映画「ジョーカー」はハードな「天気の子」である

さきほどのレイトショーで「天気の子」みた同じ映画館で「ジョーカー」を鑑賞。意外というべきか、必然というべきか「天気の子」を観たときとまったく同様の鬱々とした気分を引きずって映画館から帰ってきました。ただ一つ映画の外のポスター見たときに感じた『想い』を除いては…。と思わせぶりに言い放ちつつ、ひとまずそれは後回しにして、映画の感想を書いていきたいと思います。
以下ネタバレありです。

「天気の子」と構造を同じくする映画


「天気の子」についての感想は以前にnoteにて記載しております。

どちらも観た人にはわかるかと思いますが、実際のところ「ジョーカー」と「天気の子」は非常に似ている映画であり、どちらも「街のメカニズム」から弾かれた人間がその中でどう振る舞っていくのかがキーとなっています。端的にいえば「天気の子」で放たれた弾丸は人には当たらないが「ジョーカー」でのそれは人に当たるように運命づけられているといえるでしょう。いや、それは簡単に運命と言っていいものではなく、環境によるものなのか?本来的に彼の持つ悪意なのか?意志といえるものがあるのか?という問題が提示されており、すべてはジョーカーの「笑い」によって表現されています。その「笑い」は単なる病気で笑っているのか、あるいは悲しみや絶望で笑っているのか、あるいは本当に可笑しくて笑っているのか、そのすべてが複雑に絡み合い受け手を揺さぶります。そのあたりがこの映画の抜群に素晴らしい点だと感じました。

もう少し「天気の子」との比較で言えば、とにかく「ジョーカー」はハードモードです。同じ仕事にあぶれた主人公であっても「ジョーカー」ではまともな人間との出会いもなく、出会ったヒロインは自ら作り出した幻覚であり、信頼している親にも裏切られ、ドラマチックな出生の悲劇すら捏造されていたものとなって彼を絶望させます。憧れの存在とも言えるロバート・デ・ニーロ演じるTVスターが招く『人気番組』は「天気の子」における神秘を司る存在である『神社』と同等のものとして配置されており、お互いの主人公はそこに暴走の末たどり着くことになります。(穂高くんは警察を振り切り線路上を走って拳銃を撃ったりするめちゃくちゃな男の子です)そしてクライマックスでは「天気の子」では街の雨を止めることよりも、ヒロインの救出を望む結果を選びますが、それは、ジョーカーがTVショーで自殺をする予定を変更し、ロバート・デ・ニーロを射殺することとは本質的には同じものです。どちらも「街のメカニズム」に反してある種の衝動に確かな自覚をもって『決断』したようにもみえます。この『決断』は「天気の子」ではある種の穂高くんの中に起こる自然現象として発生し「街のメカニズム」に対抗しうるものとして肯定的に描かれていますが、「ジョーカー」では追い詰められた中で生まれる「笑い」としてその『決断』が描かれています。それはロバート・デ・ニーロを撃ったことに象徴されますが、それだけでない「街の悪意」と「ジョーカー」の同一化が描かれています。そこに肯定的なニュアンスがないことは大きく2つの作品で異なることでしょう。(しかしジョーカー本人はみずからの人生を「悲劇」ではなく「喜劇」だという認識に至った点は見逃してはならないでしょう)最後に「天気の子」では3年後も雨が振り続けるという現実をみせつつも、「街」自体はたくましく生きていく光の面を残して一種の「街との和解」を持ちつつ映画は終わります。一方、「ジョーカー」ではそれらの暴走する出来事のすべてすら幻であり『ジョーク』であったというような解釈を残して終わります。そしてさらに「あなたにはわからないだろう」という言葉を残します。ここには大きなディスコミュニケーションを突きつけているようにみえますが、一方で我々受け手に対して「本当はわかるだろう?」といっているとも解釈もできるのではないでしょうか。

以上によって全体の重さはだいぶ異なりつつも「天気の子」を見たときのような同種のしかしながら、かなりヘビー思いを抱えつつ「現実での不甲斐なさ」を思い知らされて映画館をあとにしたのですが、映画館の外に出たときに本作のポスターを見た瞬間、これこそが現実のささやかながら「悪」と呼べるものを見たのではないかというささやかな発見がありましたので、最後にそれを記載したいと思います。(どちらかというとこっちが本題です。)

私達は「広告」という悪意に自覚はあるのか?

まず私がみたポスター(そのものではないですがネットから同様の写真を拝借いたしました)が以下のものです。

画像1

ここで私が見た瞬間に許せないと思ったのが「アカデミー賞は確実だ」の部分です。これはヴェネチア国際映画祭の選考委員コメントということです(本作は金獅子賞をとっています)


おそらく、これを受けてポスターに後付で入れたことだと思いますが、私にはまったく納得が行かないことです。
当たり前ですが送り手はこのコピーがあった方が「動員数を増やせる」と思っていれたのでしょうが、これが致命的にこの作品を冒涜しているように私には感じてしまいました。なぜならこの商業的かつ短絡的なコピーをいれるという行為が、まさに作中のロバート・デ・ニーロ演じるTV司会者が、単に観客の受けを狙うために「ジョーカー」をTVショーに呼びつけ、嘲笑するべき見世物として出演させるという行為と本質的には同じようなものだと考えられるからです。そもそもジョーカーという存在は本人は最後に『ジョーク』とは言っていますが、作中通じて彼は極めて徹底的に『マジ』なわけです。そしてこの作品の考える問題意識はジョーカーを通して現実社会に漂っている悪意をとらえているわけで、作り手側の意識や熱量も極めて『マジ』なわけです。だからこそ、作中ジョーカーはそういったマジな問題を単に「その方が客に受けるだろう?」という扱いで処理されること自体に怒りを感じたわけです。作中のクライマックスで印象的なのは番組に出演したジョーカーが、ロバート・デ・ニーロに対して、頭に1発、そして時間をおいて胸にもう1発と、2発の銃弾を撃ち込んでいることです。その1発目はジョーカー本人のどうにもできない『笑い』の中から生まれた衝動によって放たれ、2発目はそういった『マジ』に対するどうしようものなく『なめた態度』に対して明確な殺意を持って放たれているわけです。
このような読み解きを踏まえれば、ジョーカーの顔を使った『マジな』メインビジュアルの横に「アカデミー賞は確実だ」などという『なめた』表記すること自体がジョーカーを生み出す悪意の一端(ピエロの面)と同じになるわけで、いくら宣伝のためとはいえ、作品の主題に反するようなコピーをポスターに加えることは、実に浅ましいクリエイティブだと感じます。(ちなみに「本当の悪は笑顔の中にある」というコピーもそれを『悪』と言い切ってしまう時点でややピントを外している気もしますし、その「笑顔」というのが能天気に「アカデミー賞は確実だ」と表記できる感性と同種のものだと思うと、ある意味逆に正しい気もして実に複雑な思いです…)

せめて2発目の弾丸を打たれない自分でありたい

なぜこのポスターの表記ごときで、ここまで引っかかるかというと私自身、仕事の中でポスター等のコピーを作ることが多々あるからです。その中で上記と同様な安直なやり方(入れろと言われたので入れるなど)をしたことも多々あったかと思います。(そしてこれからも…)

しかし、こういった小さな悪意?とまでいえるかわかりませんが「なめた行為」こそが本作の象徴する「ピエロの面」であり、「ジョーカーを生み出すもの」でもあるわけです。だからこそ現実の世界の行動としての意識を持たねばなりません。今回はそういった自分の恥部をみせられるような気がして、このポスタースルーできず、かなり過剰に反応している次第です。

そして願わくば、社会全体を変えることができないかもしれませんが、自分から漏れ出す悪意は軽減できるわけで、まずはジョーカーから「2発目の弾丸」を打たれることのない自分でありたいと考えます。
そしてそれこそが殺伐とした「ジョーカー」の世界から「天気の子」のある種の救いのある世界にシフトするための重要なポイントになるのではないか?ハードモードからライトモードに移行できないか?というのが、ひとまず今回の私の言いたいことになります。

以上、映画「ジョーカー」の感想でした。




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スロース

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