『本日、酉の刻…』

第44話

その時、獣の動きがふと止まった。
太い前足で瑠珈を地面に押さえながら、獣はピクリとその尖った耳を動かした。
その瞬間、路地の建物と建物の間の群青色の空からもの凄い勢いで降ってくるものがあった。
――どけっ!!――
鋭く日比野の心の中に、一度だけ聞いたことのあるあの男の声が響いた。
日比野は反射的に獣から素早く離れた。
獣が太い首を上に向けたと同時に、大きな翅を瞬時に消しながら降下したウルカが、その獣の首を真横から捉え、全身の体重をかけ白い巨体を地面にぐきりと抑え込んだ。獣は前足を折るように上半身をねじ伏せられ、叫び声を上げた。
「瑠珈っ!!」
とウルカは倒れている瑠珈に呼びかけた。
獣の腕から逃れた瑠珈はゆっくりと身体を起こし震えながら、獣を押さえつけているウルカの姿を見上げた。
「ウルカ……。」と瑠珈は小さく彼の名を呼んだ。
反応のあった瑠珈の姿を見て、ウルカは少し表情を和らげた。
だが、その時、獣は自分を拘束している者のわずかな隙を見逃さなかった。
獣は後ろ足のカギのように尖った爪で、ウルカの脇腹に一撃を加えた。ウルカの灰墨色の衣服が鋭く裂け、彼の引き締まった腹筋に四本の爪跡が大きくついた。
ウルカはくっと息をつめ、獣から手を離した。獣もその反動でウルカから身体を離した。
彼は素早く、倒れていた瑠珈の身を引き寄せた。
「大事はないか……?」
ウルカは瑠珈をまっすぐに見ながら言った。
「あたしは平気…。でも、ウルカ、怪我が…。」
「これしきの傷はかすり傷だ、すぐに治る。」
ウルカはそう言うと、瑠珈を安心させるためにわずかに笑った。
「ウルカ、無為が…。あたし、ここから逃げるためにダメ元で、前みたいに“乗りうるもの”を想像したの。なのに“馬”は現れてくれないで、あれが出てきて…。」
「瑠珈を守るために現れたが、うまく命(めい)が伝わっていない…。」
「あたしを守るために……?」
「呪(しゅ)も弱い、何をしてよいか、分かっていないんだ。」
「どうしたらいいの?あの獣、もう何人も人を傷つけている…。」
「傷つけているかどうかは、分からない…。」
「…え?」
瑠珈は、瑪瑙のようにメラメラと瞳を燃やしながらゆっくりと間合いを取っているその巨大な獣を恐ろし気に見た。
ウルカは小さく頷くと、瑠珈からそっと手を離し、天を仰ぎ、手にした短刀の柄の中からあの光の粒、無為の足跡をすべて撒いた。
そして鋭く、
――朧丸ッ!!――
と心の声で叫んだ。
瑠珈が発生させたその巨大な白い獣は、二・三歩後ろへ下がり、今にもウルカに向かって飛びかかろうとしていた。だが、それより早く、瑠珈たちと巨大な獣との間に、あのウルカの美しい半透明の馬が出現し、すぐに灰色の地に白の斑紋がくっきりと現れ、恐ろしいスピードで実体化していった。
しかし、その姿は以前の馬の姿になった瞬間に、見る見る別の形に変容していった。
全身の雪のようなまだら模様が瀑の身体のように鱗状に変化し、頭には一本の長く鋭い角も生え、背のたてがみは地に着くほどうねりながらたなびき、五色の燐光を放っていた。
口には鋭い鈍色の牙が何本も見え、瞳はギラギラと輝き、敵の獣を捉えている。全身は以前の倍。5メートル程の大きさになり、逞しい四本の足の先の蹄の後ろには、大きなかぎ爪が何本も生えていた。
「ゆけ……。」
とウルカが低く言うと、朧丸は大きく嘶き、目の前の巨大な獣に向かって真っすぐに突進していった。
「お、朧丸が……。あたしの知ってる朧丸じゃない……。」
瑠珈は猛然と巨大な獣に立ち向かう、五色のたてがみを燃えるように逆立てた朧丸を見て言った。
すると「あれが本来の姿だ。私の愛馬だ…。」
とウルカが答えた。
二匹の巨大な獣は、狭い路地の壁や建物にぶち当たり、大きな破壊音を轟かせた。
ウルカはすぐ傍にいた日比野に向かって言った。
「日比野、お前のあるじはこの場を既に閉ざしたか…。」
日比野は、自分の名前を突然呼ばれてドキリとしたが、すぐに冷静に思考を巡らせた。
「通常ならば、一時間以内に封鎖をかける。半径1キロ圏内ならば完全封鎖が可能だ。」
「…約半刻(はんとき)。それでは遅い。お前の配下は…。」
と、ウルカは一呼吸置くと、一瞬目を閉じ、
「四人か…。四人であの暗き衣の者どもの残りの六人を捕らえることは可能か。」
すると日比野は襟のマイクの調子を見、イヤホンに手を当てた。
「電波がアウトしている。皆と連絡が取れない。電磁波を発生させて電波を乱しているのはお前だろう…?今すぐこの電波環境を何とかしろ!」
更に彼は胸の内ポケットに入れてあったスマホを取り出し、そのキーを何回か叩いたが反応がないことが分かると荒々しくポケットに仕舞った。
するとウルカは日比野にまっすぐに近づき、
「敵の通信情報網を断絶させるのは基本中の基本だ。あの獣の姿の記録が撮られて拡散されたらどうなる。もしそれが嫌ならば何か別の手段か、より強い電波とやらを探れ。この数百年で何が最も変わったかといえば、お前たちの通信手段に対する感性だ。何ゆえそのような手段に唯一頼っている?四百年前のこの国の者は、十里四方であれば瞬時に伝令を伝えたものだ。」
と言い放った。
「狼煙や矢文でも使えと言っているのか?!」
日比野は少し声を荒らげた。
「火も起こせなければ、矢も射れぬ身で何を言うか……。」
とこれも珍しく、ウルカは、日比野に向かってかすかに蔑むような眼差しを向けた。
どどうと大きな破壊音が響き、近くの建物の一角に、朧丸に跳ね飛ばされた獣の巨体がぶち当たった。
もうもうと立ち上がる粉塵の中から獣は飛び出し、朧丸の喉笛めざしてぐわりと大きく口を開け、突き進んできた。朧丸は長い一本角をまっすぐにその獣に向けた。獣は瞬時に危険を察し、辛うじて朧丸の鋭い角から逃れた。
「しかし、そなたは時に随分と大形なものをこしらえたな…。」
ウルカはわずかに苦笑しながら瑠珈に向かって言った。
あの獣の形や姿はどこかで見たような気がする…と瑠珈は思ったけれど、その時はまったく思い出せなかった。
「…あ、あたしは以前のように“乗りうるもの”を思い描いただけなのに。気がついたら、あれが突然現れて…。」
「だから無為は難しいと言っただろう…。確かにあれは“乗りうるもの”ではあるが、あれを乗りこなすのは朧丸より遥かに困難だ。そなたはあれが何だか分かっていて出現させたのか……?」
「え…?」
「あれは烈氷だ。」
「レッピョウ……。」
「縄張り意識がとても強い。たとえ影であっても無為は本物の性質を忠実に再現する。それより本物が黙っていないだろう。」
「本物…?あの、どういうことでしょうか…?」
瑠珈が不思議そうにウルカに訊ねた。
「鏡に映ったおのれの姿と気づかずに虚像に向かって戦いを挑んでいる生きものの姿を見たことがないか…?」
瑠珈は以前テレビの自然番組で見た、何かの鳥が車のドアミラーに向かって盛んに体当たりをしたり突いたりしている映像を思い出した。
「それと同じことだ。無為が変容した姿を感じ、まもなく極地より本物がやってくる。」
ウルカはそう言うと、振り返り、日比野に向かって瑠珈をそっと押しやった。
「日比野、この者を預ける。よいか!決してあの暗き衣の者どもに指一本触れさせるな…!もし触れさせたとあらば、ただではおかぬ。」
「ウルカ…。」
瑠珈はウルカを見上げながら思わずストールを握りしめた。
「案ずるな、日比野は強い。私はそなたの“乗りうるもの”を鎮め、時渡りを促して参る。日比野たちの一刻の封鎖を待つには時間が足りぬ。街の中より彼らを離そう。」
ウルカはそう言い、二匹の獣たちにキッと視線を戻した。
そして大刀の鞘から笄を取り出すと、そのうちの一本を美しいサイドスローで暗い夜空に向かって投げ上げた。すると朧丸がその笄を追うように急に方向を変え、ふわりと建物の屋上へとジャンプした。白い大きな獣も唸り声を上げ、朧丸の後を追うようにガリガリと建物の壁に鋭い爪を立て軽々と昇って行った。
ウルカは瑠珈の頭をそっと撫ぜると、そのまま彼女から離れ、走りながら翅を広げ、タンと地を蹴った。
青白い光がウルカの全身を覆った。
と同時に彼の姿がふわりと視界から消えた。
光帷を張ったウルカの姿を、もう追うことはできなかった。
遠ざかる翅音だけが夢のように瑠珈の耳に残った。

暗い夜空に消えたウルカの飛影を、瑠珈はしばらく目を凝らして見つめていた。
――そういえば、今はちょうど戌の刻を少し過ぎた時分。ウルカはちゃんと戌の刻に自分に会いに来てくれようとしていたのかも…――
確かにウルカは、今まで約束を破ったり嘘をついたりすることは一度もなかった。
そんな瑠珈のそばで辺りを鋭く覗っていた日比野は、1574バージョンが言っていた“暗き衣の者たち”がいつでも飛び出してきてもいいように身構えていた。
「お嬢さん、走れるか…。」
日比野は周りを見ながら瑠珈に言った。
瑠珈はその時初めて、一見普通のビジネスマンにしか見えないその男を見上げた。
「あなたは…。」
「日比野だ…。以前あいつに見事なアッパーをここに決められた。」
と日比野は自分の右顎をそっと撫ぜた。
「アッパー…。」
瑠珈は先日、幻日の中から堕射が流れ墜ちてきてウルカたちの痕跡と彼ら自身を探りに来た時、ウルカが唇の縁に血を滲ませて帰ってきた時のことを思い出した。
もしかしたらこのヒトがあの時、ウルカと闘った相手かもしれないと瑠珈は瞬時に感じた。
ビジネスマンのようではあったが、よく見るとそのヒトはとてもバランスの良い身体つきをしていた。決して筋肉質ではない体形だ。だが本能的な俊敏さを感じる身体の動かし方だった。そして何よりも周りを落ちついて素早く見回す姿がどことなくウルカに似ていた。彼はとても冷静な目の動きをしていた。
「あなたも、以前ウルカに会ったことがあるんですね。ウルカの事を知っているんですね。」
瑠珈は思い切って日比野に訊ねてみた。日比野は少しの間、瑠珈の事を見つめていた。
「あのBプロットの名は、ウルカというのか…。」
と日比野は言った。
「Bプロット……。」
瑠珈は初めて聞くその言葉を繰り返した。
「俺はおそらく、その“ウルカ”に以前命を救われたのかもしれない…。」
日比野は先日オフィスへ向かう直前に、空に現れた数千にも及ぶ不気味な光る触手の姿を思い出した。
「だが、悪いが、あまり詳しいことは俺の口からは話せないんだ。」
「あの…、彼は、過去から、天正四年から、この時代にやってきたのではないのですか…?」
「天正四年…。」
「そうです。戦国時代の、1576年。織田信長が安土城を作り始めた年です。」
日比野は瑠珈を見ながら寂しそうに少し笑った。
「…毛利軍が織田の水軍を摂津木津川口で最初に破った年だ。天王寺砦の戦いもあった。築城の名手藤堂高虎がのちの豊臣秀吉、当時の羽柴秀吉の弟秀長に会い家臣になった年でもある。俺もあいつのおかげで天正四年には随分と詳しくなった…。」
「じゃあ、やっぱり彼はあの時代からタイムトリップしてきた、過去からの旅人なんですね…。」
「過去からの旅人か……。」
そこで日比野は言葉を少し切った。
「もしあいつがそんな生優しい存在だったら、どんなに良かっただろう…。」
瑠珈は日比野の姿を見て少し迷った。
このヒトはウルカの敵なのだろうか?でもウルカはこのヒトを完全な敵のように扱ってはいなかった。
実際先ほどの月乃畝と名乗った男に比べ、このヒトには敵意も怨恨も殺気のようなものも一切感じられない。
「じゃあ、少しだけ話そう。確かルカさんといったか、さっきあいつが君のことをそう呼んでいた。」
日比野は肩の辺りを少しほぐすように軽く回しながら言った。
「さっきの巨大な獣を見ただろう。そしてあのBプロットだ。翅で空を飛び、突風を巻き起こし、恐ろしいほどの身体能力を持っている。あいつが本気で戦っている姿を、ルカさんは見たことがあるか…?」
「あ、はい。本気…かどうかは分かりませんが、一度だけ…。カラスのお化けからあたしを助けてくれて。」
「そうか。あいつの他にあのタイプがもう一体いるんだ。」
「イヌイ…さん?」
「君は、イヌイの事も知っているのか?」
日比野は少し驚いたようだった。
「えぇ、昨日お会いしました。」
「そうか、あいつらはそこまで君と接触していたのか…。とにかくだ、そのイヌイというBプロットもめちゃくちゃ強い。そして大事なことは2人とも決して死なないんだ。」
「死なない…?ウルカとイヌイさんが。」
「そうだ。それに今日俺が初めて見たあのでっかい獣たちだ。ウルカやイヌイやあのでっかい獣たちの存在がもし公けになったら、どうなると思う?特に他国に知られたら、何が起こる…?」
瑠珈は少し考えて、日比野の顔を見上げた。
「国際…問題?」
「簡単に言えばそうだ。あの獣を含めて、あいつたちは恐ろしい能力を持った兵器にもなりうる。何でそんな恐ろしいものを“所有”しているんだとこの国に強い不信感を持ち、様々な手段を用いて彼らの秘密や技術を暴こうとする者も現れるだろう。だから何としても彼らの存在を、一般の市民や他国から隠さなければならない。それが、俺たちの主な目的の一つだ。」
「人々の目から彼らを隠す…。」
「俺たちは彼らの存在の謎を解き明かすと共に、彼らの存在が決して公けにならないようにするために、時に武力の行使も許されている公的組織だ。」
「そんなところがあったんですね…。」
日比野は少し足を上下に動かすと、ゆっくりと周りを見回した。
「そうやって彼らの存在を隠し、人々の記憶や記録から消すことが、おそらく結局は自分たちの命を守ることにつながっていたんだろうな。」
「それは…、どういうことでしょうか?」
片方の腕の肘をもう片方の腕で押さえながらストレッチした日比野は、背後にゆっくりと振り返りながら言った。
「およそ440年前の過去からの攻撃を、くい止めるためにだ…。」
日比野の視線の向こうには暗い服の男たちが数人、音もなく佇んでいた。
日比野は男たちと瑠珈の間に静かに立った。
「敵は440年前のこの国の歴史の中に潜んでいる。…それがこの者たちをルカさんに差し向けた張本人だ。」

――続く――

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