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月の姫への激情、僕がロアとなる日(月姫Rネタバレあり感想)

※このnoteは『月姫 -a piece of blue glass moon- 』のネタバレを存分に含みます。ご注意ください。


 空瑠璃です。月姫Rのネタバレ解禁にもなってもう数週間が経つ。運がいいのか悪いのか月姫を完走した直後から忙しくなって、ようやくnoteを書く時間が取れるようになった今はだいぶ時期を過ぎてしまった気がするけど、それでもこんなものは書きたいときに書くのが正解だろう。ただ前回既にネタバレを伏せた状態での感想文は書いたが、正直言ってしまえばあれの焼きましというか、伏せてた部分をそのまま出すだけなのだけれど。

 そして今回はただひたすらに、アルクェイドルートについて語り散らす。月姫全体としての感想や、裏側についてなどは別に書こうと思う。なんでこんなことをするのかってのは単純な話で、俺がアルクェイドに心をめちゃくちゃにされてどうにもならないからだ。今回はただただアルクェイドについて語りたい。そんなリビドーだけで突っ走るnoteだけど、月姫Rクリア済みの友人諸君らについてはまぁ……いいか。偶然にも気まぐれでこのnote界隈の片隅のこんなトコロに来てしまった人には、まっとうな記事ではなくてごめんなさい。たぶんちゃんとしたリビドーも十分な悲鳴込みの『感想文』が読みたいなら、ジスロマック氏のnoteとか素晴らしいと思うのでお勧めです。圧倒的に文章書きなれてる人の文章は読みやすいよね。他の記事も読み応えあるので是非。


 まずは改めてになるんだけど、月姫Rを作ってくれた人たちへ。そして何より奈須きのこへ。この奇跡とすら思える月光の下の出逢いに、僕の一生の思い出として満月のように輝き続けてくれるこの光に心からの感謝を。本当に、ありがとうございました。

 語りたい感想は本当にあれもこれもあって、太陽光ギロチン→地盤ギロチン→ウルトラマンアルクのこととか、パスタに宇宙猫志貴にアル美とか、月の裏側の話とか、ノエル先生ルートを今からでも作ってくれとか。でもその中でやっぱりアルクェイドルートへの感情が強すぎるというか、感想の7割位をアルクェイドへの感情が占めている。それこそ作品のテキスト分量でいったら1/3くらいだろうけど、ただただアルクェイドに狂ってしまった。今ではあの神学者の気持ちがわかるような気がするし、羨ましくもある。


・『旅の終わり』は美しくも

 アルクェイドルート、というか月姫での一番のシーンはというと、それはやっぱり志貴の想いを聞いて夜の街をアルクェイドが駆ける『旅の終わり』だと僕は思う。いつもアルクに憎まれ口ばかり叩いてばかりな志貴の、心からの思いの丈を受け止めるアルク。千年の旅路の果てに辿り着く“ハッピーエンド”。生命線のアレンジを背に、誰に見せるでもない笑顔で、夜を駆ける稲妻。ただひたすらに美しくて悲しい姿。あの姿が、ずっと目に焼き付いて離れないままだ。

 しかし彼らは互いが互いにどうしようもなく思いやりすぎて、相手のために自らを犠牲にしようとする。どっちも空っぽだったから、2人とも同じ感情を縁にわかりあえた。お互いの内側に、空洞を満たすものを見出した。その煌めきに、眼球から心臓まで灼かれてしまった。ここから僕がどういう傷を負ったか、彼らをどう見たかをひたすらに語ろう。


・伽藍堂の彼ら

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 遠野志貴は、空虚を諦めた人間だった。『死の線』が見えるようになったことで、彼の世界はひっくり返ってしまった。ある意味では彼は世界の本当の姿を正しく認識できてしまうだけだが、殆どの人間が認識できないのが“普通”であるならば、彼はいくら正しく見えても“異常者”の枠組みでしか世界に存在できない。そしてあまつさえ、その世界へ干渉することまでできてしまう。全うな人間としての理解では耐えきれない“正しさ”だ。同じく『死の線』が見える両儀式という人物もいるが、彼女は肉体がそれに耐えうるものであり、また俯瞰して眺めることで視界に折り合いをつけることができている。元がほとんどただの人間の体では、そこまでの達観は無理な話だ。

 彼はシエル……エレイシアに後にこう語っている。

『俺はどうしようもない人間で、実のところ、感謝することはたくさんあったけど、楽しいと思える時はなかったんです。』

 例え視界を優しい偽りの魔法で覆うとも、彼にとって生は常に死を纏う存在でしかなかった。痛覚を拒絶された少女が真っ当な痛み生の実感を得られないように、彼は楽しみや喜びを知識として持っていても、実感を伴うことはきっとなかったんだろう。

 真っ当な視界も、人生も、名前も、それを疑う余裕すらも全て奪われて、それでもきっと『生きているだけで素晴らしい』なんて夢を信じ続けていた。……なんて強さだろう。たとえ自らが実感できなくても、自分には遠いものだとわかっていて、それでなおそんな当たり前の輝きを信じられるなんて。幸せになる権利だって、それを実感できずに怒りに身を任せることだって許されるだろうに、それでも彼はそのままであり続けられた。あまりに、あんまりに眩しすぎる。

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 アルクェイドは空っぽの姫だった。ただ役割を担わされた道具であり、兵器として必要なもの以外は全て剥奪された。彼女は奪われたまま生を受けた生き物だった。

 自我がありながら、その時代に応じた知識も与えられながら、本来なら得られる当たり前は全て他人事でしかない。善悪すら与えられなかったのだから、たとえ神学者に図られずとも彼女が過ちを犯すのは必然だったんだろう。空っぽであることすら気付けず、彼女は自らの罪を、ロアを追い続けた。


 2人は互いに空っぽで、およそ楽しみや幸福なんてものとは無縁で、出逢いですら呪われた血の定めの如くどうしようもなく終わっている。でも、それでも出会えた2人は当たり前を知っていく。

 当たり前の知るたびに、日常に喜びを見出すたびに、彼らはやっと自らを見返す。当然のものすら持っていない欠陥を、普通から切り落とされた欠落を満たすものを見る。……そこで、彼らは怒っても良かったはずだ。自らのおぞましさを自覚させられるなんてろくでもない、ましてやそれは彼らに非はなく、簒奪されたのなら尚の事だ。でも、彼らは違う。隣人に、その当たり前がありますようにと願うのだ。

 アルクェイドは生きることを知った。無駄があって、喜びがあって、感謝があるただの毎日。それを願ったのは、何もかも奪われた少年。ただ幸福を祈る小さいもの。在り方ですら眩しい彼の、白無垢のように純粋な想い。その透明さに、彼女は初めて特別を理解した。……そしてこれは余談だが、それはエレイシアも同じだった。彼女らは、まったく同族嫌悪でどうしようもない2人は、同じく愛の光に救われた。これはそういうお話だ。そしてこれは、そんな光に灼かれた男の断末魔のようなものだ。

 志貴とアルクェイドのどうしようもない煌めきに。常人には理解できない程の、美しさしかないその在り方と生き方に。満月の下で全ての想いを、貰ったものを返すようにあらん限り振りまきながら跳躍するその姿に。涙腺が弱いのでただ泣くことはしょっちゅうなのだけれど、美しさに嗚咽したのは本当に久しぶりだった。


・空の二人の境界式

 いっそ心地良いくらいに涙に頬を濡らしながら、頭の隅でとある作品を思い出した。既に何度か例えを出しているが、それは『空の境界』だ。

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 月姫の一番の激情のシーンが『旅の終わり』であるように、空の境界のそれは殺人考察(後)の、式が幹也を想い殺意を抱くシーンだろうと思う。

 殺人衝動を抱えながらも、それに『人殺しはいけないよ』と当たり前を説く、ごく普通の人間。既にその人間が、手に保つナイフの温かみしか残ってないと知り、彼との当たり前の幸福の日々を振り返り、両儀式は目の前の人間を殺すことを決める。幹也をただ想うが故に、避けられない感情を抱く。

 ごくあっけなく殺人は終わる。大切にしていたものはあっという間に意味を無くす。どうしようもなくなって、両儀式のいのちはどこにもいけない。でも、彼女を幹也は抱きしめた。全て理解した上で、罪も命も背負うのだと。ずっと側で、はなさないのだと。

 それは、まるで夕焼けの教室で血を差し出すと言う彼のように思えた。それが彼女にとって赦されないことであって、その上で良いのだと。間違えてもその手を取るのだと。

 ……じゃあ、志貴と幹也、アルクェイドと式にどんな違いがあったっていうんだろう。もちろん、何を間違えたというのではない。強いて言うなら始まりから終わっていただけだ。もう後がない吸血衝動、最期の特攻の如き旅路。その最期に幸せを夢見ただけだったのかもしれない。――でもそれは、夢にも思わなかった優しい終わりじゃないかと、そう願いたい。

 僕が胸を焦がす場面に、勝手に類似性を見出しているだけかもしれないけど。それでも奈須きのこの語る、彼が描き出すこういう光が大好きで、まるで昔の親友にまた会えたような気がして、心がかき乱されて止まない。


・夢の福音

 『生命線』と『LOST』は、まさしくアルクェイドルートそのものだ。

 壊れかけの世界、目眩がするような現実。そんな中で、命の線に決して消えないで欲しいと。奪うことしかできないナイフで伸ばせたらと。月にそんな祈るような歌だ。まさしく『月姫』そのものだ。

 最期に、アルクェイドは夕暮れに融けるように消えていく。志貴に前向きに生きろと、そんなある意味で残酷な言葉を遺して、彼女は誰もいない場所に帰る。

 遅くなった別れを告げる少年を見下ろす満月で物語は幕を閉じる。そして最期のエンドロールに流れるのは『LOST』。いつか満ちたものも、その時は全てだったものも悠久に近い時の中で色褪せていく。そんなことを歌いながら、それはまるで眠り続けるアルクェイドに捧げるように聞こえる。彼女の魂に寄り添う鎮魂歌であり、彼女の夢を描き出す揺籃歌だ。幸せな夢がいつか褪せるとも、いつか思い出も感傷の1つに成り果てるとも、そこにあった感情はずっと本物だ。その価値が失われることはない。

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 ――僕たちが、物語に出会ったこの記憶もまた、きっと同じことだろう。彼女が何度でも夢見るように、僕たちもまた、物語の世界にきっと舞い戻る。それは、とても幸福なことだ。


・僕がロアとなる日

 物語と出会い続けるのは、旅をするようだと思う。どこにでもあって誰に語るでもない、そんな登場人物たる彼らの生きる世界に、書き手が全身全霊を以て切れ込みを入れる。その隙間を縫って歩いていく旅だ。そうした世界を掛ける旅をして、そこで出会った感情を、その世界を自らの内に取り込んでいく。

 でもそれは同時に、否応なしに変わり続けることときっと同義だ。旅路は一方通行であり、その物語を知らなかった過去 じぶんは遥か遥か遠く。後ろを振り返ってみても、霞んでしまってよくわからない。

 そんなことを幾度となく繰り返して、旅先の特等席で多くの感情に触れて。そして時には人生を変えるような、一生傍らに意識し続けるような幸せな出会いもして。

 でもいつか、その果てに自らの純粋さみたいなものを失う時があるのかもしれない。その世界の熱量に灼かれて、原形は何も残らないように。

 月光に目が眩んで『永遠』を間違えた神学者の在り様を、いつか自らに認めるのかもしれない。

 あるいはもう時既に遅く、とっくの昔に狂ってしまっているかもしれない。

 ……いつかロアになる日が、来るのかもしれない。

 それは怖いことかもしれないけれど、それでもこの旅は本当に楽しくて、やめられそうにもないのだ。旅を自覚してもう15年、そうして毎日を行き急ぐかのように置き去りにして、それでも次の世界に焦がれ続けるのだろう。だからこれは、そんな世界をまさしく創り続けるクリエイターという人種への身勝手なラブレターだ。


・『旅の終わり』にはまだ早い

 こうした感想も、今この時だけのものかもしれない。思い出は色褪せていくIician far gesund gemynd.。でもこの感情の、僕にとっての価値はずっと変わらない。一方通行な旅ではあるけど、またこの世界をきっと何度も覗きに来ることができる。そうして、その時の感情の記憶にはきっと会える。

 かつて僕は旅の最中に、とある出会いがあった。今という線は時間を刻一刻と切り取るのに、確かなものは後ろにある過去となったものだけだ。今という言葉は、未来を過去に入れ替える空っぽな境界線に過ぎない、そんな幻想。自分がそんな空っぽそのものであると気付いて来た道を振り返れば、そんな線をいくつも踏んだり、跨いだりした自らの足跡を認める。未だ僕のこの旅路で一番の輝きを放つ、福音の名残だ。

 ふと振り返ったまま見上げれば、その線を照らす満月に気が付いた。今にも落ちてきそうな宙を吊り上げる真円。これから何度振り返ってもずっとそこにあって、僕の歩んできた過去も、これからの行き先も照らし続けてくれる蒼い光。この光を背中に受けながら、この旅路を続けられる喜びを噛み締めている。

 行き先の空には、青い月に呼応して雲間から顔を覗かせた赤い月。ああ、なんて幸せだろう。あの月に出会って、自分という境界線で越えたとき、僕はどんな僕になるんだろう。ほんとうに楽しみで、月の兎のように頬が緩んでしまうのは仕方がない。

 いつか今の僕が霞むとも、その朧な影に、心から『楽しかった』と言えますように。




追記:後編書きました