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【書評】中動態の世界 意志と責任の考古学 著:國分功一郎

読書の秋。
たまにはゲーム・アニメ以外に読書感想。ただし内容はゲーム脳。

この本は言語学の知見をベースに哲学者の國分功一郎が、現在使用されなくなった”能動態”でも”受動態”でもない第3の態である”中動態”に注目しつつ、現在における”意志”と”責任”のあり方を考察するといった内容になっています。

正直、言語学的な部分が学生自体に英語が苦手だった自分には難解でしたが、個人的な興味に基づいて自分なりに読み解いた感想をメモしていこうと思います。

とかくに人の世は住みにくい?

まず本書は大きな出発点として現在の動詞でいうところの”能動態”と”受動態”というあり方、つまり”する”と”される”という関係に注目しつつ、そこからこぼれ落ちる観点についての問題提起から始まっています。
それは”される”ものが常に被害者であり、”する”ものが常に加害者となるという考え方への疑問であり”意志”の存在とそれゆえに生まれる”責任”というものを疑う内容になります。これは現代のヘイト社会や反ファクト主義の台頭とも無縁の話ではないかと思います。さらにいえば、人類史規模の価値観やテクノロジーの変化、2000年以上前から今日に至るまでの哲学の議論の文脈、そして私達一人ひとりの心の問題につながっている課題でもあります。これは、「とかくに人の世は住みにくい」といえる時代たいして、”能動態”と”受動態”という考え以外からアプローチをすることでそれらの課題になにかしらのヒントを見出したいというのが本書のテーマとなります。

さて”意志”と”責任”が問題とはなんでしょうか。
例えば「薬物依存症の患者がしばしば薬物を断ち切れないのは果たして”意志”の問題なのだろうか?」という疑問に対して「それは責任を伴うものなのだろうか?」という問いがあたります(本書は医学書のシリーズとして刊行されているので関連の深いテーマです。)

別の例でいえば、「カツアゲの問題」とここで紹介されている「銃を突きつけられて万引をさせられることは果たして自分の意志によるものなのか?」(※「万引」としているのは私のアレンジです)といった問いについて考えていくことになります。

この問題を、”する””される”の関係のみで出来事を認識する世界観では、「”する”ものに常に”責任”がともなう」という発想から逃れなれないという考えを展開します。

そこで登場するのが”能動態”と対立するものとして”受動態”ではなく過去に存在していた”中動態”というものを持ち出すことで、さまざまな考え方のヒントが得られるとこの本はいいます。

なお、この本の副題として「意志と責任の考古学」とあるため、”中動態”についてその意味と歴史的な経緯や言語学的な細かい内容が記載されています。そのあたりの考察がこの本の肝だと思いますが、なかなかに難しいので、大いに端折りつつ、その肝の部分を個人的には興味のあるゲームの領域で置き換えて考えてみたいと思います。

それはともかく”中動態”とは何なのか?

ここでは本書で記載されているバンヴェニストの定義をまず紹介すると

”能動態”
動詞が主語から出発してその過程が主語の外で完結するもの。

”中動態”
動詞は主語の内部でその過程で完結するもの。

となります。
諸説ありますが、一番ぴったりとした言い方がこのパンヴェニストの定義なのではないかというのがこの本での主張です。すでに意味が難しいのですが、私のゲーム脳的な理解では以下のようになります。

スプラトゥーン実況的”中動態”の理解

まずあなたが、スプラトゥーンのようなシューティングゲームの自己実況をしていると考えましょう。”受動態”の考えが生まれる前の”中動態”の世界では以下のような考え方のプレイヤーになります。

”能動態”→例えば、プレイヤーの意識は敵を発見して自分が相手をキルすることに向いて発言している。「敵発見!殺るぞ!」のような実況。つまり自分の心は相手をキルしようとする自分を描写(自己実況)しようとしている状態。

”中動態”→例えば、なんらかの攻撃をうけてダメージを追ってしまい、自分のダメージ量がキルされるかあるいは生き延びられるかに向いている状況です。そして「うわ、痛い!ヤバやられそう(泣)」のような「自己のパラメータ」を実況をしている状況です。ポイントなのは、自分の中に起こっているダメージの環境変化を描写(実況中継)のみに視点が向いており、相手が誰かなどには自己の関心がフォーカスされていない状態と考えられます。

ここでは「誰が」私に向かって「攻撃」してきたのか?という視点はなく、素朴に「自分の行った行動」か、または「自分の中に起こっている変化」を描写するかのみの違いが対立しています。ここでは”受動態”と”能動態”という対立では表現されていないことがわかるかと思います。

私が面白いと考えるのが、言語では”中動態”はやがて歴史の中で消えていき”能動態”がとって変わったという歴史があるのですが、これがスプラトゥーンで考えると、さきほどの”自分の状況のみにフォーカスしている「”中動態”的なプレイヤー」「初心者的なプレイヤー(実況者)」であると考えれますが、”誰に”どのような客観的な状況でやられたか?(そこにチームとしての責任は?)ということに関心のある「”受動態”的なプレイヤー」「上級者的なプレイヤー」とも考えられます。人類史的な意識の時代的な変化がある意味スプラトゥーンのプレイヤーの中の上達の歴史の中ででも同様の事例を見出すことができるのではないかと思った次第です。
具体的に言うと

”受動態”→例えば「左上の高台にいるチャージャーから打たれた!」といった発言になるかと思います。極めて普通ですが、実のところ”受動態”と”中動態”という自分の描写だけの世界から相手と相手が意志を持って行動しているという妄想に基づく概念の飛躍があるからこそこのような考え方ができ、ある意味進化した考え方といえるでしょう。

実際、言語の進化に舞い戻って考えてみると言語は以下の段階を経て変化していったと本書で語れて言います。

【原初の言語】
”名詞(動作の実況を含めた)”だけの世界。(めちゃくちゃ昔)
野球の実況でいえば「ヒット!」「抜けた!」「三振!」といったその場の描写を単語として叫ぶだけの世界を考えます。
ある意味、非常にエモい時代。

【名詞と動詞】の世界”(めちゃ昔)
言語の構造化の段階

”受動態”&”中動態”の”態”を用いる世界(5000年以上前)
自分の意志と自分の内部に起こったことにフォーカスしている世界観。

【中動態から受動態が生まれ中動態が滅んだ世界】(2000年くらい以降)
←今ココ
自分の意志と外部からの意志の衝突(のみ)の世界。

と考えられます。(※年数はイメージで適当です。ご了承ください)

しかしそれは、おおらかな狩猟移民時代から厳格に責任の問われる現代社会への移行とも重なってくる変化といえるかもしれません。

つまり”中動態”の世界とは「ゆうたの楽園」

再びスプラトゥーンプレイヤーの進化に目を移し対比してみると
いわゆる初心者同士が素朴にゲームを楽しめる楽園(自分のプレイや色塗りをエンジョイ)
俗に言う「ゆうたの楽園」と呼ばれるものから、
殺伐として相手や味方を罵る(つまり全ては責任を伴うという考え)
「ギスギストゥーン」への変貌にも呼応しています。

これはさきほど人類がたどった素朴で幸せだった過去の時代から現代人の殺伐とした世界への進歩と今のヘイト高まる世界へと対応しているといえます。
大げさに言えば「ゆうたの楽園」にしばし想いを馳せることで、今あるこの世界の問題の解決へのヒントを得られるといえるのかもしれないというのが私の妄想となります。(というのは半分冗談ですが、ゲーム依存症の問題とも根底ではつながることだととは真面目に考えています)

”傷つく”という言葉の中動態っぽさ

話変わって、この本では記載されていない私独自の説明方法になりますが、個人的には”中動態”というものの理解へのアプローチとして日本語の”傷つく”という言葉を使うことで割とすんなりこれらの考え方を理解できるのではないかと思いました。

例えば以下のような作り話で考えてみましょう。

【上司のいったその一言】
ある日、20代後半の女性社員Aが40代上司Yに「そのピアスきれいだね」と言われた。しかしそれを聞いて女性社員Aぽろりと涙を流してしまった。このとき女性社員Aは”傷ついた”と感じた。理由は一昨日の晩に5年付き合っていた彼氏Bと別れ話をされており、その彼氏Bにはじめて声をかけてもらった言葉が「そのピアスきれいだね」だったのだ。女性社員Aはそれを思わず思い出し、涙が自然にでてしまったのだ。

この場合、上司Yが女性社員Aを”傷つけた”といえるでしょうか。
見方によればそうなりますし、実際セクハラやパワハラとなる場合もあるかもしれません。しかし、ここで”中動態”的に”傷つく”を解釈すれば、それは上司の言葉を受けつつも、主語を自分として想いが発生し、自分の中のさまざまな過去の経験や感情が作用しつつ、その”傷つく”という一連の現象が起こった状態になっています。(傷つく自分を自分が見つめる視点が重要)このように”中動態”的な考えをすることによって”意志”や”責任”を問い詰める以前に考えるべき別の存在が明らかになっていきます。

つまり、ここで重要なのは「上司の言葉」→「女性社員が悲しんだ」ゆえに「上司に責任がある」という性急な考え方ではこぼれ落ちる”彼女の内面で起こったもの”(そこへの自分と外の世界との介入のバランス)がより物事の本質な意味を持っているのではないか?ということを示唆しています。

スピノザの考えをヒントに

本書ではいわゆる”自由意志”の存在を認めない立場をとっています。この場合の”自由意志”とは「過去の履歴に関係なく発現する効果」といったものです。しかし、それでは「”自由意志”とは完全に過去を忘却した状態でしかありえない」ということになり、それではさすがにあんまりでしょう、と本書では語っています。(ハイデッガー絡みの話で難しいので省略)

では、われわれが考える”意志”というものがまったくないか?といえばそんなことはないと本書は展開します。そこで、もう少し”意志”というものをデリケートに考えるべきだというのが本書からのメッセージかと思います。そこで登場するのがスピノザの考え方であり、それらの内容が深く記述されることになりますが、ここで説明するのはかなりたいへんなのでそのあたりは自分で読んでほしいです。
以下は自分向けの解釈メモの記載になります。↓

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スピノザの考えからさきほどの女性社員の問題をゆっくりと考え直すと、
まずは一旦外部からの影響と思われる上司の言葉を受けて、自分の心が変容していく過程が初めにあります。コレ自体はどうしても避けられません(神=自然そのものでないため)しかし、すべてのものにはコナトゥスという自己の本質を保持しようという働きがあり、自分の心の本質を保持しようというコナトゥスを見つめることでその外部からの影響を軽減できるということになります。(というかコナトゥスこそが物事の本質そのものだといっている)その意味で、本書では人間には”自由意志”はないがその意味で”自由”はあるといっています。

例えば上司の言葉を受けた場合、過去を思い出して”傷つく”ことは避けられなくても良かった頃の思い出など本質である愛情そのものを保持しようと努力することで悲しみに完全に流されずに済むとも考えられます。これは一種の態度であり、習慣の獲得であり、理性とも言えます。考えようによってはそこに”自由”があるという訳です。
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最後に

スピノザは「善」とは己の活動量が増えることで「悪」とは活動量が減ること、そして感情には本質的に2種類しかなく、活動量が増えることで発生する”喜び”と活動量が減ることで発生する”悲しみ”しかないと言っています。このことは薬物依存症患者に対しては回復(活動量が増える)を祈ることであり、ヘイトを撒き散らすイカれたゲーマーにはゲーム本来の楽しみを思い出せるだろうか?という問いかけ(誰が悪いとかの責任という話でなく、楽しめてるかい?という話)からはじめるのもアリでしょう。

さて、以上は本書の読み方としてはメチャクチャでかなり間違っているかと思いますが、自分なりの読み方をするのが読書というものなので、哲学的な本を読みつつゲーム的な趣味の関心領域を広げていくのも楽しみです。

今後も読書感想があればnoteに書いていきたいと思います。

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