を何度も斬り裂こうとし、そのたびに月乃禰の身体は反対側に強く押し返された。
先ほど、一度だけこの壁を破ることができたのが奇跡だった。

――この壁は、光帷といい、与えられる力と同じ力量を相手に返すように設計されている。
迷いあれば、なおの事、更に強固となる――

と、鳶色の瞳の男の声が響いた。

「私に、迷いなどないっ!!!!」

その時、鈍い音が響き、月乃禰の大刀の切っ先がぽきりと折れた。
折れた刀の切っ先が回転しながら飛び、月乃禰の頬を掠めた。
月乃禰の頬に血が滲んだ。

――続く――


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