王位戦 木村一基九段のこと。~プライドの定義について考える~

昨日9月10日にあった将棋の王位戦で木村一基九段が豊島名人に対して勝利を収め三勝三敗のフルセットタイに持ち込んだ。

ある程度の将棋ファンならばこの結果に胸が熱くなるものがあることはわかってもらえると思う。自分は20年以上ゆるい将棋ファンを続けているため、同じく胸が熱くなるというか、現時点で目頭も若干熱くなっている次第である。木村九段がどういう棋士かここでわざわざ説明するつもりはないが、現在46歳であり、何度もあと一歩のところでタイトル獲得を逃してきた晩成型の棋士が、現在最強と目されている29歳の豊島名人に対して不屈の精神でカド番を凌いで最終決戦に持ち込んだというのが現在のざっくりした状況である。木村九段はタイトルを獲得したことのないにもかかわらず現在非常に人気の高い棋士の一人である。それは将棋の成績の部分より、解説の物腰のやわらかさや独特のユーモアにおいてであり、多くの人から解説名人と呼ばれている部分が大きい。またネットの若いファンからも「おじおじ」「かじゅき」「将棋の強いおじさん」などの愛称で親しまれている(自らおじさんを名乗ることもある)。もちろんバリバリのA級棋士であり棋戦優勝もある事実トップ棋士でありながら、偉そうなところがまったくなく自らサービス精神としてそういった面白おじさんを引き受けてくれていることが本当に素晴らしいところであるといえる。ときには自分がおじさんであることを棚に上げて心のなかで「おじおじ」と呼ぶこともある。そういうわけで木村九段は将棋界にとっても自分にとっても特別な棋士である。

さて、ここまでは前段である。

私がここで何を書きたいかというと、そんな世間の可愛いおじさん的な評価がありながら、私が木村一基九段に一番強く抱いている印象が「メチャクチャ将棋についてプライドが高い人」ということである。そしてプライドとはそもそもなんなのか?ということを考えてみたので以下に書き留めておきたい。それがこのnoteの主旨である。

私が感じる木村九段のプライドとは?

木村九段がプライド高いという言い方をすると「いやいや木村九段は腰が低く高慢なところは微塵もない!」という方が多くいるかと思う。もちろんその通りだと思う。わたしが感じるプライドとは「自分は将棋だけはどんな相手でも負けるつもりでは指さない」という強烈な意志の力である。

木村九段は晩成型の棋士である。2~3つ上のいわゆる羽生世代が十代や二十代でタイトルを取るのを仰ぎ見つつ、23歳に4段となり初のタイトル挑戦は32歳のときである。そのため過去のタイトル戦の下馬評では木村九段不利という評判も多かったと思う。実際にこれまで今回が7度目のタイトル挑戦であり、あと1勝すればタイトルがとれるという場面が今回で9回目だという。逆に言えばギリギリのところでこれまで負け続けてきた。タイトル挑戦というのはタイトルホルダーを除いた全棋士相手に優勝しているようなものであり、それを7回している時点で尋常じゃない強さなのだが、それでもタイトルが取れないというのはツキがないと嘆いても仕方がないところもあるかと思う。しかし、木村九段のインタビューなどを拝聴すると必ずどんなに世間で不利と見られていても自分が勝つという意気込みを隠さなかった。少なくとも私にはそう見えた。特に最近で印象的だったのは第二回abemaTVトーナメント。超早指しで最年長として出場し、若手のホープが並ぶ中なんと準決勝まで圧倒的に勝ち進み優勝した藤井聡太七段に惜敗したがそこまでの快進撃に藤井七段以上のインパクトを残した大会だった。そこでのインタビューでも「ベテランなのでだれも自分には期待してないだろうが勝ちたいと思う」といったニュアンスのことを自虐混じりに答えながらも、その実は強い自負を感じるコメントを残していたのが印象的だった。この大会はベテランのトップ棋士は参加しなかった。提案者であり第一回に出場していた羽生九段も第二回では参加しなかった。ある意味、醜態を晒す恐れもあり、敬遠されたといってもいい。それほどベテランには指し手の速度が早すぎる厳しいルールだった。そこをあえて木村九段は挑戦して素晴らしい結果を残した。しかし、なぜそうまでして戦うのか?なぜ挑戦できるのか?なぜ勝ちあがったのか?それを支える精神的な核はなんなのだろうか?

王位戦第六局の前に木村九段が揮毫した色紙は六枚その中に

『孜孜不倦(ししふけん)』というものがあった。
(ついでにいうと『おうい』という色紙があったもの木村先生らしい)

※ここでみれます。

意味は「孜孜」は熱心に努力することであり、「倦」は何度も続いて嫌な気分になるこという意味なので、総じて「何度も嫌なことがあっても努力し続けること」という意味になる。わたしはこれこそが木村九段の「プライド」と呼ぶべきものの核なのではないかと考える。

プライドの定義を考える

孜孜不倦(ししふけん)「何度も嫌なことがあっても努力し続けること」をもう少し分解して将棋に当てはめて考えると「どんな局面であっても簡単に”良し”としない、どんな局面であっても簡単に”悪い”としない。どこまでも精緻に考え続け、極限まで絞り出した一手を指す」という姿勢にある。これは将棋という極めて難解で繊細なゲームのプロ棋士なら誰でもそうなんだろうと想像するが、木村九段はこの将棋に対する意識の強さこそが、羽生九段や他のトップ棋士にも誰にも負けないという自負があるのではないかと思う。少なくとも私はそう感じる。そのことがなによりも素晴らしいのだ。そして突然で申し訳ないのだが、このことは木村九段や棋士に関わらず一般のプライドの定義としても良いのではないかと考えたのである。
つまり、

プライドの定義
「どんなことであっても簡単に”良し”としない、どんなことであっても簡単に”悪い”としない。どこまでも精緻に考え続け、極限まで絞り出して行動するということを己に科しているという姿勢とその認識」

といえるのではないだろうか。(※個人の感想&個人の定義です)

ゆえにプライドは原理的に傷つかない

例えば、ある人に悪口を言われたとする。そのことでプライドは傷つくだろうか? それはない。なぜならプライドはその定義により、悪口を言われても自分が”悪い”とも、逆に自分は”良い”とも簡単に決めつけず、一旦受け止めて考え抜くという作業を生むからだ。それはプライドを養う糧にしかならない。もしそれができないのなら、そもそもプライドなどないことになる。

もうひとつ「プライド」は「自分を信じる」こととは似て非なるものだと思う。「信じる」というある意味、都合の悪いことを心から消し去るような働きがあり、プライドにはそれはないと思う。そうではなく「悪いのではないか?」という疑念や事実があっても、それでもなお食い下がり続けることができる、そういう自分であり続けるという強い認識や無理やり行動していくことが「プライド」の本質なのではないだろうか。あえて言えばむしろ「信じる」というより何度でも繰り返す「祈り」に近く「信者」ではなく「祈る人」というのが真にプライドを持った人間なのではないかと思う。

以上の考えを経てやはり木村九段はメチャクチャにプライドの高い人だと改めて言いたい(※個人の感想です)。自分はそれができない。プライドがない。だからこそ自分は、木村九段の姿を、それこそ長年、七転八倒しながら進み続けるそのプライドの高さを、ひたすらカッコよく感じ、嫉妬し、応援したいと思うのだ。

最後に王位戦最終局に向けて

正直この文章は最終局の後では書けないと思ったので、普段タイムリーな話はnoteに書かない(書けない)鈍くさい自分であったけれど今回ばかりは急いでかかねばならないと思い早めにnoteに書いた。最終局後であれば木村九段が勝っても負けても、前者では嘘くさく、後者では慰めるトーンを帯びてしまうと思ったからだ。そうではなく、今この瞬間とこれまでの木村九段の持つ「プライドの輝き」こそなにより素晴らしいものだと言いたかったのだ。

さて、9月25,26日の最終局が行われる。とても冷静では見られない。そして私にはプライドがない。だから心の中でこう祈る「まぐれでも何でもいいから!今回だけは勝ってくれ!勝たせてやってくれ!!」と。



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