Q2. 日記にはどんな意味があるのか?

 今月のはじめ、ブログをはじめよう、と決めた。備忘録と自身の虚勢を取り去るため。
 言葉のはけ口、わからないことの溜め池があれば、心の拠り所となる。自分を強く見せようと努めずとも、肩の力を抜いていても、外を歩ける。
そんな背景で始めたが、決めてから実際に公開するまで随分時間を取ってしまった。ずいぶん、たくさん気づいたであろうこと、感じたであろうことを取りこぼしてきた気がする。今日の自分が知っていることや感じることは、昨日、今朝、一時間前、さっきの積み重ねである。

ともすると、昨日のぼくが感じていたことは、今はもう形を変えてしまっているかもしれない。日々を記すという行為の意義は、この近くにあるのではないだろうか。

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Q2. 日記にはどんな意味があるのか?

明日の自分が、昨日の自分を知る足がかり。

日記は、一定期間の過去を振り返って記す行為だが、その本質は明日以降の自分のためにあると思っている。昨日と今の自分の変化を知るのに役立つ。

今の自分は、少なからず過去の自分の連続によって成り立っていて、日々少しずつ変化しているはずだ。けれど、昨日と今日、さっきと今の自分の変化を把握することは難しい。1日、1時間といった小さい単位での変化は、微量すぎて、繊細すぎて、気付いてあげられない。もっと大きいスパンで振り返ったときや、大きなライフイベントが自分に何をもたらしたか、という観点であれば変化は掴みやすいけれど。

少し本旨を逸れるが、自分の変化を知るときは、「恥ずかしい」感情を伴うことが多い気がする。たとえば、卒業アルバムに書いた将来の夢や、成人の自分に向けて書いた手紙なんて、開くのも気が引けるくらいに恥ずかしいものではないだろうか。むしろ、恥ずかしいものであるべきだと思っている。


ちなみにぼくの小学校の卒業アルバムの将来の夢には、
「宇宙大臣」と書いてある。

恥ずかしい

を通り越して、我ながらかわいい。

蛇足ながら解説すると、スターウォーズ的な世界観で、地球を代表する大臣のイメージだったはず。当時のぼくは、人の前に立つことが好きだった。とどまることを知らない自己顕示欲は、常に爆発寸前だった。「鶏口となるも牛後となるなかれ」をモットーにしていた。そんな精神で、学級委員やら児童会やらに就くうちに、気づいたことがある。ぼくは、会議が好きだ。1つの課題に対して、あーでもないこーでもないと膠着している時に、颯爽とくりえいてぃぶなそりゅーしょんを発表していた(つもりでいた)。気持ちがいい。

そんなところで、国という規模であーでもないこーでもないしている国会でこれをやったら気持ちいだろうな、という発想は、国→世界→宇宙へと雪だるま式に大きく化けて、宇宙大臣、そう書いた。

もしも、今でも当時と同様、「へへへ、かっこいいこと書いちゃって自分たら」なんて思っていたら、その時からのアップデートが無いに等しいことになる。かわいく思えるほど「恥ずかしい」のはすごく健全なことだと思う。
その「恥ずかしい」が過去の自分の未熟さを示すから。その一点の過去から今に至るまでの変化の証であるから。

ならば、1日や1週間という単位でその「恥ずかしい」を感じていたなら、自分の変化にもっと敏感になれるのではないか。

今、今の自分について記すことは、明日の自分のためにそれまでの進捗を下書き保存しておくことだ。本にしおりを挟むのに似ている。一気に読み進めてもいいけれど、どのくらいの期間でどこまで読み進めたのかマークしておけたら?
きっと自分について「わからない」は、どこまでわからなかったんだっけ、と途中から向き合えるようになる。最新のセーブポイントからいつでも始められるように、日々を記しておく。

そんな意図を持って日々の気づきをどこかに書き留め、週に2〜3度、一つ一つに向き合って考えてみる時間を取ってみようと思う。

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ただし

明日のぼくが忘れてしまう今日〜100の自問自答

コメント1件

何者なのかいまいちわからないですよね笑 ありがとうございます!
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