【天気の子】感想~心に雨空を残す映画~

昨日のレイトショーにて『天気の子』を観てきました。観終わって心に占めるのは晴れることのない雨空。それは東京に住むオッサンである自分からみて、それはある種の『申し訳無さ』がイメージとなったものだと思います。今回の深海監督はそれを確実に狙って表現してきており、そのあたりを中心に感想を書いていきたいと思います。

「ボーイ・ミーツ・ガール」は後景化し「天気」が前景化している映画

前段として私の中で深海作品の特徴としては

●「ボーイ・ミーツ・ガール」
●「超現実的な美麗な背景描写」
●「ナイーブなモノローグ」
という3点が大きな特徴だと考えています。

その中で前作『君の名は』に関しては「ナイーブなモノローグ」部分の殻を破って深海作品としては異例の爽やかさで「ボーイ・ミーツ・ガール」を肯定的に描き、さらに私小説的な作風からエンタメ的な作風にチェンジし、かつ震災というテーマを持ちながらも『社会に開いた』メッセージに変わった作品だったと思います。私はその変化には大いに賛成で『君の名は』は深海監督の才能が大きく飛躍した映画だと感じていました。(『君の名は』好きですよ!)

その上でほぼ事前情報なしで観た今回の映画ですが、もちろん3つの特徴自体はそのままありつつも、テーマとしてもプライオリティが大きく変化している映画であることをまずは指摘したいと思います。はっきりといえばこの映画の主役は『社会』でありその代表である『東京』であり、街の一人ひとりが発する気圧の総体としての『天気』(社会の空気・ルール)です。言わばその中で飛ばされた観測用の気球が帆高であり陽菜であり、我々視聴者はそれらの振り回される様から『天気』それ自体を見出し、主人公の『モノローグ』は減少させる一方で、『東京』の気圧を生み出した一員である受け手の中でこそ『モノローグ』は雨空とともにリフレインされるような構造になっていると考えられます。深海作品としては『君の名は』からさらに『社会に開いた』作品であり、むしろ『ボーイ・ミーツ・ガール』はあえて”陳腐化”し”予定調和”に作っていくことで『天気』そのものを際立たせているという大きなチャレンジがあった作品だったと思います。

「なぜ君は拳銃を拾うんだ?」と言いたくなる仕掛け

映画の序盤は上京してきた帆高くんの様子を小気味良いテンポとスーパーリアルな背景で見せていく描写は『君の名は』からさらに進化したような巧みさを感じます。その中でしばしば主人公の帆高くんが「東京は怖いなぁ」とつぶやくのですが、一方で東京にいる大人の側から見ると帆高くんの方が「怖いもの知らずだなぁ」とか「無茶だなぁ」と見えるように作られていると感じました。特に偶然見つけた拳銃をなぜ拾ってしまうのか(実際に後々問題になって困る)というところは大きなポイントだと考えています。
私が思うに作り手側はその疑問に対して
「逆に問うが、なぜ拳銃を拾うのが”不自然”にみえたのですか?」
という投げかけをしていると感じます。
この作品は言うなれば2つの『天気』がぶつかっていると考えられます。1つは『東京』の街が作り出す人々の意志の総体としての『人工的な天気』。もう一方は帆高や陽菜の心の中に湧き上がってくる『自然な感情の天気』です。いまの自分からみると帆高が拳銃を拾うのは『人工的な天気』の観点から不自然に思いますが、帆高の中にある『自然な感情の天気』の振る舞いとしては言葉では説明できないが、”そうせざるを得ないこと”だったと考えられるのではないでしょうか。このことで私にとっては『自然な感情の天気』をうっすらと思い出しつつ一方で東京の持つ『人工的な天気』の輪郭が際立ってくるような演出だと感じました。ここで特筆すべきなのは、この演出をすることによって主役である帆高が割とバカなウザキャラに見えてしまい主人公への感情移入が下がるというリスクをあえて犯してまで、本作は『人工的な天気』と『自然な感情の天気』の境界を際立たせることを優先させて作品を作っていることが大きな挑戦だと感じました。

物語はシトシトと”予定調和”に進んでいく

正直にいいますと物語の中盤、私は何度も腕時計を見てしまいました。「長いな、辛いな」と。最初のモノローグでも割と直接いっているように、この話の展開として天気を操る代償として陽菜が空にさらわれてそれを救い出すということはわかります。さらに東京の表のルールからドロップアウトしている帆高や陽菜が待ち受けている破綻の予感はかなり早い段階から”予報”しています。そしてその”予報”を裏切ることなく淡々と、雨がシトシトと降り続くように進行していく感じの展開が続いています。このへんもある意味意図的であり『人工的な天気』=”雨”が『自然な感情の天気』=”晴れ”を飲みこんで行くが不可避であることを描いていると考えられます。作品は雨は常に降り続き、陽菜が祈れば必ず晴れるというのもある意味”予定調和”すぎて不気味です。そこある”居心地の悪さ”の根本を分析してみると『東京』の側にいる大人としての自分が、似たような現実の不幸な状況を放置している(加担している)側にいるという事実が本当はあり、それを強制的に見させられ続けることが辛いことだったのだと思います(だから時計を見たくなった)。そしてそれこそが作り手の狙いだと私は考えています。なお映画のHPのあらすじでは、帆高たちが「運命に翻弄される」という言い方で書かれていましたが、むしろ私は「予定調和に飲まれていく」ということの表現の方がより内容に近いと思います。

終盤、音楽や演出はドラマチックだが心に雨空が残る

物語のエンディング、帆高が陽菜を取り戻すところなどは音楽や映像の盛り上がりは高まっていくのですが、私個人としてはロマンチックな感動は一切起こらず、「申し訳無さ」のようなものを終始感じていました。つまり、わざわざこんなにもドラマチックな行動をしなくていいはずの少年たちにツケ払わせている、ある種の罪のようなものが自分たちにあるのではないかという想いです。私はこのことが作品を貶める意味ではなく、それこそが作り手の意図であり、高揚感は一切ないですが、むしろ『映画』としては完成度を高めている演出の一環だと思っています。その根拠としては、陽菜を取り戻しても現実の問題は解決せず別れ別れになり、さらに雨が降り続く状況は回避できなかったという現実が全体のメタファーとして描かれていることからも感じ取れるかと思います。

それでも愛にできることはあるし、愛じゃなくてもできることはある。

結局のところ私がこの映画で感じた価値はなんだったのかということですが、1つのヒントとして最後の最後のエンディング曲RADWIMPSの「愛にできることはまだあるかい」の最後の歌詞にビビッときたので以下に引用してみます。

愛の歌も 歌われ尽くした 数多の映画で 語られ尽くした
そんな荒野に 生まれ落ちた僕、君 それでも
愛にできることはまだあるよ
僕にできることはまだあるよ

ここであるように今回私にとって『ボーイ・ミーツ・ガール』の位置づけは本作はだいぶプライオリティが下がって(作為的に)見えましたが、それでも結末では、物語の中で別れた二人も3年ぶりに出会い、街に住んでいた人もそれなり生活を始めており、3年雨が降り続く東京でも水上交通は発達しつつ、しぶとく『東京』を形づくっているよう描かれています。あるいは都市のみえないところで排水システムを改良していっている人たちもいるでしょうし、現実の世界でも交通事故の死亡者数は年々減り続けている(参考)ように誰かの仕事により「人工的な天気」も自然に負けずたくましいものだと思います。本作でいえば編プロのオッチャン圭介が帆高を雇う理由は実のところ明確にはなく、それは愛でも街のルールでもなく、昔見た自分への親切か気まぐれかよくわからないものですが、いずれにしても帆高はそれによって救われており、それもまた一人の人間の意志により創り出した気圧の変化であり、それが積み重なってドロップアウトしてもある程度の受け皿あったりするのが街の懐の深さや階層の多様さだったりします。私は結局のところ『人工的な天気』と『自然な感情の天気』の2項対立でない希望や価値をこの映画からは見出したいと考えます。それは愛だけでなく、それこそ映画のようなアートや仕事やちょっと親切、誰にも知られない良心のようなものに価値を置く自分のポリシーと重なってきます。いずれにしても前作のようなロマンチックやセンチメンタルな映画ではないですが、自分としては見て良かった映画でした。

最後に

物語の今後を妄想してみたのですが、私は東京に降り続く雨は遠からず止むのではないかと予感しています。何千人万人の人が晴れを祈っていれば、祈っている人々の中でローカルな晴れ間がポツポツと出てくることでしょうし能天気な奴らは思った以上に多いものです。なんにせよ「ボーイ・ミーツ・ガール」で起こせる奇跡なんて3年くらいが限界でそれが自然というものではないでしょうか?そこから先はまた別の努力や仕事の領分ですしエンディングの作中の大人はそんな態度だったと思います。
以上、長文の感想でしたが皆さんのお考えはいかがでしょうか??

おまけ

最初は池袋の映画館で観ようと思ってたけど、結局やめて他で見てしまったのはちょっと失敗。作中の風景とリンクするのでこれから見る人は池袋の映画館で観るのをおすすめします!


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