『本日、酉の刻…』

第46話

その時だった。瑠珈と月乃畝との間に戦車のように割り込む者がいた。
「彼女から離れろ!!」
その場にやっと追いついた日比野が言い、月乃畝の前に立ちふさがった。
月乃畝は瞬時に身構えたが、相手が日比野だと分かると緊張を解き、冷ややかな視線を彼に向けた。
「なんだ、あいつではないのか、やれやれ、ここにもまた、愚かな男が一人おったぞ…。」
「黙れ!お前のせいで何が起こったと思っているんだ…!」
日比野が月乃畝を前に臨戦態勢を取った。月乃畝は肩に積もった雪を掃い、そっと後方へ下がった。
「怒りをぶつける相手をお前は間違えている。我々は“何も”していない。むしろ“被害者”だ。」
月乃畝はまたくくくと不気味な笑い声を上げた。
「私の手下が何人倒されたと思っているんだ。警察に突き出すのなら、そのむすめの方だ。」
「もしそれを言うのなら、被害者の暴力だ。どういう仕組みか今は分からないが、けしかけたのはお前たちだろう。本来何もなければ、あの巨大な獣のような異空可動体は突然こんな町中に出現はしない!」
月乃畝は再び、足元の血溜まりに視線を向けた。
「可哀想なお前たちよ、この上我らは罪をなすりつけられたぞ。」
日比野は瑠珈をかばいながら、怪我人が出たのは確かに間違いないのだ…と僅かに迷った。
その一瞬の隙を月乃畝は見逃さなかった。
月乃畝はふわりと音もなく日比野の死角に回り込み、瑠珈の身をぐいと引き寄せた。瑠珈は悲鳴を上げた。
「止めろっ!!」
日比野は叫んだ。
月乃畝は不気味は笑みを浮かべると、瑠珈の腕を引き、その場から去ろうとした。
「戦利品だ。このむすめがいればきっと時渡りもできる。このむすめを餌にあの化けものも釣りあげられる。まさに一石二鳥だ。」
甲高い笑い声を高らかに月乃畝が上げた時だった。
どどうともの凄い疾風が吹き、あたりの雪が一斉に渦巻いた。
月乃畝は目を爛々と輝かせて、上空を見つめた。
強い風と共にウルカが急降下してきた。
その手には、すでに鞘から抜かれた鈍色に輝く大刀が抜かれている。
「やっと現れたな…。」
月乃畝は言い、上着の内側から銃を取り出し、銃口を瑠珈のこめかみに向けた。

「待っていたぞ、この時が来るのを…。」
月乃畝は喜びを隠し切れない興奮した表情で、瑠珈の手を引き、後ろに下がりながら、目の前に降り立つウルカを見つめた。
ウルカは地上に着地すると同時に、音もなく雪の付いた翅を消した。
翅に付いていた雪が、消えてゆく翅の形通りに、はらはらとウルカの周りに静かに落ちた。
「その者から手を離せ…。」
と、彼は月乃畝に言った。
それを聞いた月乃畝は、嬉しそうに瑠珈の腕を握る手に一層力を込めた。
瑠珈が苦痛に小さく声を上げると、ウルカの全身に青白い燐光がぼうっと灯った。
——聞こえなかったのか。その不浄なる手を、瑠珈から離せ…!!——
強い“声”だった。その“声”は日比野にも、瑠珈にも強く深く響いた。
「不浄?汚れた手なら、このむすめの方だ。お前の“瑠珈”があの獣を用いて、私の可愛い手下を何人殺したと思っているんだ。」
ウルカが鋭い眼差しを向けながら、じわりと月乃畝ににじり寄った。
近寄られた月乃畝は、同じ距離を保つように後ろに後退していった。
少し離れた所から、日比野はそんな彼らを見つめることしかできなかった。
「何を言うか…。この時代の者たちの目は誑かせても、私の目は欺けぬ。」
と、ウルカは低く言った。
そして、足元近くにあった、例の血溜まりを足の先でつと触わり、
「これは……、幻影だ。」
と、続けた。
月乃畝の眉がピクリと動いた。
「あの獣は無為が化身した姿だ。烈氷は見る者の心に反応し、その者の恐怖や想いに合わせ、時に幻影も見せる。見ろ。この血溜まりは、雪の上に広がっている。獣がお前の配下を倒したのは、雪が降る以前だ。そののちに降った雪は血溜まりを隠しているはずだ。このように雪の上にあるのはおかしいではないか。この血溜まりは、おのれの配下が倒された場所に、お前がそれぞれ残した“呪(しゅ)”にすぎぬ…。」
月乃畝は、くくくと再び奇妙な声で笑った。そんな月乃畝に向かって、ウルカはキッと鋭く見据えた。
「瑠珈の作った獣は強い。その獣が見せた幻影を良いことに、その幻がもちいた人々の怖れを、お前が再び使い回しただけだ。」
その途端、ウルカの足元にあった大きな黒い血溜まりが、シュンと音を立てるように綺麗に消えた。日比野も驚き、少し遠くにあった血溜まりを目で探したが、やはりそこからもその跡は消えていた。
「お前の配下の者たちを、瑠珈の獣が少しは踏みつけ、または投げ飛ばしたやもしれぬが、一人たりとも死んではいない。あの獣は、瑠珈が造った“乗りうるもの”だ。瑠珈には人を殺める弱き心もなければ、狂気もない。無為はそれをよく分かっている。強い冷気と共にその場にいた者たちに幻を見せ、自らに向かってきた者にも瞬時に術をかけ眠らせる。それが本物の烈氷の力だからだ。」
僅かに静寂な時が流れた。
風が強く吹き、雪が乱れ飛んだ。
月乃畝は、天から無限に降ってくる雪を見上げ、そのひとひらを手に取った。
すると同時に、月乃畝の手のひらについていた黒い血糊がふわりと消えた。瑠珈の頬に付いていた赤黒い血の痕も、瞬時に消えて無くなった。
「…その通りだ。お前の言う通り、我が手下は一人も死んではいない…。気を失った者と、少々擦り傷を負った者がいたが、それらも含めて、先ほど動ける手下にすべて回収させた。ウルカよ、お前の“目”は古き先祖の記憶通り、誠に大したものだ。我が術をすべて見破るとはなぁ。」
ウルカは静かに呼吸をすると、すっと大刀を水平に構えた。
それを見た月乃畝は、瑠珈に向けていた銃口に力を入れた。
「闇の時の流れを生みし剣。お前の存在も、その幻の妖刀も、半分以上信じていなかったが、その伝説の剣をこの目で見られるとは思ってもいなかったぞ…。」
月乃畝はうっとりと、ウルカと彼が握るその大刀を見つめながら瑠珈を楯に少しづつ後退していった。
「言い伝えでは化けものの鱗片より作られた剣だと聞く。虚数時間をその刃の切っ先より生じさせ、時を逆流させることで時の摩擦が生じ、質量を持った物質はすべて瞬時に融解し、空間は一瞬にして揮発し、虚数空間へ跳ね飛ばされる。お前の友人のイヌイとやらは随分と物騒なモノをこの時代に持ち込んでくれたじゃないか。」
それを聞いたウルカは月乃畝ににじり寄りながら、大刀をすっと下方に向けた。
「それは少々異なっている。この剣は、“時”は逆流させていない。」
ウルカは静かに言った。
「イヌイの持つ技術ならば、虚数空間を操る術もあるだろうが、私の大刀は時を僅かに静止させているだけだ。空間を斬り裂くことに必要な時空による摩擦の熱量は、それだけで十分だ。」
「ほぉ、伝説が間違っていたという訳か…。」
月乃畝は驚いたように目を見開いた。
「そのような高次の力を無駄に使わぬ。お前もそうだが、この星の者たちは私たちを過大に捉えることを好む。異星人がすべて計り知れない力で虫けらを潰すようにおのれの文化や国を消し散らすと思うのは、異文化との接触に慣れてはいない、この星の者たちがもっとも陥りやすい思考の悪癖だ。」
「ふん、悪癖だとどうして言い切れる?現にお前の友人は数千年前よりこの国に潜伏し…」
「潜伏し…?」
「営利を貪り…」
「営利を……?」
ウルカは、冷ややかな笑みを見せた。
「営利?イヌイのどこに営利の貪りがあるというのだ?彼ほど欲のない者を私は見たことがない。彼らの存在を利用し、むやみに怖れを増幅させ、恐怖と憎悪、対立を煽り、営利を貪っているのはお前たちの方ではないか。」
「黙れ!永遠の命と引き替えに異星人に身を売った者のことばなど、誰が聞くか…!」
にわかに、ウルカの髪がふわりと逆立った。
彼の身の周りに再び青白い燐光が輝いた。すると月乃畝は、瑠珈を自身の身に引き寄せた。
「お前がその妖刀を振りかざしたら、このむすめがどうなるか分かっているな…!」
「よく分かっている…。それは、お前が倒れる時だ。」
そう言って、ウルカは音もなくたんと地面を蹴った。

姿を消さずに強い光帷を瞬時に張ったウルカは、風のように月乃畝の元に迫った。
月乃畝は反射的に銃口をウルカの方へ向け、引き金を引いた。
だが、弾丸はことごとくウルカの身の手前で弾き返され、月乃畝の足元近くの地面に突き刺さった。
月乃畝は弾丸を避けるために、よろけるように後ろへ下がり、瑠珈の腕を強く引いた。瑠珈は思わず身を伏せた。その引き離されたわずかな隙に光帷を解いたウルカは低い位置から入り込み、大刀の刃を素早く身の向きへ外側に返し、剣の柄で月乃畝の顎と喉の間を強く突いた。
月乃畝は声にならないうめき声を上げ、のけ反るように後方へ倒れた。
一緒に倒れかけた瑠珈の身を、ウルカはすくい止めた。瑠珈から手を離した月乃畝は、転がるように地面に倒れ、顎を押さえながらウルカと瑠珈に再び銃口を向け、弾丸を放った。瑠珈を守るように彼女の前に立ったウルカの身に銃弾が突き刺さった。
瑠珈は息を飲み、立ち尽くした。痛みをこらえながら身を崩したウルカに彼女が駆け寄ろうとすると、ウルカは瑠珈に視線を向けず、そっと制した。
彼は見る見る治っていく傷口を押さえることもせず、完全に怯え狼狽える月乃畝に鬼神のように近づき、大刀を大きく振るうと、その刃の切っ先をまっすぐ月乃畝の喉元に突き立てた。
突き立てたように、見えた。
だが、刃は、その喉元の一寸(約3センチ)手前で止まっていた。
「二度と、瑠珈に手を出すな……。次は、命がないと思え。」
ウルカは低くそう言い、ゆっくりと身を起こし、静かに大刀を鞘に戻し月乃畝から離れた。
だが、月乃畝は暗い瞳のまま、冷ややかに笑った。
「やはり…、お前は甘い。その甘さも、先祖の言い伝え通りだ…。」
そう言った月乃畝は、再び銃口をまっすぐにウルカに向けた。
その時だった。
猛烈な吹雪が頭上に立ち起こり、恐ろしく強い風が月乃畝に向かって一気に吹き荒んだ。
「な、何だ、これはっ…?!」
と、月乃畝が夜空を仰いだ時だった。
瑠珈も暗い空を見上げ、何かが来ると反射的に感じ、ウルカのそばへ走っていった。
ウルカは両手を広げ瑠珈を抱き寄せ、そのまま後方へ飛び退いた。そして瞬時に半透明のその大きな四翅を広げ、その翅で自らと瑠珈の身を覆った。
耳をつんざく轟音がその場に満ちた。日比野も上空を見つめ、素早くその場から退避した。
瑠珈は耳を塞ぎ、吹き荒れる吹雪の上空を見上げた。
あまりにもの轟音と、強い冷気に瑠珈は意識を失いかけた。
ウルカの翅を透かして遠のく意識の中で彼女が最後に見たものは、暗い夜の高い空から、自分たちの上に落ちてくる、大きな白い影だった。

——続く——

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