『本日、酉の刻…』

第85話

「遅くなっちゃった……。」
チケットに記載されている開演時間が迫っていた。
瑠珈はウルカから貰ったストールを抑えながら走っていた。
コンサートホールまでの道のりは、まだ随分とある。
今日は休日なので図書館のバイトはきっかり5時まで。
それから職場を飛び出し、電車に飛び乗り、ホールのある駅へ向かったが、何故か開演時間を30分ほど間違えて記憶していた。
ウルカとの待ち合わせの時刻には完全に遅刻だ。
戌の刻、ホール敷地へ入る大門の前。
そこが約束の場所だった。
スマホで検索すると、どうやら大門までの近道がある。
繁華街は夕暮れ時で大変な人混みではあったが、瑠珈はそこを突っ切ることにした。

年が明けて大学の講義が始まって一か月。
瑠珈は思い切ってウルカを近くの都市で開催されたクラシックのコンサートに誘ってみた。
クラシックと聞いてウルカは少し興味を持ってくれたようだ。
彼は相変わらず不思議な存在だった。
天正四年という過去の日本の時代から現在のこの時代にやってきたことは間違いない。
けれど、ウルカはまったくの過去の人間という訳ではなく、その時代に生まれ育っただけであって、死んで甦ったのちには、おそらくその後、この星の様々な時代に旅をしている。
そして彼が再び甦ったのは、この地球という星ではなく、彼の友人のイヌイの故郷の遠く遠く離れた、おそらく時空さえも異なる別の惑星なのだ。
その星の技術や知識もある程度彼には備わっていて、彼は何も語らないが、およそ瑠珈が想像できない沢山の異星人や生きものたちと交流をしてきたのかもしれなかった。あの透明な、巨大なバッファローのような煽たちのように…。
彼が何のためらいもなく、カラスや他の生きものたちに“語りかける”のも、そう言った様々な経験や、元々彼が持っている、他の生きものに対して分け隔てななく接する柔らかな不思議な感性からかもしれない。
現代に生きる瑠珈にとって天正時代からやってきたそんな彼は、若干ややこしいこともあったが、それはむしろ彼女には心躍ることも沢山あった。歴史のことは中学や高校で習った年表くらいのことしか分からないが、彼のことをひとつひとつ理解し、分かりあえた時の喜びはひとしおだった。彼と出会った時に落雷のように感じた胸の高鳴りは、今も彼に会うたびにずっと続いていた。

「初めてのデートで遅刻なんて、最悪…。」
と、瑠珈は小さく呟きながら、すっかり日の落ちた繁華街を人混みをかき分けながらひた走っていた。
そう言えばと、瑠珈は学校が始まって真っ先に会いに来てくれた坂本と大之井の話を思い出した。
彼らは冬休みの間に奈良の大学の研究所に住んでいる(!?)彼ら歴史研究同好会の名誉顧問、新吹教授に会いに行ったのだった。
だが、肝心の歴研のリーフレットの写真にあった白虎柄の銅鏡は、
「新吹教授の手元にはなかったんだ。」
と、坂本がとても残念そうに言った。
「でも変なこと言ってたなぁ、なぁ、大之井。」
「…うん。」
坂本と一緒にやってきた大之井が、やけにぶかぶかになったズボンをずり上げながら言った。
「今回は気分がいいから戻ってこないとか、何とか。」
「気分がいい?」
瑠珈が困惑すると、
「うん。銅鏡がね…。」
と、大之井もちょっと困ったように答えた。
「…なんて言ったかなぁ、確か…、宇宙倫理研究所の職員に貸したって。」
「宇宙倫理研究所?」
そう瑠珈が繰り返すと、大之井が思い出したように言った。
「宙倫研ってさ、昨年の暮れに周辺で突然ダウンバーストが起こって被害を受けたところだよね。すぐに復旧工事が始まったからあっという間に元通りになったっていう。」
――ダウンバースト…?――
聞き慣れない言葉だった。
「急激な下降気流が起こって、一種のでっかい竜巻みたいな状態になるというか、風速50メートルとかの風が急に発生して、まぁ、普通の家だったら簡単に飛んで行っちゃうらしいよ。宙倫研はダウンバーストの中心から少しだけズレていたから、外壁がちょっと剥がれるくらいで済んだらしいけれど、周辺の地域は屋根瓦が飛ぶとか、家が飛ぶとか、車が飛ぶとか、電信柱が倒れるとか、街路樹が吹き飛ばされるとか、色々あったみたいだよ。」
坂本がその時のニュース記事をスマホに開いて示しながら瑠珈に教えた。
「そ、そうなんだ。びっくりだね!!」
と瑠珈はさも初めて知ったようにぎごちなく驚いた。
「…って、これってウルカさんだよね。」
と、大之井が言った。
「へ?」
瑠珈は笑顔を小さく強張らせた。
「こんなことが急に起きるってそうそうないよ。それに周りがそんなに被害が出てるのに、宙倫研だけ無傷ってのもちょっと不自然だし。望月助けた時にいたよな、風起こすでっかい透明なバッファロー。」
坂本がそう言うと大之井も感慨深げに言葉を返した。
「宙倫研に、何かあったんだろうなぁ。きっと。」
坂本がスマホの画面を閉じながら言った。その頃は、と瑠珈は思い出した。ウルカが大之井家へ瀑の子を預け、数日間姿を見せなかった時期だ。そのあとウルカはイヌイと共に具合の悪くなった瑠珈の自宅へ会いに来てくれたのだった。もしかしたら、宙倫研とイヌイとは何か関連があったのかもしれない。
「じゃあ、坂本君、白虎柄の銅鏡は今はその宙倫研にあるのね。」
「それが、新吹教授の話だと、その場所だとうまく研究ができないから、宙倫研の職員が考古学の研究施設が整っているうちの県の県立博物館へ持ちこんだそうだよ。しかも常設展示の許可を教授が出したから、せっかくの貴重な銅鏡だし、多くの人が見られるようにって、研究を進めながら県立博物館で展示するのを条件にしたんだって。」
「え?じゃあ、天正時代の特別展のメイン会場のあの県立博物館に、同時に常設展の方には白虎柄の銅鏡もあるのね?」
瑠珈は坂本から以前見せてもらった歴研のリーフレットの表紙をまざまざと思い出した。
「…そういうことになるね。」
「そう思うと、確かに何だかタイミングが良すぎるよな…。」
坂本が小さく首を捻りながら言った。
「あの決して錆びない白虎柄の銅鏡が、天正時代の特別展を開催する県立博物館に持ち込まれるなんて。何かありそうだよな。」
「うん、ウルカもその天正時代の特別展は何かの罠じゃないかって。」
瑠珈は思い出すようにそう言った。
「罠…?」
「うん……。」
ちょっと暗い表情をした瑠珈をそっと見ながら、珍しく明るく大之井が言った
「そういえば、じいちゃんが面白いこと言っていたよ!」
大之井が再びずり落ちたズボンを元に戻しながら言った。
「琵琶湖の辺の街ですごいものが見つかったって。杖術仲間の古武術の古い友人から教えてもらったって言ってた。その物が何だかまだ分からないんだけどね。でもね、何やら天正時代と関わりのある物らしいんだ。まだマスコミにも発表されてないけれど、剣術仲間には話題になっているんだって。」
「何だろうな、それって。考古学的にはちょっとワクワクする流れだよな。」
坂本が目をキラキラさせながら言った。
「やっぱり行こうぜ、特別展。俺たち教授から特別展の招待券貰ったんだ。特別展まもなく始まるし、楽しみだな。葛城さんも行こうぜ。」
そう言って彼は、教授から貰ったという特別展の招待券を瑠珈に掲げて見せた。
「実はあたしも特別展の招待券、持ってるんだ。図書館の上司から貰ったの。」
「そうなんだ、だったらぜひ葛城さんも来るといいよ。望月さんも誘おうよ、きっと喜んで行こうって言うよ。何なら、ウルカさんも誘って。そしたら罠だとしても怖いものなしだよ。」
そう言ったのは大之井だった。大之井は言いながら、少しだけ目を伏せ足元を見つめた。
「そ、そうだね。ありがとう、歴研の皆さん。」
これがひと月ほど前のことだった。

そんなことをぼんやりと思い出しながら、夕暮れの雑踏をかき分け走っていたのが悪かった。
瑠珈は思わず、すれ違おうとした大柄の男にぶつかってしまった。
「ご、ごめんなさいっ!」
と、瑠珈はすぐに謝ったが、その大柄の男は瑠珈の腕をぐいと掴んだ。
「ヒトにぶつかりながらその言い草はなんだ?馬鹿にしているのか?!」
と大柄男は怒鳴った。
見回すと周りには大柄男に仲間もいるようだった。
一瞬あの例の暗い服の男たちの仲間かと思ったが、彼らとは明らかに身体の作りと動かし方が違う。
男たちは何か良くないことでもあったのか、みんなとてもイライラしていた。
「すみません。急いでいて。」
「なんだ、それでも誤ってるつもりか?!」
「ほんとーに急いでいるんです!ごめんなさい!」
瑠珈は大柄男たちを見上げてぺこりと頭は下げたものの、男たちを決して恐れようとはしなかった。
それが癪に障ったのか、大柄男はますます激昂した。
「ふざけやがって!!」
と、男は瑠珈の手を強く引いた。
「離してください!そんなことをすれば、誰もが言うことを聞くと思っているんですか?」」
と瑠珈は男をキッと睨んで言った。
すると大柄男はますます顔を真っ赤にして瑠珈のストールを思いっきり引っ張り、彼女に殴りかかろうと腕を大きく振り上げた。
瑠珈は思わず目をつぶった。
つぶったが、衝撃は何も起こらなかった。
恐る恐る目を開けると、長身の男が大柄男の振り上げた腕をしっかりと掴んでいた。
ゆっくりと振り仰いだ瑠珈は、そこに立つ男を見て言った。
「ウルカ……?」

「何だ、貴様、この女の知り合いか…?」
大柄男がギロリとウルカを見据えた。
「……その者から、手を離せ。」
ウルカは静かに言った。
「その布に触るな…。」
大柄男はウルカを睨みつけた。
現代の姿をしているウルカを見るのは、瑠珈はこの時が初めてだった。
初めて見る黒のスーツとコートをウルカはさらりと着こなしていた。
「この俺に命令するとはいい度胸だ。」
と、大柄男は冷たく笑いながら、視線を一端地面に落すと突然瑠珈から手を離し、彼女を突き飛ばした。
地面に転がりながら瑠珈はハッとしてウルカを見上げた。
彼の眼がギラリと光ったのが瑠珈にも見えた。そのウルカに挑みかかっていく大柄男を止めようと瑠珈は身を起こし手を伸ばしたが、間に合わなかった。
「ウルカッ!駄目ッ!!!」
瑠珈は鋭く叫んだ。
――案ずるな、加減はする。――
と、瑠珈の心にウルカの“声”が響いた。

「加減も何も、暴力は駄目ーーッ!」
彼女は続けて叫んだが、瑠珈が見ていられないと両手で目を覆う間もなく、ウルカは恐ろしい勢いで動いていた。彼は突進してきた大柄男の拳を素早く身を伏せ左の肘で払った。
払った瞬間、ウルカは男の鳩尾に鋭く深く自身の右の拳を沈めていた。
瑠珈にはウルカの動きが速すぎていったい彼が何をしたのかまったく分からなかったが、大柄男は声にならないブグゥという唸り声を上げ、身をくの字に曲げた。
そこにウルカが男に足払いをかけると、大柄男は道路の上にどうっと倒れ込んだ。
その頃になるとさすがに道行く人々も何事が起こったのかと、足を止め始めた。
大柄男の仲間たちは驚き、男を助けながら口々にウルカに向かって罵り言葉を吐き、一斉に立ち向かってきた。ウルカは周囲を素早く見回し、次にやってきた男を、瑠珈が見たこともない技で地面に叩きのめした。
続いて飛びかかってきた相手には、最初の一撃をひらりとかわし、男の腕を掴んだと思うと、それをぐるりと捻り上げ、背後から男の首をぐいと絞めた。するとその男は人形のように一瞬でぐったりとし、白目をむいてその場に崩れ落ちた。
その直後、叫びながらまっすぐに突進してきた別の男がウルカに全身でタックルをしてきた。
ウルカは男と一緒に道路の上に倒れ込みながら地面の上を回転し、男が下になった瞬間に男の喉の脇を強く突いた。男はもんどりうち、泡を吹いて動かなくなった。
片膝を立てそのままゆっくり立ちあがったウルカに、仲間の男たちが更に取り囲んできた。
「まだ続けるか…。」
ウルカは微かに目を輝かせ、冷ややかに笑った。
男たちは怒号を上げて襲いかかってきた。
3人がかりで突っ込んできた男たちは、ウルカの身体をそのまま近くの建物の壁に突き飛ばした。
建物の前に積まれていた荷物がウルカの身体に当たり、ガラガラと激しく音を立てて崩れた。
遠巻きに見ていた人々も一斉に悲鳴を上げた。
ほんの一瞬静寂の時が流れた。
男たちは互いに目を合わせると、懐の中から刃渡りのある刃物を取り出した。
男たちの手に光る物を見たウルカの身体から、暗い殺気が立ち昇った。
彼は身を起こし、視線を男たちに留めたまま、反射的に左腰に手を当てたが、そこに剣がないことが分かるとそのまま視線は変えず、ゆっくりと立ち上がった。

――続く――


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