『本日、酉の刻…』

第29話

迂闊だった。
休暇のつもりで与えた任務だった。
いったいこの二年の間に、何があったのか、月乃禰が知る由もなかった。
憂流迦が雇われていたその国は月出の国と呼ばれ、毛利家を宗主とする小さな国だった。
主要な街道や海からも離れていた山間の浅い盆地のその国は、いにしえの時代より隕鉄の産出を生業とし、豊富な清流により小国ながらも田畑は潤い、民は皆慎ましく、その山間の盆地に身を寄せ合って朗らかに暮らしていた。
ただ、数年前よりその地に妖(あやかし)出現の噂が流れた。
国主の居城の上空に幾たびか光線が出現し、乾(北西)の方向へ立ち昇ったとの奇怪な話が、都まで伝わったのだ。禍(わざわい)の予感を感じた国主の月出晴景は、宗主の毛利家に使いを出した。
憂流迦はその宗主毛利家を通じ、月出城の妖究明のために雇われたのだった。
同じ頃、着々と領地を拡大させていた織田信長は、何の変哲もなく、交通の要所でもないその小国に食指を伸ばした。
信長と敵対する毛利家の同盟国であった月出城主は、信長の侵攻とある申し出を拒み、信長軍と対峙することとなった。元々軍備は多くはない月出国だったが、国を守る武士集団は鉄の結束力を持ち、けして弱くはなかった。月出城は土地の形状が自然の要塞として適していたこともあり、籠城戦となれば、一万の軍勢が攻めて来たとしても、ふた月は落城することはないと、多くの諸国から一目を置かれていた。
ところが、信長の侵攻は矢のように早かった。
信長は配下に命を下し、何かに取り憑かれたように数万の軍勢を月出城へ差し向けた。
篤く月出の領主から信頼を受けていた憂流迦は、密命を受け、信長侵攻の知らせと同時に、既に敵軍に包囲されていた月出城下を脱出し、援軍要請のために同盟国の所領へと向かった。
憂流迦が無事毛利家の居城に到着し、国主晴景の書状を届けたとの知らせまでは月乃禰も知るところだった。
知らせによると憂流迦は晴景の命により、宗主国の毛利家の居城へそのまま留まることになるだろうと聞き及んでいた。
ところが何かの間違いがあったようだ。
援軍はなかなか動かず、月出城の籠城は絶体絶命を迎えていた。
そんな中、毛利家の居城へ留まるはずの憂流迦は晴景の命を破り、戦乱の月出城へと引き返したのだった。憂流迦の死の知らせが月乃禰に届いたのは、それから間もなくのことであった。



月乃禰は、揺らめく透明な大気の層の向こうの憂流迦の亡骸の前に跪くその男に向かって、静かに呼びかけた。
――我が一族のその奥儀には古い言い伝えが残っている。
“魂替えの術”は呪禁(じゅごん)の中でも最大の奥儀である。
もし、“魂替えの術”をもって死者の魂を新たな肉体と共に甦えらせる者あらば、その国が滅びるであろうと…。そのようにしてこの術がむやみに行われぬよう、古人が禁忌とし、その術に強き“呪(しゅ)”をかけたのだ。――
霞みゆく姿のまま、その男は顔を上げ、鳶色の瞳を月乃禰に向けた。
――そのようだな。古き予言通り、この国は滅びた。だから、君の望みのままに、ウルカは甦るだろう。――
――何たることを。一国の国に住まう領民の命を犠牲にしてまで、憂流迦をこの世から奪おうとするのか――
男は憂流迦の身に被せた自らの衣をそっと直した。
――ウルカに名をつけたのは、君だろう。“憂流迦”の名の元となる言葉がこの国に伝えられたのは、いつ頃だったか、君は知っているか……?――
――遥かいにしえの時代だ。今よりおよそ九百年程前、天文、暦学と共にこの国に伝わった言葉だ――
――君が持っている呪禁の術がこの国に伝わったのもその時代だ。
私が、我が故郷より戻る前にウルカがもし命を落とすことがあったならば、その密儀である魂替えの術を使って、万に一つの確率でも君たちに彼の命をつないでもらおうと思っていた。君たちの技術の成熟にはおよそ千年の時が必要だった。その時より、ウルカの運命は決まっていたんだ。
そして私はやはり、今回もまた間に合わなかった…。
君たちも、彼を救うことはできなかった。何よりも、ウルカがそれを、死を、望んでいた、私を守るために……。――
男のその言葉を聞くと、怒りのこもった眼差しを男に向け、切っ先の折れた大刀を月乃禰は大地にぐさりと突き刺した。
「…幻怪の者の分際で何を言うか…!運命など、運命など、この私がこの太刀で切り裂いてくれるわ!!」
青白い透明な大気の壁の向こうで、霞のように消えゆく男は月乃禰の言葉には答えず、ゆっくりと立ち上がり、すっと上空を見つめた。
男の背後にぐわりと青白い光が発光したかと思うと、その背に甲虫の裏翅を思わせる透明な翼がふわりと広がった。
男の背の翅が唸りを上げるのが聞こえた。男はタンと地を蹴った。


月乃禰が男と憂流迦を見たのは、それが最後だった。透明な大気の層が消えた時、目の前の遺体の山のそばからは男も憂流迦も消えていた。
その時、ガラガラと轟音が響き渡った。
月乃禰が振り返ると、火柱を上げていた月出城が今まさに崩壊する瞬間だった。
月乃禰は折れた大刀を地面から引き抜いた。
足元にはあの憂流迦に贈った守り刀が落ちていたが、彼はそれを拾うことなく、頬についた血を拭い、長い衣をバサリとひるがえし、炎の月出城を背後にその場を後にした。
途中、配下の者たちと合流した月乃禰は、その者たちに声をかけた。
「織田の軍勢の月出城侵攻について早急に調べよ。そして脱出したであろう月出晴景殿の行方を追え。それを手土産に織田殿に下る。屋敷へ戻り、堕射を目覚めさせる準備をする。すぐに動け…。」
配下の者は無言で頭を下げると、すぐに散り散りに消えた。


それが二年前のことだった。眩しく輝く天守から視線を元に戻すと、堕射の入った胸元の襟の合わせを整え、月乃禰は歩き出した。
憂流迦が雇われていた当時の主の宗主、毛利家と対峙していた織田家の配下に下るのはそう難しいことではなかった。戦国の世である。どの国も人手不足だった。ひとたび戦があれば二百三百の足軽の命が軽く消える時代だった。
足軽もさることながら、有能な人材は強国に集まるため、新進気鋭の国々では特に優秀な人材ほど不足が深刻だった。月乃禰は憂流迦奪還のためにはどんな犠牲も厭わない覚悟があった。利害が一致していることが分かると、信長は喜んで月乃禰を迎え入れた。“手土産”もことのほか喜んだ。
信長は当代きっての合理主義者だった。情には篤かったが、余計な感情のもつれを嫌い、素早い決断力と、自らに有利となるものはどんな方法を使っても手に入れる貪欲さがあった。

月乃禰は控えの者に声をかけた。
「鷹狩に行く…。支度をし、馬を用意せよ。」
堕射の魂を隼に乗せ、空を翔けさせ、少しでも元気にさせたかった。堕射は速度を好んだ。馬では足りなかった。少なくとも隼か大鷹が獲物に向かって空中から急速に落下する速度でないと精気が蘇らなかった。おそらく本来はもっと高速の、計り知れない速度のモノに憑く“生き物”に違いない。懐の中に仕舞ってあるこの複雑で精巧な文様の入った銅鏡はあくまでも仮の姿なのだろう。
自分と憂流迦をつなぐものは、もはやこの月乃禰の一族に代々伝わる一枚の銅鏡と、そこに憑いている不思議な異怪の生き物のみとなった。

思い起こせば、憂流迦は自分が二十年の年月を重ね習得した、堕射に自らの魂を憑依させる術をわずか一年足らずで身につけていた。それをまず奇怪と思うべきであった。
彼は生まれる遥か以前より、すでに幻怪の者の寵児として、その資質を秘めるための血統と世代間における経験に磨きがかけられ、どこか天空の彼方からその誕生を今か今かと何百年も待ちわびられてきたのだろう。
物は試しとやらせてみた一族の奥儀のすべてを、まるで砂の中に水が染み込むように憂流迦はすべて習得していった。
月乃禰は憂流迦の才能と、高い身体能力と、何事にも冷徹なまでに完成された仕事の姿に魅了され、玉のように愛しんだ。
その憂流迦が目の前から消えてのちの二年、月乃禰は憂流迦の痕跡をありとあらゆる方法で探し求めた。
それがつい先日のことだった。にわかに大きな時渡りの気配を感じた。大量の無為が都より十里ほど離れた地に立ち降りたのだった。月乃禰はついに待ち望んでいた時がやってきたと矢のように駆けた。
ここ二年、かすかではあるが、わずかに彼らの気配を感じる時があった。
知りうる限りの国々に使いを出し、配下の者を走らせ、罠を張った。
遠くの小国や猟師、地侍や獣に至るまで思いつくすべての手段を講じ、それらしき動きがあれば即、実行に移した。だが罠はすべて失敗に終わった。彼らは風のように出現し、そして湖水に残る風紋のように、過ぎ去った後には一切の痕跡を残さずに消えるのだった。
そんな憂流迦の気配を求めて、月乃禰はこの歳月を抜け殻のように生きてきた。
もし、あの時憂流迦の亡骸を持ち去ったあの男の言葉を信じるならば、憂流迦はいずこの地、いずこの時代で甦っているはずだった。そして、まるでそんな憂流迦をいつか探し出すことができるように、いったいいつの時代、どのような機会があって月乃禰の一族がそれを手に入れたのか分からないが、堕射という時を渡る生きものが月乃禰の一族と共にあったのだ。
そもそもそんな理由や原因など、月乃禰達には一切関心がなかった。目の前にそのものが“在る”ということの方が大切なのだ。それに堕射はその“使い方”が必要でない者にとってはただの一片の屑鉄、ただの一枚の“鏡”でしかなかった。
月乃禰が生きる時代では時渡りを理解する者は稀で、更には実際に時渡りをする者と直接向かい合っている人間は極めてわずかだった。説明したとしても世迷言、奇異なる現象、神隠しなどと同じような扱いで、誰一人、信じる者はいなかった。加えて、信じぬように、様々な証拠を隠滅し、あるいは架空の状態を起こし、蜚語を流し、月乃禰の一族は世間に暮らす人々がそれらを信じないように仕向けていたのだった。


そしてこの日、待ち望んでいたことが起こった。大量の無為が時渡りをしてきたのだ。
この時代に現れた大量の無為は、おそらく何らかの事情で憂流迦が使ったものに違いない。無為が現れた場所と時刻を確認した月乃禰は、すぐさま安土城へ戻り、彼がその城の地下深くに作ることを願い出て完成させた祈祷の場へ籠ったのだった。
そして片時も身から離すことのなかった堕射の魂を、そっとその地の底の深い泉の中に放ったのだった。光をまったく感じさせないその仄暗い泉の中に沈んだ堕射の魂は、その月乃禰の持つ銅鏡の滑らかな鏡面に複雑な文字のような暗い文様を輝かせると、水中のただ中から無数の光る太い紐状の光を発生させ、全体にぐわりと放出した。月乃禰はそれを確認すると、その氷のように冷たい泉に向かって目を閉じ、想念を集中させた。
――堕射よ、無為の足跡を辿れ……。――
すると堕射はその万とも千とも見える光の紐を暗黒の泉の底目がけて、一気に伸ばしていった。光は底に向かうにつれ淡くなり、泉の上からはもはやその先を捉えることはできなかった。
堕射の本体はこの泉の底の地下の水源から広がる無数の水脈の中に潜んでいた。月乃禰もその巨大な本体のすべてを見たとこはなかった。

結果は、先ほど彼のあるじ、信長に伝えた通りだ。
堕射は無限に広がる水脈の中より時渡りをし、その本体をこの時代に残したまま、数千の触手を先ほど渡ってきた無為たちの足跡を器用に辿り、四百年以上の時を越えて、その先端を無為たちが渡る前の“時”に出現させたのだった。月乃禰は堕射の時渡りが成功したことを確認すると、強く憂流迦の存在を念じた。
堕射は時渡りの先の時代で可能な限り、触手を伸ばし、憂流迦と、彼の痕跡を探した。たとえそれがヒト以外の記憶であっても、月乃禰が思う憂流迦の情報と型が合うものであれば、堕射は無感情にそれらを拾い集めるのだった。
そして今日、やっと月乃禰は生きている憂流迦そのものの魂に出会った。姿は見ることは叶わなかったが、生きていたころと寸分も変わらぬ、瑞々しく、そして強靭で、決して負けることのない信念を持つ、あの美しい意志の持ち主、彼が愛して止まなかった、かけがえのない命がそこにはあった。
彼の身を連れ去ったあの幻怪の者が言っていた通り、憂流迦はしっかりと別の世で甦っていた。

狩り場に着くと、月乃禰は配下の者が差し出した一羽の立派な隼の頭にそっと手を触れた。
もう一方の手は懐の中の堕射が宿る銅鏡に触れていた。
堕射の魂は月乃禰を通し、その隼の魂と交流し、回路を作った。これによって堕射は一時的に隼の魂と交信ができる。
隼は何度もこの仕事をこなしたことがあるのだろう。まったく嫌がるそぶりは見せず、大空に飛び立つ時を今か今かと待ち望んでいた。
「さぁ、好きなように飛んで参れ!!」
月乃禰は左腕からその隼をバッと放った。
隼は見る間に空高く舞い上がり、美しい円を上空で何回か描いたかと思うと、恐ろしいほどの速さで遠くに見える丘を越えていった。
「よいのですか?あのように…、遠くまで飛んで行ってしまいました…。」
配下の者が心配そうに隼の飛跡を見つめた。
だが、月乃禰は清々しい表情で同じ飛跡に視線を合わせた。
「よい…。思う存分、翔けさせよ。さすれば、そののち我が腕に必ず戻って参る。」
そして月乃禰は隼が越えた遠い丘の稜線を長いことずっと見つめていたのだった。

――続く――

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?