『本日、酉の刻…』

第97話

この河原に降り立った瞬間、ウルカの心に深い寂寥の想いがよぎった。
それは訓練されたウルカでも、おのれ自身では決して拭い去ることはできない、もっとも強い悲しい感情だった。
その心の揺らめきを鵺の長兄が見逃すはずがない。
鵺の術は強力だ。
心の底に沈みこんでいる僅かな澱みを救い上げ、捕らえ惑わす。
不安や欲望や真の思いを形として、その者の目の前や心の内に曝け出し、そこに生まれた“隙”と“弱点”を鋭利に攻めるのだ。
これは実はウルカも“生前”、よく応用していた。ウルカの養父月之禰がもっとも得意とした技のひとつだ。
だが、それはその養父の師であり、古き友人であった果心居士が養父に伝授した幻惑のわざと聞いている。その果心こそ、いにしえの時代において鵺たちと肝胆相照らす仲だったのだ。
――行けぬか…。――
ウルカは珍しく額の汗を拭った。
「今更気づいても遅いぞ。もう我が術からは逃れられぬ。」
その“声”もすでにかつてのあるじ晴景の声そのものだった。
この鵺の長兄は鵺たちの中でもきっと最も敵や相手の記憶や心から、戦いに有用な記憶の断片を収集する力と才に長けているのだろう。
晴景はウルカにとって最も深く尊敬し、敬愛してやまない存在だった。
おのれの弱点がここまですぐに見抜かれるとは…。
鵺の変化(へんげ)の術であると分かっていながら、ウルカの心に強い迷いが走った。
「お前も古き呪禁(じゅごん)の継受に組みする者ならば、もっと早く気づくべきだったな。我が槍は晴景からの遺恨の刃と思うがいい!!」
「殿は決してそのようには仰せにならぬ。殿は生きろと言われ、私を城から逃(のが)したのだ。お前は殿ではない。ただの鵺の変化の術にすぎぬ!」
槍の切っ先を小太刀の峰で返しながら、ウルカは叫んだ。
だが、動揺し、太刀筋が大きく乱れたせいで鵺の槍頭が一気に胸近くまで迫った。
寸での所で身をひるがえしたが、河原の砂利に足を取られ切っ先が胸を掠めた。
ウルカの衣の片身頃が大きく裂けた。ウルカはぐっと歯を食いしばり、強い痛みに耐え、懸命に小太刀を振るった。だが、その短い刀身が晴景の姿の鵺に届くことはなく、虚しく空を切り、ウルカはそのまま砂利の上に倒れ込んだ。
“晴景”はウルカを見下ろしながら冷ややかに笑った。
「先ほどお前が弟に使った技は私には通じぬぞ。それに今回は、お前の動揺が手に取るように伝わってくるわ!」
そう言いながら、晴景は光の槍を構えた。
ウルカはそんな“晴景”をキッと鋭く見上げた。
「殺せぬ相手には、殺せぬなりの戦い方があるというものだ。どうだ、お前は決して晴景には刃は向けられぬだろう。これは我が心だ!思い知れっ!」
“晴景”の振り上げた光の槍の切っ先がギラリと光り、地に倒れたウルカの心臓近くの胸を深く突いた。ウルカが苦痛の声を上げると、“晴景”は槍を引き抜き、
「次は外さぬ!とどめだっ!!」
と叫び、ウルカの心臓をまっすぐに突いた。
……突いた、かのようにみえた。
だが、その切っ先はウルカの心臓の真上でぴたりと止まった。
“晴景”の姿の鵺は、何度も槍を持つ手に力を込めたが、どうしてもその先が動かせなかった。
「…おのれ、図ったな…。」
と、“晴景”はギリリと強く歯ぎしりをした。
ウルカは痛みに耐えながら答えた。
「……そうだ、私が殿に敵意を抱くはずはない。今、お前には私の胸の内がはっきりと見えるはずだ…。」
「うぬぅ……。」
鵺の“晴景”は、声にならない唸り声をあげた。
「我らが敵の憎悪に相対し戦意が生まれ、敵意無き者を攻撃できぬことをお前は知ってて、ここへ誘い込んだか…!」
「突きたければ突け。私は逃げぬ。そなたの言う通り、元凶は紛れもなくこの私だ。月出の国も月出の殿も私は見殺しにした。そなたたち一族も、他の同郷の生き物たちも、故郷に帰れぬようになったのは私のせいだ。」
「あのイヌイとやらを守るために、何故そこまで…。」
ウルカはそれには答えず言葉を続けた。
「そなたの末の弟が我が養父によって捕らえられたのも、私を天正四年の時代へ引き戻すための虜囚だ。私は、その養父の誘いに乗り、天正の時代へ戻り、必ずそなたの末弟を救い出す。そなたたちの大刀と共に、そなたの元に連れて参る。」
“晴景”の怒りの表情が僅かに解けた。
「私は決して偽りは申さぬ…。」
しばらくの沈黙のあと、仁王のように立っていた“晴景”がぐわりと背を丸め、その背の中からムクムクと黒い大きな鳥の姿をした鵺の長兄が現れた。
「あの太刀は、元々お前の物だ…。」
と、鵺の長兄は、冷たいが穏やかな口調でそう言った。
「他意がないことを我に知らせるために、ここまでしたのか…。」
「普段であれば、難なくこちらの思いが伝わるはずの相手に、互いの憎悪や怒りに心が覆われ、真の思いが伝わらぬというのは、誠に骨が折れる。」
そう言って、ウルカは血の流れる胸の傷を押さえながらゆっくりと半身を起こした。
そして、痛みを堪えながら鵺を見上げ、微かに笑った。
「一之介と言ったか。そなたは強い…。接近戦においては近隣のこの銀河空域では鵺の一族の右に出る者はおらぬだろう。」
「…敵に褒められても嬉しくはない。」
そう鵺は無表情に言ったが、手に持っていた光の槍を控え目にくるりと手元で回した。
「もっとも、そなたたち鵺より好戦的で、感情に歯止めのきかぬ生き物たちは、戦(いくさ)好き故にこの銀河空域ではとっくの昔にすべて滅びてしまったのだがな。辛うじて生き延びているこの星の我ら“ヒト”にも、そなたたちのように争いを止める無意識の約束事が、身体の血の流れの中に生まれながらに備わっておればなぁ…。」
ウルカは軽く咳をし、胸の傷を押さえた。
「この星の我ら“ヒト”は、いまだ危うい綱渡りをしている。この時代の先よりあと数千年に及び、まだまだ不安定な状況が続く。滅びの道を何度も見てきた。」
ウルカのその言葉を聞くと、鵺の長兄はすっと光の槍を手元から消した。
「我ら?もうお前はヒトを捨てたのだ…。別の生きもののことなど、何も心配せずともよいだろう…。」
するとウルカは、大きく呼吸をしながら、ゆっくりと答えた。
「いや、ヒトは誰もが今でも誠に面白き、愛おしき存在だ。」
「お前もイヌイに似て、実に変わった者よの。」
鵺の長兄はばさりと翼を払い、翼に着いた埃や塵を払いながら言った。
「…そう、何巡りかの時渡りの、いつの事か忘れたが、この時代より数万年前であろうか…。我らもヒトどもと随分派手にやり合ったことがある。上空よりこの槍を雨のように何万も浴びせかけたが、あやつらはびくともせず、逆に楽し気に高度な投石器などを使い、我らを蹴散らすこともあった。絶滅させては母星よりきつくとがめを受けるので、ほどほどにしたが、お前たちの先祖には実に手を焼いた。おかげでこちらも無駄な争いを避けるための身を隠す術(すべ)の研究が随分と進んだものだがな…。」
「絶滅されなくてよかった。おかげでこの身がここにある。」
彼はそう言い、小太刀に身を委ねながらゆっくりと立ち上がった。血の流れる胸の傷を押さえながら立ち上がったウルカの姿を見て、長兄が嘴をフンと鳴らした。
「傷はなかなか癒えぬぞ。我らの槍には、“時極”を狂わす強い毒が塗ってある。」
と、鵺が言った。
ウルカはそれでも力を振りしぼり、鵺に精悍な眼差しを向けた。
「前回、月出山の上空で肩先を掠めた。その時も殊の外、難儀した。私は薬学に関してはこの星域において一通りの知識は持っているが、鵺一族の扱う毒に関しては未だ昭然たる解毒の方法が解析できない。我ら“ヒト”は生命分子化学の分野においても、何千年、いや何万年たっても鵺の技術と知識には足元にも及ばぬだろう。」
鵺は再び一度ウルカを見つめると大きく翼をばさりと打ち広げ、暗い夜空に飛びあがった。
上空で鵺の長兄は姿を消しながら、ウルカの心に直接語りかけてきた。
――以前、“ヒト”のむすめに今のお前とまったく同じようなことを言われた。ふた心無き、極めて稀な面白きむすめだったので、父上への手土産にしようと思ったのだが、寸での所でお前に拐われた。確かに“あれ”は、太刀より遥かに楽しかろうな……――
そして、鵺は夜空から消えた。
ウルカは鵺の気配が消えると、再びよろめくように膝をつき、激しく咳き込みながら、夜の河原の砂利の上へ仰向けに倒れ込んだ。
荒く呼吸をしながら、咳と共に唇から溢れた血を拭うと胸の傷を押さえ、光帷を張った。
そして彼はゆっくりと目を閉じた。
しばらくして、ウルカは傷を押さえていない手で、そのてのひらが触れている河原の細かい砂利を掴むと、目を開き、暗い夜空を見上げた。
彼はそこに握った手をかざし、その砂利をそのままばらばらと指の間から落とした。
砂利はウルカの首や傷ついた身体の上にサラサラと落ちたが、彼はそれを払うことなく、再び、ゆっくりと目を閉じた。
――この小石の間には、殿の血が沁み込んでいる。――
と彼は静かに祈った。
「殿、憂流迦は生きておりまする…。」
そう彼は言うと、目をしっかり開き、天を見上げた。
彼はそののち力を込めて身体を起こし、膝をつき、ゆっくりと立ち上がった。
彼の身体は傷だらけであったが、その瞳には力が漲っていた。ウルカは一歩足を踏み出した。胸の傷を右手で押さえながら、彼はふと、以前雪の夜空を瑠珈と飛んでいた時、彼女が銃で撃たれた傷の跡をそっと暖かい手で押さえてくれた時のことを思い出した。
そして懐から笄を取り出すと、それを力強く上空へ投げ上げた。笄は唸りを上げ、大きく弧を描き夜の天空へ消えていった。
ウルカはそれを見ながら、
――天正四年へ!――
と、心の中で叫んだ。その直後、ウルカの全身を青白い光が包み込み、彼の姿は夜の河原の上から消え去ったのだった。

――続く――


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